第五十五話 ただいま
「はっ…!」
ハルカは目を覚まして驚いた。随分と空が暗くなってきていたのだ。しかし一番に気になるのはロゼットのことで、帰ってきたのは夢だったのではないかとベッドに視線をやる。
「よかった…。」
まだ帰ってきてくれたという実感は薄かったが、ロゼットはきちんと体を横たえていた。よほど疲れているのか口の端に涎が滲んでしまっている。そんな様子も微笑ましく微塵も引いたりしないで、小さく笑ってから洗濯物を取り込みに行く。
「♪」
上機嫌に鼻歌を歌いながらまだ日の匂いが残る服を集め、室内へと運びいれていく。全て運びいれて脱水機とタライを運んでいるときにふと倉庫の様子がいつもと違うことに気がついた。いつもは施錠などされていないがきちんと鍵がかかっていて開かない。予想より仕入れが少なかったのはここに入れてあるからかと納得しつつ物置に道具をしまい部屋へと戻る。
「ん…。」
ハルカが取り込んだ洗濯物を畳んでいるとようやくロゼットが身を起こした。まだ覚醒しきっていないのか何度か瞬きをして周りを見ている。目が合い笑いかけると同じように笑ってくれる、それだけで嬉しさが込み上げ自然と表情が明るくなった。
「おはよう、ハルカ…。片付けとかさせたまま寝ちゃってごめんね…。うわ、部屋まで…本当にごめん!」
「ううん、気にしないで。それより、ごはん食べよ!お腹ぺこぺこだよー。」
「うん、そしたら俺が用意しておくからお風呂入っておいでよ。」
「…色々ひっくり返さない?」
「う…返さないようにする。ね?ハルカもゆっくりしてきなよ。」
「じゃあ、入ってくるね。」
───……
「はーっ…気持ちよかったぁ。」
「ごはん用意できたよ。遅くなってごめんね。」
「ううん、ありがと!」
ロゼットは部屋の中を荒らさずにテーブルに食事を広げていた。色とりどりのピクルスに何かふかふかしていそうな魚の解し身、さらには炒め物が並んでいる。そして何より目を引くのはバケツの中に入った様々な瓶だ。何か文字が書かれているがまだハルカの語彙力ではわからない単語だった。
「おいしそうー!」
「今日はここらへんでは珍しいものだらけだけど…特に珍しいのがこれ。」
「氷だ!」
「これは万年氷っていうウィノー地方の特産品なんだ。普通にしていれば半年間は水にならないすごいものなんだよ。暑くて物が腐りやすいトコラッツ地方では必需品なんだ。…運ぶのも大変だけど。」
「すっごい…うわぁ…冷たい幸せぇ…。」
ロゼットに説明されてバケツの中を見ると氷に満たされていた。久々に触る冷たいという感覚にうっとりとしてまう。しかし触っていても指先は濡れてこず自分が慣れ親しんできた氷とは違うのだということがはっきりと理解できた。
「この中に入っているのはビールっていうお酒だよ。普通の麦のものからフルーツフレーバーのもあるんだけど…どれがいい?」
「まずは普通のがいいな!冷たいビールとか、楽しみ!」
「俺も楽しみだよ。…っと!…ああぁ…。」
ロゼットが栓抜きを使い蓋を外す。すると泡が溢れてきて手を濡らした。ここまで頑張ってきたというのにやはり不器用は簡単には直らない。気を取り直して布巾で綺麗にしたあとまずはハルカのグラスに注いでいく。
「ロゼット、私注ぐよ。」
「ありがとう。」
今度は注ぐのを交代しお互いのグラスが金色に輝く液体に満たされてから持ち上げ、カチンと小さく合わせる。
「ロゼットの帰宅に、乾杯!」
「乾杯!」
ハルカの音頭に合わせて二人で一気に飲む。冷たい飲み物を一気に飲むなどどれくらいぶりのことかわからず夢中になってしまった。喉を走り抜ける炭酸や爽やかな苦味がたまらない。
「っうー!おいしい!」
「っはー!生き返るって感じがするね!…あ、これはパプリカのピクルスだよ。動物用だからちょっと刻み方が大きいけど…。これは鰻っていう魚で解して柔らかい皮と一緒に混ぜて焼いてからこのたれをかけるのが一般的なんだ。これはちゃんぷるっていうトコラッツ方面の豆腐の入った炒め物。」
」
「いただきます!…すっぱいのとビールがよく合う…!」
ピクルスは噛めば噛むほどに酸味と果肉の甘味がしみ出してきてそれをビールで流し込むのがたまらない。一杯目のビールは水に等しくすぐに手酌で注ぎ足すこととなる。ロゼットは酒が弱いため自分なりにセーブして飲んでいた。
「鰻なんて食べるの、殆ど初めてだよ…。」
贅沢品に縁がない生活を送っていたため小さく呟く。もとの世界では蒲焼きにされているのをよく見かけた鰻だが、こちらの世界では少し違った。味の記憶があるうちに食べたのは初めてなので比較のしようはないが、それでも美味しくて箸が止まらない。
「喜んでもらえてよかった。…俺がいない間何か困ったこととかなかった?」
「あったよ!月日はわからないし、町長は訪ねてくるし、脱水症状で死にかけるし…たくさんあった!」
「うえぇ?そんなに…全部どうにかなったの?」
「辛うじてね…。うぅ、色々思い出してきた…やけ酒じゃあ!」
町長とリオンを思い出すとどうにも暗い気持ちになる。とくにリオンとは喧嘩別れしてしまってからそのままになっているため気が重い。制止するロゼットを振り切ってぐびぐびと酒を流し込んでいく。
「次フレーバーがいい。ミント。」
「開けはするけど、やけ酒なんてダメだろ?」
「はーい…。ロゼットはどうだったの?」
「俺の方は順調だったよ。仕入れも捌けもよかったし。ちょっと俺がドジすることもあったけど…うん、いつものことだしね…。」
二人でミントフレーバーのビールを楽しみながらロゼットの旅話に花が咲く。ポポロイよりも少し暖かい土地でどのような生活をしてきたのか、野宿中に起こった出来事や仕入れてきた物の話。全てが新鮮でずっとハルカの目は輝きっぱなしだ。
「ねねね、そこにはどれぐらいで着くものなの?」
「んー…丸2日間歩いて、そこから山猫に頼んで1週間くらいだよ。」
「すごい遠いんだねー。なんかまだロゼットが帰ってきてくれたって実感がわかないよ。」
ロゼットは酒が弱くだんだんと酔いが回ってきて頬の色が染まる。普段から垂れた目はより一層下がり、それでもふわふわとしたままハルカの質問には答える。
短距離でも森の中を歩くのは大変だというのに、丸2日間も歩いた上でさらには一週間という距離はハルカには想像できなかった。そんな場所からようやく帰って来てもらったはずなのだがいまいち実感が湧かない。ビールを飲みながらじっとロゼットを見つめてみる。
「そうだ、ハルカにお土産買ってきたんだ。」
「食べ物以外にも?」
「うん。これはシュシュっていうんだ。トコラッツ地方名産で…カラフルな織り布とむこうで採れる宝石がついてるんだよ。こう、髪を結ぶゴムみたいなものなんだ。…腕に着けてても可愛いよ。」
「かっ…かわいい!結んでみてもいい?」
「もちろん。」
ハルカはロゼットからシュシュを受け取り手櫛で髪をまとめあげていく。中に通されたゴムは強度がありシュシュだけでも十分に髪の毛をしばることができた。ポニーテールになった黒髪を揺らして振り返る。
「…どう?」
「想像以上に似合ってるよ!…すごく可愛い。」
「……。」
ロゼットは思ったことを素直に言葉にするのが得意だ。特別意識していないからかもしれないが、ハルカを見て感じたままを伝える。言われたハルカはストレートな言葉に恥ずかしくなり何か言おうにも思い付かず俯いてしまった。ロゼットの惜しいところはここからだ。ハルカが何か気分を害してしまったのではないかと勘違いをして慌てて対面から隣へと移動する。何をするでもなくわたわたと挙動不審に周りを見渡し、肩を掴むべきか掴まないべきか頭を悩ませた。
「ロ、ロゼット…私、男の人からこういうの貰うの初めてで…あの、何て言ったらいいかわからないけど、その…本当に嬉しいっ…!ありがとう…宝物にするね…!」
パッと顔を顔をあげたハルカは目を潤ませて感謝の気持ちを伝える。それでもタイキのように強くなりたいという気持ちが心のどこかにあって涙を溢さなかった。その表情と喜びように面食らってしまったロゼット、しばらくは目を瞬かせていたがまっすぐな気持ちを受け取ってはにかんだ笑顔を浮かべる。
「うん……ハルカ、ただいま。」
ハルカにとって物心がついてから初めて言われた『ただいま』だった。幼い頃両親は自分を預けて出掛けたまま帰ってくることがなかった。預けられた家にそのまま仕方無く引き取られたが、厄介者の自分に帰宅の挨拶をしてくれる者などいなかった。じわりじわりと感情が広がっていく。
「おかえりっ…!ロゼット…おかえりなさい…!」
ハルカは体を小刻みに震わせてロゼットへと抱きつく。ずっとずっと、言いたかった言葉を絞り出すと今まで堪えられていた涙が堰を切ったように溢れだした。背中を撫でてもらいながらしゃくりあげ、様々な思いを飲み下そうとする。
ロゼットがハルカを宥め、夜は更けていく。
ロゼットが、帰ってきた。
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