2-7 逃げる者も追う者も等しく迷う
――過去、ある少女の両親が死んだ日――
「ねぇ、どうしてお母さんもお父さんも帰って来ないの?」
少女は己の背中から生えた翼を抱きながら周囲の大人に訊ねている。あまりにも強く抱き込んでいるものだから、白い羽が数本抜けてしまっている。が、少女は気にしていられない。
小さな翼の少女の両親は、昨日から家に帰宅していない。
「ねぇ、どうして?」
少女の問い掛けに、一番近くに居た大人が耐え切れなくなる。
その大人は、人間と戦争をして殺された、と言葉を詰まらせながら答えた。
少女にとっては辻褄が合わない話で、まったく理解できなかった。だから、泣いて駄々を捏ねるしかない。
死という概念が解らないほど少女は幼くない。両親が人間に殺害されたというのが、少女にとって予想外の出来事だったのだ。
少女の両親は、二人とも人間が片親である。つまり、両親は半分人間の子供であるはずであり、優しい親が愛する子を殺す道理はない。こう少女は信じていたのだ。
「酷いよ、どうして人間はお母さんもお父さんも殺したのッ!」
少女は白い翼で自分の体を覆う。
瞳から零れ落ちた涙の粒は、羽の細かな繊維に弾かれ拡散、地面に落ちる前に消えてしまった。
――現在、誕生日まで、一週間と五日――
白い大鳥が王都上空を飛んでいく。
その羽ばたきは空を制する雄大さを失い、ただ大気をかき乱しているだけで見苦しい。小鳥からもピーチク笑われてしまうぐらいに雑だ。
普段の彼女、マチカという名の半魔の有翼女からは想像もできない飛び方だ。
「マチカさーん、冷風が傷に染みて痛いですよー」
「黙れ、一度に抱えられるのは一人だけだ。女を荷物のように運ぶ訳にはいかないだろ」
マチカは気流を掴みながらも大気に乗る事ができていなかった。その原因は、マチカ自身プラス少年少女という単純な定員オーバーだけではない。単純に、気分が乗っていないから、大気にも乗れていないだけだ。
「あら、気遣ってくれるんだ。私を殺すために後宮に侵入したのに」
マチカの両腕に抱きしめられている少女が、真正面から、深遠な色の瞳でマチカを覗き込む。
マチカにとって、次代少女の正体は誤算以外の何者でもなかった。
渋く喉の奥を唸らせ、少女の米噛み近くに生える角を呪っても、この世の不条理は一つも減ってはくれない。
「お前は本当に人間の王族なのか? ハーフデモンの癖に」
「ふむふむ、なるほど。私がデモンの混種だと知らずに暗殺しようとした訳ね。次代の女王を殺そうというのに、おとぼけな事」
ガーネットはクスクスと、マチカの狼狽振りを嘲笑する。
育った環境の違いとその影響力には眉を顰めるしかない。同じハーフデモンであっても、マチカとガーネットとでは纏う雰囲気が大きく異なる。
マチカは人間に育てられてしまったガーネットの不幸を哀れみつつも、少女の視線を意識的に避ける。紫の目が心の源泉を探っているようで、嫌悪感が背中と翼を這い上がっていた。
「……それで、私を誘拐して次はどうするつもり? 王族をさらっているのよ、王国そのものを敵にしちゃったわねぇ。楽しい全面戦争が始まっちゃうかも」
突発的な行動だった。
ガーネットが同族だったから、仕方なく誘拐しただけだった。
答えなど所持していないマチカは、ガーネットの問いに返答できず、無言のまま飛び続ける。
今更ながら、マチカは里の長老の言葉を思い出していた。
『女王が誕生するまで静観せよ。下手に動けば、王国の人間すべてを敵に回す』
年寄り特有の無謀を嫌い、堅実さだけが取柄の腰の引けた発言だとマチカは思っていた。
実際、長老は具体的な打開策を見出せず、若者を中心とした強硬派の行動を押さえ込む事はできなかった。むしろ、次代女王の暗殺だけでは物足りぬと逸る者達を納得させるため、里で一番人望のあるクーが実行部隊に参加しなければならなかったぐらいである。
マチカが暗殺の失敗を考えた事は一度もない。何故ならば彼女達はハーフデモンである。先祖から受け継ぐ固有の能力は脆弱な人間を圧倒する。
……しかし、現状はマチカが思い描いていた未来から大きく脱線してしまった。
まるで、乱気流に巻き込まれたかのごとき暗転ぶりだ。大空を制覇できる翼を必死に羽ばたかせているのに、決して暴風の渦からは逃れられない。そしてその内、風に巻かされて上下の方向感覚を失い、地表に落下する。
マチカの脳裏には今、落下する白い鳥が映っている。
「どうするも何も里に戻るしかない。もし軍隊が攻めて来るようなら、お前を人質として使うだけだ。同じ人間ではないモノとして、お前にも協力してもらう」
「里ねぇ……。丁度、私も混種に興味があったから協力ぐらいはしてあげる。だけど――」
有角のガーネットはマチカから視線を外し、目敏く、地上に向けて微笑み掛けた。
せっかく外れてくれた視線である。が、最も信頼していた空と気流に見放されている今のマチカに、己から離れていく物を見過ごす余裕はない。
マチカは不吉だと気付いているのに、視線を下方へと落とした。
空の高みからの光景は俯瞰図そのもので、地上の小物はすべて豆粒と化す。その黒い点がどれだけ非常識な速度で疾走していたとしても、敏捷なアブラ虫ぐらいの脅威にしか見えない。
「――そう簡単にはいかないわね。人間って生き物は案外しつこいから」
鷹の目が備わっていたなら、影のように黒い馬と、その馬を乗りこなす黒い甲冑を着た青年が見えただろうが。
後宮を離れ、王宮を駆け抜け、そろそろ王都の外輪に到達する。
空の高みを飛ぶ大鳥の翼は、白い。
「もっと速くだ、ディッ! 六本足は伊達ではないのだろう!!」
市街地の混雑を嫌ったクロトと愛馬たるディは、民家の屋根を足場に疾走していた。
ディの踏み切りで破損した瓦がボロボロと落ちているからだろう、下で衛士が笛を鳴らしている。が、主が誘拐された一大事に交通法規を守っていられない。
目前に迫った王都の外周壁も、門に迂回せず直進する。
「跳んでみせろ、ディッ!」
クロトの焦燥が伝わったディは、全力の跳躍によって高さ八メートルの外周壁を跳び越えた。クロトの後方を追随していた部下達の姿は、壁の向こう側に流れて消える。
一騎で突出し過ぎていると自覚しているが、クロトは止る訳にはいかなかった。
「全部、自分のミスだッ。有翼女は天井を砕いて玉座に侵入したというのに、天井を砕いて逃走する可能性を考慮していなかった」
上空を凝視すれば、まだ遠くない空に有翼女を確認できる。
ただ、抱き抱えられているガーネットの姿は見え辛い。表情を読む事など試せもしない。
ガーネットは今、最大級の失態を犯した護衛騎士を蔑んでいるだろうか……。
「自分がっ、未だにガーネット様の騎士に成りきれていなからだっ!」
それとも、からかうネタを得たと喜び、駄目な護衛騎士をまだ欲していてくれるだろうか。
焦燥と期待が入り混じった目で、クロトは上空を睨む。翼女との相対距離が縮まらないので、焦りの感情の方がやや強い。
ディが騎馬としていくら優秀でも、障害物のない空を飛んでいる相手に追い付くのは至難だ。雑多な王都から脱出し現在は平らな草原を疾走しているが、それでも距離を開かせないようにするだけで精一杯である。
いや、追走もそう長くは続けられない。
地形は秒単位で悪化しており、足元の緑が濃くなっている。進行方向では、深く鬱蒼とした森林が待ち構えているからだ。
焦りばかりが強くなっていく。
このままディの体力が底を付くまで走り続けるしかないのか。クロトはこう危惧していたが――。
「高度が落ちてきている?? 好都合ではあるが……」
上空の気流に乗ればそのまま逃げ切れそうなものだが、不可解にも有翼女は森林地帯に降りていく。
王都の外とはいえ、羽を休められるほど逃げ切れた訳ではない。有翼女の不審な降下にクロトは眉をひそめる。
しかし、地上に降りてもらわねばランスは届かない。切迫していた状況に光が射してきたのは事実である。素直に事態の好転を喜ぶべきだろう。
「私を、誘っているのか?」
有翼女と捕らわれのガーネットの姿が木々の間に消える。
森の奥地で潜められても厄介なので、クロトはディに更なる加速を求めた。




