1-6 第二親衛大隊の飼い馬
月明かりで淡く光る白亜の回廊。剣を振り回せる程に天井は高く贅沢だが、それでも馬上戦を得意とする騎士にとっては狭過ぎる廊下。
そんな場所で、クロトと仮面の暗殺者は戦っていた。
「シツコイ、邪魔ダ、死ネッ」
「暗殺者の割に口数が多い。内容も直情的でセンスに欠ける。それで次代女王を狙ったのは無謀だったな」
ここ数日の某少女との対話で、クロトの話術は磨かれていたらしい。逃亡を試みる仮面に嫌がらせの単発的な剣戟を繰り返し、言葉でも詰り、幼稚であるが無視するには度が過ぎる罵倒を重ねていく。
次代女王は玉座から退避しているが、まだ後宮から離れた訳ではない。次代女王が安全圏に逃れるまで、クロトは時間を稼ぐ必要がある。時間稼ぎと言わず暗殺者など斬ってしまっても構わないのだが、存外、暗殺者の体術は優れている。逃げに徹しられるとクロトの剣は届かない。
何より、先程は魔術というレアリティの高い手段で裏をかかれたばかりである。欲をかかず、慎重に仮面の力を見極めるべきだろう。
「それにしても、お前は本当にアサシンなのか? 魔術を使う暗殺者など珍妙な」
投げナイフの鋭い一閃が、クロトの前髪をかすめる。
ふと、クロトは何かギチギチという異音に気付いたが、音源は仮面の裏側、噛み合わせの悪い奥歯通しが擦れる音で間違いなかった。
仮面は、ようやくクロトを障害物として認めてくれたらしい。重心が後ろから前へ、体勢が逃走から攻撃へとシフトしていく。
「親衛隊でも実戦的な魔術を習得している者は少ない。習得していたとしても酷く使い勝手の悪いものでしかない。だが、先の視覚を奪う光や井戸から現れる際のカモフラージュ、まるで本職の魔術師のようだった」
現在、世界的に魔術を扱える人間は限られている。大陸の中央に広がる王国でさえ、純粋な魔術研究者は百人もいれば上出来だろう。
学問を学べる環境にいる人物が少ないのだ。識字率すら低迷している世の中では、基礎的な教育を受けられるだけでも十分に幸福である。国学や哲学を職にできる人物は下種な貴族よりも尊敬される。
そして魔術の大成者は、金の鉱脈に匹敵する国の資源となる。
「魔術は隠匿的な体質の学問だ。そして学習するだけでも相当の費用が必要となる。……アサシンに魔術を仕込むのは経済的に非効率だ」
「五月蝿イ……」
「いや、それとも前後が逆なのか。アサシンが魔術を覚えたのではなく、魔術師が崩れてアサシンになったか」
「――五月蝿イィいッ!」
投擲されたナイフを防御したのとほぼ同時に、クロトは嫌な感覚に襲われて床を転がる。
クロトは鎧越しに、直前まで立っていた場所で火柱が生じたのを感じ取った。人間を一瞬で炭化させる熱量が天井まで伸び上がっている。目が見えていれば盛大なキャンプファイヤーが拝めたであろう。
「キサマッ、本当ニ視力ヲ失ッテイルノカ?!」
「見てないから、お前はまだ生きていられる」
クロトの視力は未だに八割方失われている。だから、動きがどうしても一つ遅れてしまい、仮面を仕留めるに至らない。
だが、見えていないからこそ常よりも大胆に動けている。致命傷に至る危険でなければ完全に無視できてしまう今のクロトに対しては、奇跡を行使する魔術でさえ脅威には成りえない。
「もちろん、目の代わりがある事が前提だが……今は私よりもお前だ。魔術師が崩れてアサシンになったという事は、個人的に王族への恨みでもあるのか?」
「私ヲ正当ニ評価デキヌ愚者共メッ」
仮面が罵声で振動している。声がくぐもっていて聞こえ辛い事この上ない。仮面は素顔を隠す以上に、詠唱を誤魔化す効果があるのかもしれない。
「穢レタ血ノ小娘ニ、私ハ評価デキナイ」
「誰が穢れている、だと?」
「若造ガッ! オ前ハ何故小娘ガ顔ヲ隠シテイルノカ知ラズ、屈辱的ナ忠誠ヲ強要サレテイルノダ!」
「……次代の素顔を知っているような口振りだな。そして、それが暗殺の動機か」
「無知デ愚直ナル騎士ニ、正統ナル我ハ阻メナイ。王国ノ為ヲ思ウナラバ、迅速ニ死ネ!」
酷い言われようだった。国を憂う暗殺者と暢気な護衛騎士の酷い会話だった。
しかし、次代女王の容姿を知らぬクロトは、仮面に対して反論できそうにない。
やや思考を乱したクロトは、ふと、新たな違和感に戸惑う。いつの間にか、視界を曇らせる霞が消えかかっていたのだ。開きっぱなしになっていた瞳孔が、正常に機能し始めたらしい。
本来ならば視覚の回復は喜ばしい。が、戦闘中に視界が変化するのは甚だしく迷惑だ。残りの感覚に割り振っていた感覚が、視覚の再開により奪われ、一時的に低下した。
更に状況の悪い事に、黒装束は呪文を唱え終わる。
「――発動、拘束、氷付ケッ!」
床を蹴って魔術の直撃を避けようと試みたが、遅い。逃げ遅れたクロトの両足に冷気が纏わりつき凍結していく。
完全に復活した黒い目で確認する。クロトの膝から下が、氷で覆われ固定されていた。
「動キヲ奪ッタ、コレデ終ワリダ」
動きを封じる魔術を使われたようだった。人を射んとせばまず馬を射よ、という格言通りの戦法を仮面は実行したのだ。そして、魔術使用直後、精神的力の消耗を感じさせない動きで仮面は石床を蹴る。
あっと言う間に、仮面はクロトに近づくと、鋭利に先端が曲がったナイフを斜めに振り上げた。
体術、魔術の見事さに、クロトは敵ながら仮面に感心した。
ただし……騎士の脚を止めたぐらいで馬を射ったとは、酷い誤解であろう。
特別、黒い甲冑の第二親衛大隊の騎士の場合は、騎士の影が届く範囲へと不注意に近づくべきではない。
「死ネェェェェェ、エ、アガガァヴァッ!?」
暗殺者ナイフがクロトの首を貫く寸前。
どこからか出現した馬蹄が、目障りなハエを叩き落す程度の怒気で、仮面の脇腹を深く穿った。
暗殺任務遂行に適した軽い体が、冗談みたいな軌道で飛んで行く。運良く石の柱に激突したので、背骨を痛めた代わりに中庭まで飛ばされずに済んだようだが、軽く十メートルは飛ばされたのではなかろうか。
「……足癖が悪いぞ、ディ」
月明かりや松明に照らされる後宮内の人間の足元には、薄いながら影が存在する。その事は問題ない。
ただし、暗殺者を蹴った蹄が、クロトの影の境界内から生えているのは異質な光景だ。
「主を気遣っての行動ならば褒めてやれた。だが、個人的なイラつきを抑えきれないようでは、また躾のやり直しだぞ」
クロトの強めの口調に、蹄の生えた影は一度ビクリと震える。
躾という単語に怯えたからだろう。ディと呼ばれる影は主に縋り付こうと、足首、腿、尻と順番に本体を形成し始める。
実体化の割合に比例し、クロトの影の面積は減少していく。巨体の馬が後宮内に生まれると、クロトの影は完全に消失してしまった。
騎士なのだから、騎乗すべき馬を飼っているのは当たり前。そんな態度で、クロトは影の馬の出現に平然としている。が、魔術が実在する世界においても、影が実体を持つ現象は十二分に不可思議だ。
「ディ。懐くのは良いが、まずは脚の氷を砕いてくれないか?」
クロトの愛馬、ディは迅速に、そして愛らしく前足を動かした。威力よりも精密さを優先したその足蹴は、たった一度の衝撃で魔術の氷を細かく砕く。
命令を達成したディは、頭を撫でろと強請る。
ディはとても甘えん坊だ。たった二年で外見は鎧状の甲殻を備えた六本足の凛々しい優馬に育ったというのに、内面はまだまだ幼い。飼い主であるクロトは、あえてディの性格を直そうとは考えていないのだが。
「ソ、ソレ……ガ。第二親……隊、飼、ラシ……魔獣………カ」
クロトは、掠れた声がした方向に視線を向ける。
壁に寄りかかり、脇腹を両手で押さえながらも、仮面は立ち上がっていた。
「不意打ちでも気絶しなかったか。魔術師崩れにしてはよく体を鍛えてある」
しかし、仮面はもう戦える状態ではない。立ち上がっただけで限界だ。
体重が五百キロを超えるディの後ろ足を生身に受ければ、肋骨が折れるだけでは済まされない。内蔵が破裂し、最悪、蹄の形に穴が開く。現に、仮面は肺を潰されてしまったのか呼吸が荒い。もう、まともな魔術詠唱はできないだろう。
「次代を逃がす時間は十分に稼げた。そちらが負傷してからで悪いが、そろそろ本気で戦わせてもらう」
クロト達は移動しながら戦っていたので、戦場は廊下から中庭にまで移っている。狙って誘導した訳ではないが、騎士特有の巨大な得物を振り回すには好都合な場所だ。
影で出来た馬装に足を掛けて、クロトは愛馬に飛び乗る。
そして今まで構えていた剣は鞘に戻し、馬の背中から迫り出した棒を掴み上げる。地面に切っ先を向けて構える間に、武具の長さと重量が増していく。
生成からおよそ三秒。騎乗したクロトは、三角錐型の重量武装を装備した。
「あらゆる環境に適応する魔獣を愛馬とし、あらゆる戦場を走破できる人馬一体こそが、第二親衛大隊に属する騎士の真価」
後宮の中庭に現れたのは、影を纏いし一騎。
鎧も馬も全てが黒一色で統一されている。
「次代女王の命を狙ったのだ。加減を、期待するなよ」
構えたランスの重さを確かめた後、クロトは敵を見下ろす。
これで王手だった。
どう事態が推移したとしても、クロトが仮面に敗れる事は有り得ない。仮面の生死は保障できないが、それさえもクロトの腕前次第だろう。
「――――あら、クロト。まだ終わらせてなかったの?」
ただし、護衛騎士の勝利が、次代女王の生存に直結してはいない。