第二十一話 ハルカとリオン
「リオン先生っ!96個全部覚えてきたよ!」
「そんな当たり前のことを言われもねぇ。」
「こんにちは、リオンさん。」
文字を覚えてきた今日は昨日より勉強がより難しくなるだろう。時間がかかることを見越して昼過ぎに二人でリオンのもとを訪ねてきていた。今日は素直に家にいれてもらい、例の応接間に通される。休憩などというものはなく早速道具を広げ取りかかった。
「まず、簡単な一文から文法というものを学ぶよ。僕の名前はロゼットです。これは─…」
リオンとハルカは一枚の紙を二人で見るため、隣同士で座り至近距離で会話をする。ロゼットはさすがに文字は扱えるため、リオンの言葉は昼寝をするのに丁度よい呪文と化した。二人の様子を眺めながらうとうととソファで寝入る。
「単語は──…字を書くとき──…」
「うぅ…。」
リオンの教え方は容赦がない。出来る出来ないに関わらずどんどんと基礎をハルカに叩き込んでいく。一気に詰め込まれ頭がパンクしそうな勢いだ。
「リオン先生!無理早い!」
「はぁ?これくらいで何言ってるんだい?で、主語と述語が──…」
「やだぁ!」
「あのねぇ、誰のためにやってると思ってるんだい?」
「痛い痛い痛い!」
元の世界では現役大学生だったハルカもさすがに音を上げる。足を投げ出して勉強を拒否してしまった。ロゼットが寝ているのをいいことにリオンは彼女の頭を掴み、力を込めて痛みを与える。
「ふぐぅ…!負けるかぁ…!」
リオンの細腕から繰り出される攻撃はハルカでも何とか堪えきれそうだった。両腕を使って頭の手を離しにかかる。するとフリーだった片手で頬にデコピンをされる。ビヂンッと鈍い嫌な音が響いた。
「いったあぁ!」
「ほら、続きやるよ。」
「……。」
ハルカの頬は赤く腫れてしまう。じんじんとした鈍い痛みが集中力をさらに削いでいく。勉強嫌さと相俟って泣きそうな表情を浮かべるもリオンの前で涙するのは癪だ、グッと唇を引き結んで耐える。
「はぁ…お茶でも淹れるよ。」
強気なハルカにそこまでの表情をさせてしまえば、さすがのリオンも多少は折れる姿勢を見せた。席を立ちお茶を淹れにいく。ロゼットはすっかり眠ってしまっていて起きる気配はない。
ハルカもただ黙って待っているわけではなかった。譲歩してくれたリオンを思い、辛くない程度に詰め込まれたことをゆっくりと解きほぐしていく。紙に書かれたものと記憶を頼りにまとめ直す。地味な作業ではあるが自分には一番分かりやすかった。
「ハコベのお茶だよ。飲んで休んだら続きやるからね。」
「うん。ありがと。」
二人で肩を並べながらお茶を飲む。消炎作用のあるそのお茶はだんだんと頬の痛みを和らげていき、頬を腫らした彼女の表情も幾分か穏やかになった。リオンは煙草盆から煙管を取り出し一服する。ロゼットを挟まないここに会話はない。沈黙の中お互いが立てる生活音のみが空間を満たす。
飲み終わって少し休憩をとる。細かい文字を見るために凝らした目は瞑ると幾分か楽になる。 時折目を開けて周りを眺めてみる、気持ち良さそうに眠るロゼットが羨ましく恨めしい。
「さ、そろそろ続きやるよ。」
「はーい。…リオン先生、お手柔らかにお願いね。」
「僕が君に合わせるんじゃない、君が僕に合わせるんだよ。」
リオンはスパルタだ。基礎の文法を容赦なく紙に書きながら説明していく。日常に必要な単語を並べることも忘れない。薬師をやるほどの頭だ、出来る彼に出来ない人の気持ちはわからない。再びパンクしそうなほどに言葉を羅列していく。
「えっと…そうすると…うーん…?」
「どこが理解できないんだい?」
「そうするとこの文章って…。」
「何でそこに躓くのか僕には解らないけど…これはここに使うものじゃないよ。まずは文章の組み立てとして──…」
出来ない頭には出来るまで叩き込んでいく。ひたすら書きながらの説明をしていくが、リオンはこの手の事に関して疲れ知らずだ。夕方までみっちりとそれは続いた。日が傾く頃にようやくロゼットがその体を起こす。
「うぅーん…おはよ、二人とも…。…!?」
「だから!何でこんなこともわからないんだい?」
「リオン先生の教え方が悪いんだよ!私にわかるように説明して!」
「君のそのぽんこつ頭じゃどんなに噛み砕いて説明してもわかりはしないね!本当に脳みそ入っているのかい?」
勉強していたはずの二人は喧嘩に発展していた。ハルカがリオンに掴みかかり髪を引っ張る、リオンは人差し指でハルカの露出した額をぐりぐりと押していた。ロゼットは慌てて二人を引き剥がしにかかる。
「ちょ、落ち着いてよ、ね?」
「もうっ!リオンむかつく!」
「先生をつけろって言ったよね。それすら忘れちゃったのかい?鳥頭のちんちくりん?」
「しゃべるもやしなんて珍しいね!」
ロゼットの力にかかれば二人を引き離すことは容易だった。一触即発の状態だが間に入ることで何とか掴み合いだけは防ぐ。
「ハルカさん、教えてもらってるんだからそんなこと言っちゃダメだよ。リオンさんも女性にはもう少し優しくしないと。」
「これ、女性じゃなくてクソガキだよ。」
「嫌味製造機!」
「ほらほら、落ち着こうよ。今日はここまでにしてさ、ユウのところでもいかない?」
種類は違えど殺気を放つ二人の様子に今日の勉強は無理と判断して提案する。しかしリオンが頷くことはない、彼は外が本当に嫌いなのだ。
「嫌だね。あんなところまで歩くとか考えられないよ。そのちんちくりん連れて早く帰ってくれるかい?」
「えっ、商談は」
「ロゼ、散々これを放置して寝ておいて良い商談が出来るとでも?」
「…出直します。」
今にも噛みつきそうなハルカを宥めながら帰り支度を整える。相当な量消費されている紙に自分が眠っている間二人がどれだけ一生懸命に勉強していたのかが窺えた。状況は悪いはずなのに思わず笑みがこぼれる。
「ありがとう、リオンさん。ハルカさんも頑張ったね。」
「う…。…リオン先生、宿題ください。」
ハルカは素直に頑張りを認めてくれるロゼットに嬉しくなる、同時に途中から喧嘩をしてしまった自分を恥じてリオンに頭を下げた。リオンの方も仕方なくといった形で再びペンを持ち紙へとインクをのせていく。
「ここに書いた単語すべてを覚えてくるのが宿題だよ。発音も書いておいたからこっちを読めば単語が何を意味するのかわかるはずだよ。」
「ありがとう、リオン先生。」
「明日は俺だけで商談に来るね。」
「手土産期待しているよ。」
自分がおいてけぼりという明日の予定を聞きハルカは驚愕する。何かを言いたげにするが世話になっているロゼットが決めたのなら逆らえない。鞄をまとめて立ち上がった。
二人でリオンの家をあとにする。今日はユウのところには寄らず真っ直ぐに家へと帰った。ハルカの勉強とリオンとの関係は前途多難だ。