2-8 半魔との連戦
馬が走れるとは思えぬ悪路を、狭所を、ディは駆け抜けていく。
外殻を磨り減らしながら樹木の狭間を突貫し、湿気で滑りやすくなっている草葉の地面をスパイク状に変化させた蹄で力強く越えていく。この地形を無視した走行こそ、第二親衛大隊が魔獣を使役してまで追及した機動力だ。
『――ま、そういう事だから』
そして速度を落とさず森の中心まで迫る。と、藪の向こう側から、微かな声がクロトの耳に届いた。
クロトの忠誠心が正しければ、この自信に満ちた声はガーネットの美声で間違いない。
『私を楽しませてみなさい』
この世の全てを見透かしたかのごとき傲慢な声質。やはりガーネットで間違いない。
救うべき君主が直線上にいると知り、クロトとディは人馬一体の突風と成って藪へと突入した。
「ガーネット様、ご無事ですかッ!」
森のちょっとした広場、一筋の陽光が射す場所。その光のスポットを半歩避けた場所に、ワインレッドの艶やかな髪を持つ少女が佇んでいた。
「良いタイミングね、クロト」
さらわれの少女にしては、ガーネットの第一声は酷く淡白だ。
八重歯が覗く程の笑みも、救援の到着を喜んでいるにしては唇が歪み過ぎている。
……いや、そもそも、己の誕生日さえも楽しみにしていない少女が、騎士に助けられるシチュエーションを素直に喜んでいると思う事自体が間違いなのだろう。
君主の微笑みを疑い、クロトは周辺を見渡してみる。
不審な事に、ガーネットをさらった有翼女と尻尾付きの少年を発見できなかった。ディの影を薄く広げて探索するが、見える範囲には何もいない。人質連れでの逃亡を諦め、ガーネットを置いて逃げ去ったのか。楽観的に考えれば、そういう事になる。
「でも……本番はこれからだから、気を付けなさい」
しかし、接近するクロトに向けて、ガーネットは注意しろと命じた。
だからクロトは、ガーネットの言葉の意味を問うような愚かな真似はせず、忠実に命令を遂行する。
周囲一体に何の気配も感じてはいなかったが、クロトはディの首筋に右手を突っ込んで影の剣を抜き出す。続けて、無造作に背後の空間を斬り裂いた。
「ひふぇぇッ?!」
手応えはない。
ただし剣先が、気配なく私の後ろに近づいていた者の鼻先を掠めたらしく、気の抜けた悲鳴が後頭部に響く。
ディを反転させて、クロトは腐葉土に尻餅をついている少年へと剣先を伸ばす。
「……これで剣を向けたのは二度目だが、騎士の顔は二度もあると思うか?」
「思います、果てしなく思いますっ! ああっ、そんな狐の皮を剥ぐ狩人のような怖い顔で僕を見ないでッ」
クロトは尻尾を丸めて震える少年を睨む。が、直に目線を外した。少年を許した訳ではない。少年にトドメを刺している間にクロトが殺されてしまうからだ。
何層にも重なる枝葉の上から、荒鷲にも似た女の影が落下していた。
「潰れろォォーーッ!!」
「得意な戦法に頼り過ぎだ。どこから奇襲して来るのか予期できていたぞ!」
クロトは一切の恐怖心を捨て去って、ディに垂直跳びを命じる。
空を飛べる相手に対して地を這いずり回ってはいられない。相手が降下した今こそが最大の好機だ。
「なァッ、コイツ捨て身で!?」
両脚を内側に向けて踏ん張り、ディから振り下ろされないように耐える。
目測を誤り頭蓋ではなく頬を深く裂いていった有翼女の鉤爪を素通りさせ、女の懐に潜り込む。
「串刺しにされて照り焼きにされないだけ、ありがたいと思えよ」
カウンターの要領で有翼女の鳩尾に拳を叩き込んでから、クロトはそう言い放った。
次代女王の誘拐は、弁護士なしの刎頚に値するが、暗殺の動機や混種の里の事など、有翼女や少年には尋問したい事が山ほどある。戦いを平然と傍観しているガーネットの態度にも多分に思う所があった。
白い翼をピクリと反応させてから、有翼女は地に落ちていく。一撃で気を失ってくれたらしい。
「んー。デモンの混種と言っても、案外弱いのねぇ」
失望という文字を墨で頬に塗ったような顔で、ガーネットは嘆息する。
「……ご冗談を。私の身近には王国さえも手玉に取ってしまいそうな混種の少女がいますよ」
戦いのいろはを知らないガーネットには、クロトが圧勝したかのように見えたのかもしれない。
しかし、実際は運任せの辛勝であった。クロトは少年の気配は全く感知できなかったし、有翼女はワンパターン攻撃しか繰り出してこなかったから一撃で仕留められた。
「まぁ、いいわ。私の騎士が強かった事が証明された訳だし――」
「ガーネット様、少しお話が」
「――まだ一人残っているし」
ガーネットが何かを言い終わる前に、クロトとディは強い縦の地震に体を揺さぶられた。
違う。これは地震ではない。もっと局所的な振動だ。クロトの直下、地面の底から何者かが急速上昇している。
「マチカァァァアァッ!」
振幅が最大になった瞬間、地面が膨れ上がって縦に裂ける。
裂け目からは、有翼女を案じる大声が漏れ出し、次に巨大な獣の掌が伸びてきた。
指の一本が人間の脚部の太さに匹敵するだろうか。そんな規格外の手の甲でディを殴打されて、クロトは落馬する。肩から落下して脱臼しないように全身で受身を取ったが、衝撃は完全に殺せない。有翼女に受けていた胸部のダメージを強く思い出してしまう。
巨大な手の動作は、羽虫を払う仕草に似ていた。
たったそれだけの動作で巨馬を転倒させる威力と体積を、地中から現れた巨体は有していた。
「無事か、マチカ! おい、マチカッ」
完全な奇襲だったが、落馬して死に体となったクロトへの追撃はない。
クロトは己がまだ生きている事を不思議がるが、理由は単純だった。巨手の持ち主はクロトを襲ったのではない。翼女を助けるため、邪魔な馬と人間を掃っただけらしい。
思い出した胸の痛みを呑み込みながら、クロトは地下から現れた男を確認する。
掌に包んだ翼女の頬を、巨大な獣の男はやさしく撫でている。ガラス製の想い人を無骨な手で砕かぬようにと、不慣れだが繊細に、触れている。
一方の女は気絶したまま目を覚まさないが、胸は上下に動いていた。
「お前って女は……俺をどこまでも不安にさせる」
有翼女に白く立派な翼があったように、男にも人間には存在しない特徴がある。ただし彼の場合は、人間としての容姿よりもデモンとしての形質が強い。
外観は土竜と熊を掛け合わせ。
四肢は地下生物。
全身は茶色い毛皮の獣。
顔の形や、手と腕との比率は人間からかけ離れている。二の腕を包む程に肥大化した甲の外殻と、鍬のような爪が一番の特徴であるが、有翼女を片手のみで持ち上げる巨体こそが驚異的だろう。
「人間の騎士よ、お前にもお前の立場というものがあるのだろう。俺等が次代女王を暗殺しようとしたのだから当然だな。だがな……だからと言ってなッ」
落馬の衝撃から回復し、クロトは寄り添ってきたディに乗り直す。背中を見せないように平行に移動しながら、土竜男との距離を確保する。
男の眼光は、二人の半魔を倒したクロトを警戒させる程に紅い。
「ヒトの女が傷付けられて、黙っていられる道理はないだろうよッ」
大樹の根元に有翼女をそっと下ろしてから、第三の刺客、土竜男はクロトと対峙した。




