2-9 騎士は女王を望む
土竜男との死闘が開始されたが、既にクロトは血を吐く程に負傷している。連戦で集中力が切れ掛かっている。
「お前に直接の恨みはないが、五体満足では返さん! 人間として生まれた事とヒトの女に手を上げた失態を呪え!」
恨み事十割で構成された土竜男の怒声でさえ、クロトを戦闘に集中させてはくれない。
クロトの視線は巨体の遥か後方の、有角の少女に向けられ続けている。
「逃げるんじゃねぇよ!」
大樹で閉鎖された森林で、土竜男はその一本一本を倒壊させて突進していた。
見た目通りのパワーを有した強敵であるが、見た目通り俊敏さもない。万能馬のディに騎乗したクロトを射程に捉えるにはあまりにも遅過ぎる。
とはいえ、気配の隠匿に長けた少年と強固な翼の女、二者の前例が存在する。土竜の男にも巨体に見合った特殊性が存在するだろう。
クロトはまず相手の能力を知るために、ディに回避を厳守させる。
「ディ、奴は鈍足だがデモンの混種だ。油断せず距離を保ち続けろ」
しかし、ディは、飼い主の真意を正確に受け取り、クロトが戦闘に集中できるまでの時間を稼ぐ。
「もらった! ……ちぃッ」
巨大な古木を盾にして土竜男の攻撃を避ける。尖った爪と突き出た甲の前面が太い幹を貫通してしまったが、戦慄の光景を無視してクロトは深く物思いに耽っていく。
ガーネットとクロトの関係とは何なのか。
そんな些細な事柄、今更、拘ったりはしていない。
ガーネットは女王として決して推薦できない人材だ。半分人間ではないという血筋もそうであるが、血筋など気にならないレベルで人格が不適合だ。度量と知性が備わっている分、悲劇的とも言える。
クロトがこれまで仕えた結論であるが、ガーネットは人間を見下している。自分以外の生命体に親近感が沸かないのだろう。不貞を働いた母親から肉親の絆を教わったとは思えない。長く後宮に囚われていた状況で友人が得られたとも思えない。
だから、ガーネットが執り行う政には一切の情がない。
サル山のボス争いを鑑賞するかのごとく、人間の利己的で自虐的なしがらみを無視できてしまうだろう。大貴族も貧乏農民も彼女の眼下ではただの人間でしかない。どれだけ凄惨な事件でも人間が仕出かしたものであれば、ガーネットは嘲笑できてしまう。
よって、ガーネットは不平等なく国を統治できる。
……そんな心の欠けた者が女王として完璧などと、大口では言えない。
「妙な馬だ! チョロチョロと逃げ続けるかッ」
一方のクロトはと言うと、他人の事をとやかく言える立場ではなかった。本性は農民の一子、女王の近衛を務めるには身分不相応な人間である。
しかし、この主にしてこの騎士なのだろう。
少なくとも護衛騎士としての数週間、充実した毎日を過ごした、とクロトは述べる事ができる。
「とりあえず、土に埋もれてろッ!」
土竜男の両の手が巨体の頭上に振られて、頂点を越えた瞬間、急速落下し地面に叩きつけられた。
大地が覆る。
水平が垂直へと置換されていく。
空が落ちてこないように世界は傾かない。そんな常識を土竜男は地層ごと叩き割ったのだ。
両手を振り下ろしただけだというのに、森の地層が数枚、馬鹿力に耐え切れず跳ね上がる。森の一部で畳返しが発生した結果、ディに騎乗したクロトが立つ地表ごと垂直に傾斜し始めていた。
傾いた地面に立っているクロト本人は、何が起きたのか分からない。物思いに耽っていたからという致命的なミスもあったが、地盤をちゃぶ台返しする攻撃は誰にだって想像できない。
ディだけは地面の傾斜角が七十度近くになっているのに気付いていたので、馬蹄をスパイクに変化させて退避を開始した。傾斜角はどんどん増していっているので、そう遠くない未来に九十度を超えてしまう。逃げ切れなければ、完全にひっくり返った大地に潰されてしまうだけだ。
ディは傾斜した地面さえ走れる特殊騎馬だが、流石に足場が悪過ぎる。ひっくり返ろうとしている大地は幅八メートルを超える。普通に逃げるだけでも五秒は欲しい。
主を守ろうと必死に脚を前に出し続けたので、ディの巨体は無事、安全地帯へと抜け出せた。
ただし、着地を考えている余裕はなく空中へと跳んだ。ディは横倒しになって大地を滑る。背中に乗る主が馬の重量に潰されないよう、ディは体を影に戻して霧散した。
愛馬に助けられたクロトは、地面で頬の皮膚を削った後、立ち上がる。
倒壊した分厚い地層と振動、押し出された空気と土煙の濁流を黒い甲冑越しに感じながら、クロトは目を凝らす。が、崩壊の中心にいるべき巨体が確認できない。
土竜男の姿が消えている。
「あれだけの寸胴巨体で、どこに?」
木の幹よりも太い土竜男が隠れられる場所はない。そもそも隠れる意味がない。土竜男はクロトとの腕が届く距離での戦闘を望んでいたはずだ。
「――振動ッ!? 不味いッ、奴は地面の下か!」
「もう遅い! 俺は地下を掘る方が歩くよりも速い」
土竜男の声は、クロトの直下から土砂と共に突き上がった。
次いで登場したのは、クロトを覆い隠す巨大な掌で、迷う事なく潰しに掛かる。
クロトは抵抗する暇さえなく、全身を叩きつけられてしまった。壮絶な圧迫に負けて、地中に縦半身がめり込む。
「……多少やり過ぎたか。この姿では加減が効かんから、仕方なかったとはいえ」
土竜男の呟きが僅かにクロトの耳に届くが、うまく聞き取れない。
全身余すことなく、内臓、骨までもが悲鳴を合唱しているのだ。聴覚が正常に機能していたとしても他人の呟きを聞いている余力はない。
脳は潰れていないはずだ。心臓も潰れていないだろう。骨格は怪しいところで、肺は潰れてしまったか。
「まぁ、それでも生きているってのは、しぶてぇな。人間」
他に何かを行う余裕のなくなったクロトは、仕方なく、ここ数日で発生した割に今後の人生を判断できてしまう程に深い悩みを解決する事にした。
全身に重圧を加え続ける巨大な手の隙間。土竜男の爪の間から見える光の向こう側に、ガーネットは見えない。
「自分は……自分はっ、悩んでいたんだ」
「ん、生きてた上に、肺も潰れていなかったか」
そんな可憐な光景は、次代女王には似合わない。
「王国を担うべき次の女王が人間ではないと知った瞬間、自分は動揺したっ。半魔に仕えていたと知り、今日まで自己疑心に囚われていたっ」
きっと、ガーネットはクロトの悩みなど最初から気付いており、土竜男の背中越しに見透かした視線を向けているはずだ。
「ハーフデモンに対する人間の感情として、お前のそれは正常だ。人間として正常という事に魅力はないと俺は思うが」
よって、クロトの言葉は告白には成りえない。ガーネットに聞かせる意味もない。
「自分は、自分自身を訝しがっていたんだっ!!」
見ず知らずの混種に対しては言うに及ばず。そもそも、生死の境を彷徨っていたとしても、主や他人に自分己の内面を晒すような真似は恥ずかしくてできない。
つまり先程からのクロトの言葉はすべて、ただの独白だ。
「どう思考を重ねてもガーネットを問題視できない自分が不気味で、信じられなかった。良識を持った騎士ならば、あの魔術師崩れの仮面のアサシンのようにガーネットを殺そうと思うべきなのに、自分の心には一握も浮かばなかった。こんな欠陥騎士でガーネットを女王にできるのか、そんな辻褄の合わぬ落胆さえ……」
伝統やしりたりに属せないガーネットを女王に推す事はできない。そういう常識が理解できているのに、クロトはガーネットの護衛騎士である事を誇りに思っている。
何か重大な、ガーネットを崇拝する切っ掛けがあったのかと訊ねられても、クロトは首を傾げ閉口してしまう。好感を覚えた記憶もない。いつの間にか、クロトはガーネットの忠実な下僕と化していたのだ。
ただ一点、ガーネットに抵抗を感じない事に、クロトは抵抗を感じている。
端的に言えば世間と自己の軋轢。死屍累々の合戦上で人命の尊さを問う程に今更な悩みである事は、当然、クロトとて承知している。が、個人的には酷く切実な問題だ。
「部下達を見習い、素直にガーネットに仕えられたらどんなに楽か。しかしガーネットを尊重しているという事は、行為自体が既に歪んだ行動で、つまり自分も歪んだ人間という事だ。そして歪んでいるからこそ、素直になど成れない」
独白を続けるには息苦しいので、クロトは肩で土竜男の掌を押し上げていく。
「ならば、自分が己の悩みを払拭する方法は……一つしか残っていないではないか」
全身を押し潰す加重は変わらず続けられているため、まずは右腕を支柱とする。
左腕、頭、肩、背、右脚が連動的に空間を押し上げ、立ち上がるためのスペースを確保する。そして確保できたスペースへと更に体を滑り込ませていく。
石壁を背負う苦痛に筋肉が震える。重量物を独力で押し上げようという試みが大きな間違いで、筋のいくつかは擦り切れてしまった。
「何が何でも、ガーネットを女王にする。歪んだ者でも真っ当に女王を務められる事、女王を護れる事を証明してもらおう。女王に仕えるのではなく使っているようで心苦しいが――」
クロトは直立を邪魔する巨手を重量挙げのごとく一気に持ち上げ、投げ捨てた。
「――それが、歪んだ騎士の忠誠心というものなのだろう!」
一度は己を潰した魔手を押し退け、クロトは半魔の巨体と対決する。
右手を掲げて、ディに命じる。
地面を這うクロトの影は収縮していく。反比例して、右の手中からは剣の形状をした影が伸び出して、着々と密度を増していく。人影と人影が重なった部分が他よりも濃いように、影の剣も濃度を上昇させる事で強度を倍加できるのだ。
すべての工程を終えるまで三秒以内。死闘において、決して短い時間ではない。
しかし、だというのに……土竜男は三秒間、呆然とした顔付きのまま動かなかった。人間で表すならば、まっすぐな瞳をした馬鹿を目撃した男の顔を土竜男は作っていた。
強靭な体は反射的な防御反応を示し、魔人の本能はより凶暴に自衛を求めて両腕に力を込めさせている。それでも、土竜男の心はどうしようもなく強張ってしまっている。眼前で立ち上がった珍奇な生物から目を離せない。
ようやく土竜男が動き出したのは、クロトに剣で斬られた後だ。
左の下腹から対称に位置する右肩へと走った刃に、土竜男は紅い両眼を見開く。
「――なァッ! まさ、か。まさ………か?!」
クロトも剣を大きく振り放った体勢のまま、土竜男を睨む。
「ハーフデモンの体が……傷付こうとは」
土竜男の腹部は、体毛が僅かに刈り取られ、浅い切り傷に血が滲んでいる。大剣で斬り付けられたというのに、ダメージは大きくない。
影の大剣の切っ先が本体から折れ飛んで、陽光に照らされて霧散してしまう。
「予想通りと悔しがるべきか。やはり混種は恐ろしい。ディの最大強度で斬れぬとは」
「……予想していたならよ、どうして逃げない。ハーフデモンは窮鼠に噛まれても死なんが、人間を見くびって死んだ奴は大勢いる。だから俺はもう油断できん。全力でお前を殺すしかない」
無防備な状態を狙った最大の一撃ですら、目前の混種には効果がなかった。せめてクロトが連戦で疲労していなければ、負傷が続いていなければ結果は違ったかもしれないが、悔やんでも状況は好転しない。
この敗戦濃厚の事実を冷静に受け止めるならば、残された術は撤退のみとなる。強敵にむざむざ殺される必要はない。利口にガーネットを救出した後、尻尾を巻いて逃げれば良い。
「生憎と、主の意向次第だ」
けれども、クロトは騎士だから、後ろに下がらない。下がれない。
主人たるガーネットは、まだ戦いを静観し続けている。交戦命令は継続だ。
「それに仕掛けてきたのはお前達のはず。確かに単身での勝利は望めないが、戦意を失っていない相手に勝利宣言など、お前はまだ我々騎士を侮っているぞ」
クロトは折れた剣を両手で握り直す。形も復元して戦闘続行の意思を土竜男に伝えた。
剣を向けられた土竜男は、舌打ち混じりに渋々と前傾姿勢を取る。
巨体と騎士、お互いの顔が近づいていく。土竜男にとっては言葉通り鼻先にクロトが立っている。
お互いに、動いた方が負けるような強迫観念に襲われながら、先手を取らねば即死する恐怖に怯える。
張り詰めた弦を更に引き、脚部に力を蓄えていく。
弦が千切れる寸前、最大にまで高めた力で前に一歩踏み出す。と、ほぼ同時に土竜男も動き始め――。
「――ストーーーーーップっ! そこまで」
――接触までもう半歩という大事な場面で、鶴の一声が掛かった。
クロトが突然停止できたのはお声を予想していたからで、土竜男が停止してしまったのは唐突な少女の声に戸惑ったため。
声を聞いてから体の動きが完全に止まるまでのタイムラグに、剣先は土竜男の顎数ミリ手前まで達してしまったが、ギリギリ間に合ったと言えるだろう。
「これ以上は戯れで死人でちゃうから、全員停止しなさい。クロトは追加で、全部分かっていましたよ的な顔を止めなさい、不敬罪に処するわよ」
「お前は……見慣れぬハーフデモンだが、どうして命令され――」
「黙りなさいっ! 熊か土竜か分からぬ輩に、次代女王に逆らえる権限はないの」
声の主にして護衛騎士の主にして次代の女王、ガーネットが腰に両手を当てた格好で命じている。
果敢にもガーネットに食らいつこうとした土竜男は即座に一蹴された。巨体を有しているのに、ガーネットの華奢な体に見合わぬ高飛車な、もとい高貴なプレッシャーに気圧される。
「私の声が聞こえなかったのはそこの混種だけじゃないようね。私は、全員止まれ、と命じたのよ。突っ立っていないでさっさと武装解除して出てきなさいっ!」
ガーネットは植物しか生えていない森を睥睨して、不満気な声で命じ続けた。
クロトの元に、ディの体を通じて数人分の動揺が伝わる。気配を遮断していた彼等が全員の中に含まれている事実にショックを受けているようだ。
次代女王奪還戦であったこの戦闘は本人の宣言により終了してしまったので、クロトは姿を現すよう小隊全体に命じる。
「全隊、速やかにガーネット様に従え」
倒壊した大樹の陰から、一人また一人と黒い騎士が現れ始めた。
隠れて機会を伺っていたクロト小隊の面々は、影の魔獣を擬態させた対大型魔獣用の大剣、ランス、弓で武装、または三体共同で設置した坊城戦用の大型石弓の照準を取っていた。クロトの言葉を切っ掛けに武器を無害な影へと還元していく。
「まったく、苦戦していた割に戦力はちゃっかり温存しているなんて。クロトって騎士らしくない。卑怯で臆病」
クロトの口の動きは、仰る通りで、と訳せた。
「さてと。これで全員、と言いたいけど……。いつまで木の中で蹲って震えているのっ。さっさと出てきて案内なさい」
ガーネットが見上げる古木が一度大きく揺れて、梟が住んでいそうな洞から少年の泣き顔が現れる。
少年の特徴である獣の耳は両方とも縮こまっていた。
「ガーネット様。あの少年に案内とは、どこに赴かれるつもりです?」
「ただの里帰りよ」
王宮生まれの幽閉育ちであるはずのガーネットは、不吉な笑顔で答えた。




