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ゆるうた  作者: 宗園やや
5/7

5月3日木曜日

下の階で真珠がワンワン言っている声で目覚めた。

うるさいなぁ。

しかし真珠が騒ぐのは珍しいので、何事かと耳を澄ます。

まりあんと母さんが必死に何かを話している様だ。

そう言えば温泉に行くとか言ってたな。

俺を誘いに来たのか?

もしそうなら、まりあんがこの部屋に乗り込んで来るな。

寝返りに飽きた俺はベッドから出て髪を整える。

着替えも済ますと誰かが階段を上がって来る音がして、いきなりドアが開けられた。


「起きろー! あれ?」


大声を出したのはみことだった。

腕を組んで待ち構えていた俺を見上げ、間抜けな顔をする。

その後ろから部屋を覗くまりあん。


「ありゃ残念。起きてたか。やっぱり窓から入らないと不意打ちは出来ないわね」


「不意打ちしなくて良いから。で? 温泉か? 本当に行くのか?」


「うん。真珠も誘おうと思ったから、今日は玄関から入ったの」


「真珠は母さんから離れないぞ?」


「知ってる。だから昨日からずっと説得してたの。さっきまで小母さまから離れたくないって大騒ぎ」


さっきの騒ぎはそれか。

しかし、俺は当日直前に誘うクセに、他の奴は事前に相談するんだな。

別に良いけど。


「で、小母さまも遊んで来いって仰ってくれたから、付いて来る事になった。大勢の方が楽しいしね。ね? みこと」


「はい」


一昨日の涙が気のせいだった様な柔らかい笑顔のみこと。

結局俺は何もしなかったが、何とか立ち直った様だ。


「もうタクシーを呼んであるから、遠出の準備をして降りて来てね」


そう言い残したまりあんは、ドアを開けたまま階段を降りて行った。

残ったみことは、俺に笑顔を向けた。


「わらわは決めました。ショウに何処かに行けと言われるまで、ここに居る事にします。

追い出されたら朝顔の子孫を頼ります。紫の方は、怖いので行きません」


ゆっくりと頭を動かして俺の部屋の中を見渡すみこと。


「まりあんには主体性が無いと呆れられましたが、仕方がないとわらわは思います。ここは右も左も分からない遠い未来の世界ですから」


みことは「それに」と言いながら赤い瞳を俺の足元に落とす。


「ここでは治癒の神としてではなく、一人の人として居られる。それは昔のわらわが望んだ自由な日々。朝顔の子孫に(かしず)かれるのは、そう言った自由とは違うと思うのです」


「そうか。良い判断だと、俺は思うな」


「ありがとう。落ち着いたら、バイト? もやってみます。わらわには社会勉強が必要だとまりあんが言うので。確かに、今後を考えれば、現代の事を深く知る必要が有りますからね」


俺の顔色を伺う様な上目使いになるみこと。


「でも、それだとショウと遊ぶ時間が少なくなってしまいます。その事を許して貰えますか?」


「俺は別に構わん。って言うか、自由を望んでいるんなら、自由にすれば良いさ」


「ふふふ……。そうですね……」


少し寂しそうに笑うみこと。

しかし俺は財布と携帯をポケットに入れていて、その顔を見ていなかった。


「良し、下に行こう」


「はい」


一階に降りると、少年みたいな服を着た真珠が母さんと戯れていた。


「珍しく巫女服以外のを着ているんだな」


俺にしげしげと見られた真珠が二本の尻尾を振る。


「あれだと目立つからって、これを着させられたワン」


「まりあんちゃんのお下がりよ。お尻に穴を開けたから他の人は着られなくなっちゃったけどね。ハイ、これで完成。ホラ可愛い」


母さんは、微笑みながら銀色の頭に大きな帽子を被せる。


「耳は隠せてるけど、尻尾は丸見えだぞ? 良いのか?」


揺れている太い尻尾を撫でる俺。

いつも母さんと一緒に風呂に入って手入れされているからか、手触りが良い。


「隠すとお尻が盛り上がって余計目立つから、それはそれで良いよ。普通の人なら子供がコスプレしているとしか見ないでしょ」


台所の中からそう言ったまりあんは、続けて俺を呼んだ。

母さんがオニギリを作ってくれたので持てと言う。


「ショウが寝坊してると思って、作って頂いたの。電車の中で食べて貰おうと思って」


「そうか」


「んで、こっちが旅行荷物。みんなの着替えとかだから、見た目より重くないよ」


「やっぱり俺が荷物持ちか……」


食卓の横に俺が入れるくらいのリュックが置いて有ったので驚いたが、軽いのなら安心だ。

そうしていると家の前で車が止まる音がして、間を置かずにクラクションが短く鳴った。


「タクシーが来たわ。じゃ、小母さま。行って来ます」


「行ってらっしゃい。癒されて来てね」


タクシーに乗った俺達は、手を振る母さんに見送られて駅に向かう。

助手席にみこと、後部座席の真ん中が俺で、その両脇に真珠とまりあん。


「あのさぁ。このリュック、重いし邪魔だしで大変なんだが」


リュックを膝の上で抱いている俺が愚痴ると、まりあんは窓の外を見ながら応えた。


「だからショウを連れて行くんじゃない。いつもの事でしょ?」


「そうですね」


そしてタクシーは駅に着き、まりあんを先頭にホームに入る俺達。

ゴールデンウィーク中なのに人が少ないのは田舎のせいか。

一時間に数本しか来ない電車を待つ間を利用し、オニギリを頬張る。

俺の朝ご飯だと聞いていたのだが、他の三人も弁当箱に手を伸ばして来た。

別に良いけど。


「で、これからどこに行くんだ?」


俺は、あっという間に空になった弁当箱を片付けながら訊く。


雷呼(らいこ)温泉。雷の神様が封印されている場所からお湯が湧いたって言う所で、お湯がピリピリするんだって」


「封印……? そんな所に行っても大丈夫なんでしょうか」


まりあんの言葉を聞き、不安そうな顔をするみこと。


「本当に雷の神様が封印されていて、雷が漏れているからピリピリする。ってのがそこの伝説だけど、正体はただの硫酸塩泉」


「硫酸? そんな物に入って大丈夫なのか?」


物騒な響きに俺も不安になる。


「大丈夫だから旅館が経営出来てるんじゃない? 昔はお湯の成分なんか調べられないからそんな伝説が生まれたらしいけど――」


みことに笑みを向けるまりあん。


「だから、本当に雷の神様が封印されている訳じゃないよ」


「そうなんですか? どちらにしろ、曰く付きの地に行くのは不安です」


まりあんは「平気平気」と笑う。


「実際に封印されていた神様だから不安に思うのも仕方がない、のかな。でも、何がそんなに不安なの?」


応えようと口を開いたみことだったが、思い留まって言葉を飲み込んだ


「いえ、心配し過ぎるのは止めましょう。本当に雷の神が封印されていたとしても、わらわ達には何の関係も無い訳ですから」


みことが笑むと、電車がホームに入って来た。

時刻表とホームの時計を見比べたまりあんは、「この電車に乗るよ」と言って立ち上がった。

続いて全員が立ち上がる。

そして電車のドアが開いた途端、真珠が一番に飛び込んだ。

降りる人が居たら体当たりをかましていただろう。

通勤時間から外れているので、運良く被害者は出なかった。


「ショウ、早く! 早く乗って!」


真珠は電車に乗るのが初めてらしく、躾のなってない子供の様にはしゃいでいる。

バスやタクシーの時は普通のテンションだったのに、何が違うんだろうか。


「みんな乗ったから、もう走って良いよ! 走って! 走れ!」


「落ち着け、真珠」


「ケンッ!」


一番最後に電車に乗った俺が真珠の尻尾を掴んで大人しくさせる。

痛かったのか、涙目で俺を睨み付ける真珠。


「電車ってのは決まった時間で動き出す物なんだ。頼んでも動かないんだよ。だから、椅子に座って待ってろ」


まりあんとみことが陣取ったボックスシートを指差すと、察した真珠がそっちに走って行く。


「やれやれ。まるっきり子守りだな」


窓際に真珠が座り、その隣に俺が座る。

対面の窓際がみことで、俺の正面がまりあん。


「まだ? まだ走らない?」


激しく振られる真珠の二股尻尾。

語尾にワンを付けるのを忘れているくらい興奮している。


「もうちょっとよー」


まりあんの適当な返事にも反応して揺れる銀色の尻尾。

数分後、ゆっくりと走り出す電車。


「ハォ!」


奇妙な掛け声と同時に真珠の帽子が宙を舞った。

興奮の余りに狐耳がピンと伸び、それで弾き飛ばされた様だ。


「可愛いね」


まりあんがクスクスと笑いながら帽子を拾い、真珠の頭に乗せる。

自分の頭の上で起こっている事に気付いていない真珠は流れる風景に夢中になっている。


「でも、推定二十数歳なんだよね。私達より年上」


「二千歳の私から見れば、全員幼児ですよ」


みことも冗談を言う様になったのか。

良い事だ。

電車はどんどんと速度を上げて行き、それに比例して真珠の尻尾の動きも激しくなって行く。


「その、温泉のりゅう何とかって言う効能はどんな物なんだ?」


俺は、リュックを網棚に置きながら訊く。

でかいので中々入らなかったが、中身が柔らかいので無理矢理押し込められた。


「硫酸塩泉ね。傷の炎症を抑える鎮静効果が有るって言うから、行ってみようと思ったの」


効果を聞いた俺は、思わずまりあんの右腕を見てしまった。

相変わらず厚手の上着で隠されている。

その視線を受け、冷たい視線を返して来るまりあん。


「まぁ、みことのお陰で痛みはすっかり消えたから、行かなくても良いかなって思ったんだけど……ね」


まりあんが肩を竦めたら、みことが言葉を続けた。


「まりあんの傷口は現代の治療によって塞がっている為、わらわの治癒で完治出来る状態ではありません。

なので、幻肢痛の完全除去も難しいでしょう」


「ってみことが言うから、気休め程度だろうけど行こうかなって。美肌効果も有るらしいから、長い間カサカサだったみことにも良いし」


「楽しみです」


みことは頬に手を当て、期待に夢を膨らませた笑顔になる。

俺は肌の状態なんか良く分からないが、それで悩んでいたのなら行く意味は十分に有るだろう。

電車に揺られる数時間の間、でかいリュックに入っていたお菓子を食べながらトランプをして遊んだ。

複雑なルールは真珠が理解出来ない為、簡単なババ抜きをする。

そして、トランプを用意した当のまりあんもカードゲームは苦手だ。

まりあんは片腕なので、手札を持ちながらカードを引く事が出来ないからだ。

だから自分の手札は膝の上に伏せていて、一人神経衰弱状態でゲームをしている。

こう言う事が出来るから、まりあんは成績が良いんだよな。

高校受験の時、同い年なのに俺の家庭教師になってくれたのも、普通なら出来る事じゃない。

そう言えば、このお菓子はいつ買ったんだろう。

珍しくまりあん一人で買いに行ったのか?

いや、みことが居るから一人じゃないか。

女の買い物に付き合わなくても良いなんて、みことは役に立つなぁ。

リュックを網棚に無理矢理押し込んだせいで一部のお菓子が粉々になっていて、何やってるんだとまりあんに脛を蹴られたりしたが、

無事に目的の駅に着いた。

駅から降りると、爽やかな緑の山々とあちこちから登る湯気と言う風景が広がっていた。

これが温泉地って奴か。


「むー。変な臭い」


クシュン、と可愛らしいクシャミをする真珠。

俺は特に何も感じないが、獣には不快な匂いがしている様だ。


「えっと、送迎の車が居る筈だけど……」


駅前広場で周囲に視線を巡らせるまりあん。


「送迎なんか頼んだのか」


大きなリュックを背負っている俺も辺りを見渡す。

それっぽい車は見当たらない。


「うん。不景気で旅館は大変なんだってさ。キャンセル覚悟で人数が増えるって連絡したら、どうぞ大歓迎です、って言われた」


「ふーん」


「で、こっちに断られるのが嫌だったのか、サービスで送迎をタダにしますって言われたの。だから、つい頼んじゃった」


「タダなら頼まないとな。ん? アレか?」


一台のワンボックスカーがこっちに走って来た。

車体の横に雷呼温泉と書かれてある。


「ああ、アレね。悪いかなって思ったけど、客が少ないから車も気軽に出せるらしいの」


まりあんは大きく左手を振り、存在をアピールする。

その車は俺達の近くで止まり、雷呼温泉の名前入りのハッピを着た運転手が降りて来た。


「宝月様でいらっしゃいますでしょうか」


中年になりかけくらいの男性に外面の良い笑顔を向けるまりあん。


「そうです。お世話になります」


俺達はワンボックスカーに乗り込み、真っ直ぐ旅館に向かった。


「ほう。絵に描いた様な旅館ですね」


車の窓から見える和風な建物を見て、みことが弾んだ声を出した。

真珠の二股尻尾も激しく振られ、隣に座っている俺の腕を擦っている。

擽ったい。

そして旅館の玄関前で車が止まる。


「やっと到着ね。降りるわよ」


まりあんの音頭に従ってワンボックスカーから降りると、運転手のおじさんが俺のリュックを持つと言い出した。

大人の人にそんな事をさせるのは心苦しいと戸惑っていると、まりあんが手招きした。


「そう言う仕事の人なんだから、お願いしましょう。モタモタしてる方が迷惑だから」


「そうなのか? じゃ、お願いします」


リュックをハッピの人に任せ、四人で旅館の玄関を潜る。

すると、女将さんと数人の仲居さんが深々と頭を下げて出迎えてくれた。


「お、おお……。俺、こう言うの初めてだから、正直ビビるわ」


頬を引き攣らせている俺の横で、みことが恍惚の表情になる。


「昔を思い出しますわ。わらわの宮居に皆が頭を垂れていた光景を」


真珠は興味無さそうに自分の白い鼻を弄っている。

建物の中身や赤の他人の行動には全く興味がない様だ。


「ホラ、みんなでボーっとしてないで。部屋に行くわよ」


仲居さんの先導に続いて赤絨毯が敷かれた廊下を行くまりあん。


「おっと、行くぞ、みこと、真珠」


「あ、はい」


「ワン」


通された楓の間と言う部屋は、思ったより広い部屋だった。

ど真ん中にテーブルが有り、四つの座椅子が設置されている。


「さて、と」


適当な座椅子に座ったまりあんは、懐から旅館のパンフレットを出した。

この旅館の目玉である雷呼の湯は朝十時に湯が開き、まずは男女混浴。

それから二時間経つと男女別になる。


「十二時から十四時が女風呂ね」


まりあんはお気に入りだと公言している懐中時計を取り出した。

柱に四角い時計が備え付けてあるので、俺はそっちを見る。

十一時四十分。


「うん、丁度良く着いたわ。お昼を食べたら早速お風呂ね」


「お肌スベスベになるかしら。うふふ」


自分の首筋を撫でながら笑むみこと。

数分後、予め注文していたお茶漬けを仲居さんが持って来てくれた。

それをサラサラと食べる。

真珠は狐犬のクセに猫舌なので、お茶を掛けずにご飯と漬物だけを食べた。

母さんのしつけのお陰で箸が使える様になっている。

握り箸だが立派なもんだ。


「ごちそうさま。さ、行くわよ!」


「行きましょう!」


「ワン!」


女三人が意気揚々と部屋を出て行く。

そう言えば、赤い巫女服を着ていたのでメスだと決め付けていたが、真珠の性別をハッキリと確認していない。

一緒に出て行ったって事は、真珠はメスなのか。


「まぁ良いか。オスだったとしても風呂から追い出す事はしないだろうし。多分」


一人残された俺は、窓際の椅子に座って落ち着いた。

緑広がる風景を眺めながらのんびり出来る、良い旅館だ。

だが。


「ヒマだ……」


ゲームでも持ってくれば良かったかな。

手持無沙汰なので、まりあんが残して行ったパンフレットを見る。

十四時から十六時までが男風呂か。

男女別が固定されている、ただのお湯が張られた普通の風呂も有る様だ。

俺はどっちでも良いが、旅館まで来てただのお湯に浸かるのは勿体無いかな。


「あー、良いお湯だった」


浴衣に着替え、肌を上気させた女達が帰って来た。


「んな?」


その声で目を覚ます俺。

ヒマ過ぎて椅子に座ったまま寝ていた様だ。

腕時計を見ると十三時五十分。

女風呂が終わるギリギリの時間。


「随分長かったな。どんだけ入ってたんだよ」


「出たり入ったりしてたんだよ。貸し切り状態だったからねー」


音を立てて座椅子に座ったまりあんは、ビニール袋に入ったタオルを背凭れの後ろに放り投げた。

そして左手で火照った顔を扇ぐ。


「何だ? そのタオルは」


訊くと、まりあんは面倒そうに溜息を吐いた。


「何でも無いわよ」


「まりあんは右腕を他人に見られるのが嫌なので、タオルとビニール袋を巻いて隠したのです。ですが誰も居なかったので、途中から適当になりました」


籠に入った三人分の洋服を適当な所に置いたみことは、真っ赤な顔で言う。

湯中りしている風に見えるが、幸せそうにしているので平気みたいだ。


「なるほどな。次も使うからワザワザ持って帰って来たって訳か」


真珠は部屋の隅でうつ伏せの大の字になっていた。

二本の尻尾が湿気って細くなっている。


「大丈夫か? 真珠」


「あちゅい……。ピリピリする……」


「仲居さんにドリンクを頼んであるから、真珠は私達に任せて。ショウは温泉に行ってらっしゃい」


ヒラヒラと左手を振って俺を追い払う仕草をするまりあん。

風呂の入り過ぎで暑いから男を追い出したいらしい。

行った振りをしてすぐに戻れば浴衣を着崩したあられもない姿が見られるだろうが、同時に有り得ない威力を持った蹴りを食らうだろう。

右腕を見たりしたら殺される。

そんな命知らずな事をしてもしょうがないので、大人しく部屋を出る。


「あ。男女の切り替えの時に数分間の立ち入り禁止時間が有るみたいだから、気を付けて」


「おう」


広くて明るい廊下のあちこちに雷呼の湯へ案内する矢印が有ったので、迷わずに目的の施設に辿り付けた。

男風呂と書かれた札が下がった扉を開け、脱衣場に入る。

脱いだ服を入れる籠が十個有り、全部に浴衣とタオルが入っていた。

浴衣は身長別に分けられているので、自分に合った物を適当に選べば良いのか。

それは良いが、誰も利用していない。

ゴールデンウィーク中なのに景気が悪いな。

他の客が居ない訳ではない様子なので、真昼間から風呂に入るのもどうかと言う事か。

まぁ、普通なら昼間は外に出て名所とかを回るだろうしな。

素っ裸になり、浴場に行く。

すると緑の山と青い空が目に飛び込んで来た。


「おお、露天風呂か」


こう言うのは望遠鏡を使えば向こうの山から丸見えなんじゃないかと思うが、目隠しの柵が変な形で配置されているので、

多分大丈夫なんだろう。

それより、かなり広い浴槽のど真ん中に有る巨大な岩の方が気になる。

高さは二メートル半ってところか。

直径も三メートルくらいはある。

注連縄が巻かれているので、アレが雷の神様が封印されているって言う岩なのか。

神様がお湯の中に有るのは予想外だったが、アレから効能が染み出してピリピリするって言うのなら説得力が有る。

身体を洗い、湯船に浸かる。


「はー……」


良い湯加減に肺の底から空気が漏れる。

なるほど、これは長時間の入浴をしたくなる。

気持ち良い。

お、段々と皮膚がピリピリして来たぞ?

これが雷呼の湯の由来か。

効能の元である巨岩を改めて見ると、看板が掛けられている事に気付いた。

ただ浸かっているだけなのは退屈なので、温まりながら文字を読む。

この地方の雷の神様は乱暴者で、落雷被害が非常に多かった。

困り果てたこの地方の人は、旅の修験者に頼んで退治して貰う事にした。

しかし、相手は神様。

完全に殺すとどんな罰が有るか分からなかったので、止めを刺さずに岩を乗せて封印した。

神様は岩の下で放電を続けているので、このお湯はピリピリする、か。

なるほどなぁ。

少し残酷で人間の都合しか考えてない物語だが、昔話は大体がそんな物か。

後は、まりあんが言っていた美肌がどうこうと言う効能が説明されている。

ふと思う。

俺が触ったら岩が割れ、神様が復活したら、と。

みことの時みたいに。


「まさかな。それに、いくら何でも、本物の神様を封印した岩をこんな所に置く訳が無いよな」


ハッハッハと笑い、お湯で顔を洗う。

それにしても貸し切り状態の露天風呂は気分が良い。  

肩まで浸かった状態で移動し、ゆったりと巨岩に背凭れる。

お湯の中に有る岩の一部分が椅子みたいな形になっているので、より効能を味わいたい方は座ってくださいと看板に書かれてあったからだ。

きっとまりあんも座ったに違いない。

あいつの行動は安易に想像出来――


「ガブッ!」


いきなり頭を殴られた俺は、湯の中に頭から突っ込んだ。

まりあんの事を考えていたので、まりあんに殴られたのかと思った。

が、お湯から顔を出したらそれは間違いだとすぐに分かった。

巨岩に掛けられていた注連縄が切れ、俺の頭の上に落ちて来たのだ。


「ゴホゴホ……。何だよ……」


お湯を少し飲んでしまったので、大きく咳き込む。

変な味で喉が痛い。

湯気立つ水面に浮かぶ注連縄は新品に見える。

自然に切れる物とは思えないが、硫酸塩泉らしいし、成分に当たられて切れる事も有るんだろう。

俺って運が悪いな、と思いながら頭を擦り、巨岩の様子を伺う。

ヒビが入っている様子は無い。

大丈夫か。

岩から少し離れ、湯船の中に座り直す。

もう少し温まって落ち着いたら、旅館の人に注連縄が切れましたよって言いに行こう。

切れた縄が頭にぶつかったと言えば、お詫びの品でも貰えるだろうか。

いや、セコイから止めておくか。

不景気な旅館にクレームを付けるのも可哀そうだし。

そんな事を考えながら再び巨岩を見上げると、その天辺から右手が生えていた。


「!?」


目の錯覚かと驚く俺。

だがそれはチューブから歯磨き粉を出す様にニュルニュルと伸び、二の腕までが出て来た。

微風に吹かれるアホ毛の様に揺れる白くて細い腕。


「ちょっと待て、ウソだろ……?」


茫然と呟く俺をあざ笑っている顔までが巨岩の上に現れる。


「嫌ぁね。裸の男が居るわ」


青い髪と金色の瞳を持った女が言う。

もみあげだけが黒くて長く、風も無いのに揺れていて薄気味悪い。

その女は左腕も巨岩から引き摺り出し、胸の膨らみが少しだけ見える位置まで上半身を晒した。

なので、湯に浸かっている俺と、岩から出て来た女は、ほぼ同じ格好をしている。

岩の上に居る女の方が高い位置に居るが。


「そ、そっちも裸じゃないか」


俺は辛うじて反論する。

真珠とみことの人外コンビが居なかったら驚きで思考停止していただろう。


「嫌ぁね。本当だわ」


自分の身体を見下ろした女は、続けて辺りを見渡した。

そして湯に浮かんでる切れた注連縄で視線を止める。


「ふぅん。封印が解けたのね。見たところ、そちが解いた様だけど。どうして解いたの?」


「そんな事、知らない。俺が訊きたいくらいだ」


俺の返事を聞いた青髪の女は、ゆっくりと俺に向き直った。

どうして俺に向けられる女の視線は冷たいんだろうか。


「嫌ぁね。最高につまらない返事だわ。丁度良く水に浸かっている事だし、消しちゃおう」


青髪女の黒いもみあげが目にも止まらない早さで伸び、洗い場のタイルに突き刺さった。

そしてちょっと長めのオカッパだった青い髪が逆立ち、パリパリと音を立て始めた。

明らかにあの女から電気が発生している。


「おいおい、ちょっと待ってくれ。本当に雷の神様なのか?」


俺は軽口を叩いているが、蛇に睨まれた蛙状態になっていて動けない。

神を前にして本能が恐怖を感じているのだ。


「嫌ぁね。人の分際で私を疑うだなんて。私の名前は雷呼。雷を呼ぶって意味よ。そう言う神なの。分かる?」


「その岩に掛かっている看板にも書いて有るから分かるぞ。この温泉の名前もそれだしな」


「あら、文字が読めるの? 嫌ぁね、時代が変わっているのかしら。まぁ良いわ。さっさと済ませて憂さ晴らしでもしようかしら」


雷呼の細い腕に電流が走っているのが見える。

このままお湯に浸かっていると感電しそうだ。


「憂さ晴らし?」


訊きながらゆっくりと下がる俺。

岩から離れないと本気でヤバイ。


「ええ。この雷呼を封印したこの地方の人間共を皆殺しにするの。……ん?」


雷呼の腕に走っていた電流が見えなくなる。

代わりにふたつの青白い火の玉が雷呼の両耳辺りで浮かび上がった。


「これは、狐火……? どうしてこんな物が……」


気配に気付いた雷呼は、無防備に振り向く。

俺もそっちの方を見ると、天井から逆さまにぶら下がっている浴衣姿の真珠が居た。

ふたつの目が妖しく光り、狐耳がヒクヒクと動いている。


「お前か。嫌な音を立ててるのは」


「嫌ぁね。獣臭いわ。どうして雷獣でもない物が私に近付いて来るのかしら?」


「今、ショウに何をしようとした? ショウを傷付けると、まみちゃんが悲しむワン。許さないワン」


宙返りし、風呂場の床に降り立つ真珠。

雷呼はそちらに身体を向け、腰まで巨岩から出て来た。

俺に背中を向けている形になったので、プレッシャーの強い視線から解放された。

今の内に急いで湯から上がる。


「ショウと言うのは、そこの人の事か? 狐が人を守っているのか?」


「真珠は犬だワン!」


「ほう。そちは犬か。犬なら人を守るのは仕方ないな」


浴場の引き戸が勢い良く開けられ、みことが飛び込んで来た。


「ショウ! 無事ですか? ……あ」


全裸の俺を見て頬を染めたみことは、気まずそうに巨岩の上に視線を移した。

俺は大事な部分を桶で隠しながら壁際に寄る。


「無事だが、良く俺がピンチだって分かったな」


「真珠が嫌な音がすると言って窓から飛び降りた後、地鳴りみたいな雷の音が聞こえたのです。

まさかと思って来たのですが、不安が的中しました」


「アレのせいか……」


未だにタイルに刺さっている雷呼の黒いもみあげ。

アレで何かをしている様だ。


「ふぅん。今度は古代の現人神(あらひとがみ)か。嫌ぁね。その男、何者かしら?」


「ただの人よ。ショウと私はね」


遅れて浴場に入って来たまりあんは、俺を見ずにタオルを投げて寄こした。


「助かる」


そのタオルを腰に巻く俺。


「どう見ても伝説の雷呼そのものね。全く。みことと言い雷呼と言い、

ショウには神様の封印を解く特殊能力でも付いてるの? どうなってるの?」


「それは俺が訊きたいよ、って雷呼に訊いたら殺され掛けた」


「現人神の封印を解いた、ただの人、か。なるほど、そう言う事か」


自分の肩越しにまりあんを見た雷呼は、「嫌ぁね」と言って黒いもみあげを引っ込めた


「だとすると、私の封印が解かれたのは不愉快だわ」


「今、私を見て言ったわね。どう言う意味? それだと、封印が解かれたのは私のせいみたいじゃない」


こんな状況でも物怖じせず、不機嫌そうに言うまりあん。

さすがだと言わざるをえない。


「嫌ぁね。そこの現人神に聞けば良いじゃない。どうせ肝心な事は言ってないでしょうけど。私も付き合ってられないわ。

やる事が有るんだもの」


突然大音量の雷鳴が轟き、浴場に居る全員が竦み上がった。


「……行っちゃった」


真珠が山の方を見ながら身体の緊張を解く。

すると、人魂の様に浮かんでいた狐火が消えた。

巨岩の上の青髪女も消えているので、俺達も肩の力を抜く。


「ねぇ、みこと。雷呼が妙な事を言ってたけど、どう言う意味?」


「……」


まりあんの質問を無視したみことは、口を一文字にして湯に浮かぶ注連縄を見詰めている。

全員が固まっているので、取り敢えず俺が提案する。


「悪いが、一旦出て貰えるかな。風邪を引きそうだ」


素っ裸の俺を見ずに頷くまりあん。


「そうね。むさ苦しい物なんか見たくないから出ましょう。部屋に戻るよ、真珠」


「ワン」


山の方を見続けていた真珠は、四つ足で走って浴場を出て行った。

相変わらず興味の切り替えが早い奴だ。


「あ、旅館の人に注連縄が切れた事を伝えてくれ。雷呼の事は――どうしようかな」


俺は腰に巻いたタオルを押さえながら悩む。

間抜けな格好だ。

本当に俺だけがろくでもない目に遭うな。


「一応、ありのままに言って置くわ。信じて貰えないかも知れないけど」


そっぽを向いたまま言ったまりあんが出て行って、最後に思い詰めた表情のみことが出て行った。

一人になった俺は、急いで備え付けの浴衣を着る。

そして俺の服が入った籠を小脇に抱えた直後、注連縄を確認しに来た女将さんが慌てた様子で脱衣場に入って来た。

「お着換え中に失礼しました」と謝られたが、注連縄が切れたのは俺のせいかも知れないので、

何とも言えない気持ちで頭を下げてから楓の間に戻る。

部屋の中ではまりあんとみことがテーブルを挟んで向かい合わせで座っており、真珠は窓枠に張り付いて外を眺めていた。


「まだダンマリ?」


帰って来た俺を見たまりあんは、みことに向き直ってから溜息交じりでそう言った。

赤い瞳でまりあんを見詰めているみことは、無表情でピクリとも動かない。


「いやー。中途半端に風呂に浸かったから、風邪引きそうだよ」


言いながらまりあんの隣の座椅子に座った俺は、自分でお茶を淹れて飲んだ。


「ふぅ。温まる」


勤めて明るく振る舞っているのだが、茶髪女と黒髪女の空気が重いので空回り感が半端ない。


「あいつが動き出した」


ポツリと言う真珠。

窓の外では黒い雲が広がっており、昼間だと言うのに薄暗くなっている。


「何だ、この天気。さっきまで晴天だったのに。これ、雷呼のせいなのか?」


俺が訊くと、真珠は窓の外を見たまま二股の尻尾を一度だけ振った。


「うん。嵐が来るワン」


「この地方の人共を皆殺しにするって言ってたけど、本気かなぁ。本気なら、俺達もヤバいのかなぁ」


物騒な事をのんびりと言う俺。

すると、みことが口を開いた。


「恐らく本気でしょう。人々にとって危険じゃないのなら、人は神を封印しません」


「それって、みこと自身も危険な神だって言ってるんじゃない? 封印されてたんだから。ショウ、私にもお茶頂戴」


「あいよ」


まりあんにお茶を淹れるついでに、みことの分も淹れてやる。


「否定は出来ません。知られずに済むのなら、知られたくなかった。朝顔の子孫がくれた資料も、実は、こっそり燃やして捨てました」


「治癒能力が有り、宇宙警察にも必要とされている神様が、どう危険なんだ?」


茶を進めると、みことはペコリと会釈をした。

まりあんは何の反応もせずに当然の様にお茶を啜る。


「わらわを奪い合う戦争が起こったからです。起こり続けた、が正しい表現でしょうか」


「戦争、か。医療が発達していない時代なら、治癒の力は殺し合いをしてでも欲しいでしょうね。それで命を散らすのは支離滅裂だけど」


肩を竦めながら茶菓子を食べるまりあん。


「朝顔はその戦争に参加した親を亡くした子で、わらわを暗殺する為にわらわの世話役になった子です」


「親を亡くした子が、世話役にねぇ。その戦争って、どれくらい続いてたの?」


「わらわは外の事を知らないので詳しくは分かりません。二百年か、三百年くらいでしょうか」


「一人の人間を巡って、二,三百年ねぇ。スケールが違うわね……」


苦笑いするまりあん。


「資料には、朝顔は相当悩み、結局暗殺しなかったと書かれていました。悪いのはわらわではないと」


「そりゃそうだ。みことは怪我を治してただけなんだろ?」


俺も菓子を食う。


「はい。そして、朝顔がわらわを暗殺しようとしているとわらわに教えたのは、紫でした」


「あの宇宙警察か。戦争が起こらない場所に行こうとでも言って、みことを外に連れ出したのね」


「さすがまりあん、その通りです」


「まぁ、あの人はそれが目的で潜り込んでたんでしょうし」


「紫に付いて行ったら、わらわは宇宙に行っていたんでしょうか」


「そうなっていたでしょうね。で?」


「わらわの世話役は何十人も居ました。暗殺をしようとしていたのも、朝顔だけではなかった」


「思いっ切り憎まれていた訳ね。何百年も戦争の原因になってりゃ、しょうがないわね」


「朝顔は紫と共謀してわらわを誘拐しました。何も知らないわらわが自分以外の者に殺されるのは心苦しいので、代わりに人の居ない山奥に封印したそうです」


みことはお茶を啜り、勿体付けてから重々しく続ける。


「――目標が突如行方不明になった事で戦争は終わり、資料もそこで完結しています」


俺は不思議に思った事を口に出す。


「封印ってのは、そう言う思い付きで出来る物なのか?」


「さて。封印されていたって事は、出来たんでしょう」


他人事の様なみことの言葉を聞いてから面倒臭そうに立ち上がるまりあん。


「神を殺そうって言うんだから、色んな技術を身に着けていたんでしょうよ」


まりあんは真珠の横に立ち、窓の外を見る。

空一面、黒い雲。


「それが危険な神って話? 私達に知られたくないってのは、そんな事?」


「少なくとも、当時の戦争に巻き込まれていた人達には、わらわは荒神でしょう」


「コウジン?」


俺は聞き慣れない言葉を訊き返す。


「あ、悪い神と言う意味です。わらわを奪う為に無数の命が散り、わらわ自身も一人の人を殺していますから」


「え?」


俺は驚いたが、まりあんは冷静に言う。


「ホラ、連続で治癒すると破裂するって言う奴。あれじゃない?」


「そうです。そして、その被害者が朝顔の父親です」


まりあんは眉間に皺を寄せて振り向く。


「……朝顔は、それを知ってたの?」


「はい。だから苦労してわらわの世話役になったそうです。このくだりは封印直前に本人から聞いた話で、資料には書かれていませんでした」


「なるほど。暗殺の目的は親の敵討ちって事か。戦争を止めようとか、そう言うのじゃなくて」


「わらわもそう思います。ですが、その事件の後に短時間の連続治癒はしないと言う決まりが出来ていた事を知った朝顔は、

それで考えを改めた様です」


遠い目をするみこと。

昔を思い出している様だ。


「なぜそんな決まりが出来たのかを朝顔に訊かれた覚えが有ります。わらわは人を殺めた事を後悔していて、同じ過ちを繰り返さない様に、と答えました」


「それで動桃命の罪は無知だと気付いた訳ね。だからこそ、封印を守る子孫達が余計な勘違いをしない様に恨み事を残さなかったのね」


空が眩しく光り、数秒後に物凄い雷鳴が轟いた。

全員が飛び上がるほど驚き、身を竦める。


「おほー。近いわねぇ」


まりあんは窓の方に向き直り、浴衣の襟を押さえながら言う。


「雷の神も無数の命を奪っているでしょう。雷自体は恵みも齎すはずですが、それでも封印されていたと言う事は、余程暴れたのでしょうね」


みことも座椅子に座ったまま窓の外を見る。

ポツポツと雨が降り出し、部屋の中が更に暗くなる。

俺は無言で立ち上がり、電気を点けた。


「現代の常識では、殺人は最大級の罪です。それを知られたくなかったのです。知られたら、私は普通の人ではなくなるから」


「みことがそう言う罪を背負っているのは分かった」


まりあんは振り向く。

同時に稲光。

まるでまりあんが悪い神の様な演出だ。


「――でも、それを私達が知ったからって、私達はどうも思わないよ。ねぇ? ショウ」


「ああ。俺達にはどうにも出来ないしな。そう言う事が有ったんだ、としか思えないな」


俺達は本心からそう言ったが、みことは自嘲気味に薄く笑った。


「でも、わらわの事を知る前に、大昔の戦争と人体破裂の事を知っていたら、わらわを危険だと思ったでしょう?」


「否定は……出来ないか。私とショウの立ち回り次第では、私達が大昔と同じ事を起こす可能性も有るし」


「同じ事って、俺達が戦争を起こすのか? どうやって」


まりあんは呆れ顔で俺を見る。


「治癒の力で商売出来るって言ったのはショウじゃんか」


「ああ、そうか。それで有名になったら、またみことの争奪戦が起こるのか」


「しかし、それはありえません。二人がその様な人間でしたら、わらわの封印は解けなかったからです」


赤い瞳で俺の目を見るみこと。


「だからわらわは資料を捨て、過去を隠しました。わらわを悪用しない人にわらわが役に立つと思って貰えるなら、

わらわは荒神にならないから」


「意外に計算高いのね」


「それも、知られたくなかった。わらわはお二人に嫌われたくないんです」


俯くみこと。

長い髪で顔が見えない。

しかしまりあんはくっくっくと笑った。


「計算高いのは、現代の女の子だったら常識。知らないのは間抜けな男だけ」


にやつきながら俺を見るまりあん。

稲光のせいで本気で悪い奴に見える。


「だから、恥ずかしがる事は無いよ。昔の事だって忘れて良い。私が赦すわ」


「まりあんが、赦す……?」


顔を上げるみこと。

泣きそうなのか、目が充血している。


「みことは成功した。私達と一緒に居ようとする作戦は大成功。だから私は赦すしかない。みことを受け入れるしかない。そう言う事よ」


雷鳴の後、不意に明かりが消える。


「停電か」


俺が言うと、また雷鳴。

再び外を見るまりあん。

真珠は窓の外を見続けている。


「そして、本題です。雷呼は、まりあんを見て、なるほど、と言いました」


稲光に照らされるみことの顔は戸惑っている。


「その話の為にわらわの事を話したのですが――まりあんにはかなり不愉快な理由なので、やはり言わない方が良いのでは……?」


「聞いてみないと判断出来ないわ。だから――」


稲光。

同時に、衝撃で旅館が揺れる程の猛烈な雷鳴。

かなり近くに落ちた。


「それを訊く前に雷呼を大人しくさせないといけないわね。落ち着かないったら無い」


舌打ちするまりあん。


「大人しくさせるって、どうすれば良いんだよ」


俺が訊くと、まりあんは半纏を着た。


「旅館の人に雷呼を封印した時の事でも訊いてみましょう。伝説として残ってるかも」


まりあんを先頭に廊下に出ると、停電時用の非常灯が光っていた。

まだ昼間なのに非常灯の明かりが無いと歩けないほど暗い。

稲光が連続で落ちているので、時折猛烈に明るい。

俺達以外の宿泊客が窓から外を見て不安そうな顔をしているのに気付く。

何を見ているのかと歩きながら窓の外に目をやると、遠くの山の中で何かが燃えていた。

大木に雷が落ちたんだよ、とご家族連れが子供に説明しているのが聞こえる。


「これは本気でやばいかもな。世界の終わりが来たいみたいだ」


俺がそう呟くと、廊下の向こうが一際騒がしくなった。

旅館の従業員達が右往左往している。


「雷呼の湯の方ね。行ってみましょう」


歩く速度を上げるまりあん。

温泉入口が有る廊下は『清掃中』の看板で塞がれてあり、その向こうで仲居さんがキャアキャアと騒いでいた。

そして、救急車を呼べ、と言う男性の叫び。

俺達はお互いの顔を見合わせた後、看板の横を擦り抜けて脱衣場に入った。


「あ、お客様! 危険ですので近寄らないでください!」


仲居さんの一人が俺達に気付いて追い出しに掛ったが、それを無視して先に進む。

すると、脱衣場の床で二人の男性が横たわっていた。

一人は気絶していて、もう一人は呻いている。


「これは……、感電したのですか?」


さすが治癒の神、一目で状態を把握する。

二人共顔や腕に熱傷が出来ているので、俺でも予想出来るが。


「みこと。危険な状況なら、頼む」


俺の言葉に頷くみこと。


「彼は心肺停止寸前です。とても危険ですので、治癒します」


気絶している男性の横で膝を突いたみことは、彼の左手を取ってその甲にキスをした。


「おい、何をしている?」


異様に髪の長い少女の奇行に驚く、温泉のハッピを着ているおじさん達。


「どうやら一刻を争う状況の様ですので、黙って見ていてください。何をしているのかはすぐに分かります」


客の茶髪少女にやたら高圧的に言われ、大人しく成り行きを見守るおじさん達と仲居さん達。


「ふぅ……」


おじさんの手から口を離し、大きく息を吐くみこと。


「蘇生は初めてでしたが、何とか成功しました。もう一人、ですね」


意識が有る方のおじさんに座ったまま向き直ったみことは、その手に同じ様なキスをする。


「ううぅ……。うん……?」


苦しんでいたおじさんは、自分の身体に起きた変化に驚いて目を見開いた。

全身の熱傷が見る見る内に消えて行く。


「はい、もう大丈夫です」


笑んだみことは、おじさんから離れてから正座した。

そして大きな溜息を吐いた。


「大丈夫か? みこと。疲れた様だが」


「大怪我の治癒を続けて行いましたから、体力をゴッソリと持って行かれました」


みことは、少し萎んだ顔を俺に向けて苦笑する。


「食い物、いるか?」


「そうですね。緊急時ですし、体力の回復はしたいです」


俺は近くに居る仲居さんに今すぐ食べられる物を持って来てくれと頼んだ。

戸惑いながら頷いた仲居さんが脱衣場から早足で出て行く。


「君達は、一体何者だ……?」


神主さんの格好をしているおじさんが深刻な表情で話し掛けて来た。


「人の命が掛かっていたのでついつい出しゃばりましたが、出来れば詮索しないでください。俺達の方にも、色々と複雑な事情が有りますので。この真珠も、見た目から人間じゃないでしょう?」


真珠色の狐耳を撫でている俺の言葉に渋々納得して頷くおじさん達。

今は俺達に構っている場合ではないから、すんなりと引いてくれたんだろう。

物分かりの良い人達で助かった。


「で、ここで何が有ったんですか?」


まりあんが訊く横で、治癒を受けた二人のおじさんがタンカに乗せられて運ばれて行く。


「切れた注連縄を新品と取り換えようとしたら、いきなり青い髪の女が現れたんだ。直後、雷が風呂場の中に落ちたんだよ。今も温泉が帯電していて近付けない」


神主さんは、額の汗を拭いながら応える。


「ふーん。雷呼が戻って来たのか。どうして戻って来たんでしょう?」


青い髪の女イコール雷呼と言う物言いをしたまりあんを訝しそうに見る神主さん。


「雷呼を知っているのか?」


「ええ。だって、復活直後の姿を見ましたから」


「やはりあれが雷呼か。封印の岩はそのままだから、肉体を取り戻しに来たんじゃないかな」


「じゃ、封印が解かれた訳じゃないんですか?」


「半分、と言ったところかな。突然風呂場に現れたので、多分、魂だけの存在だと思う。あの岩が割られたら完全復活するはずだ」


風呂場を覗こうと身体を傾けるまりあん。

しかし戸が閉められていて何も見えない。


「それを阻止する方法は?」


「注連縄を締め直せば良い。が、一歩遅く、この有様だよ」


「なるほど。もしも雷呼が完全な状態なら、風呂場に居た人は全員即死だった、と言う事態も有り得るでしょうか」


「有り得るだろうね。落雷を受けて無事な方がおかしいから」


「分かりました。一旦下がり、作戦を練りましょう」


「そうだね。下がろう」


まりあんと神主さんの指示に従い、全員が脱衣場を出る。

そこに届いたオニギリを頬張るみことの横で作戦会議が始まる。


「状況は簡単です。注連縄を結んだら我々の勝ち。岩が割れたら雷呼の勝ちです」


持ち前の行動力で会議の中心に立つまりあん。

廊下なので、騒ぎを聞き付けた数人の宿泊客が清掃中の看板の向こうで聞き耳を立てている。


「注連縄を結ぶのは簡単ですか?」


応えるのは神主さん。

看板の向こうの宿泊客は気を利かせた仲居さんによって追い払われている。


「あの岩が有る場所は湯船の中だから痛みが激しいんだ。宿泊客も触るしね。なので、注連縄の予備は沢山有るし、取り替え易くしてある」


神主さんの手招きに応え、一人のおじさんが前に出た。

そのおじさんの手には細いロープの束が有る。


「これは注連縄を交換する時に一時的に岩に巻く物だ。これでも効果が有るから」


「これを巻けば、雷呼を再び封印出来ますか?」


「雷呼の復活も再封印も前例が無いので断言は出来ないが、力を抑える事は出来るはずだ」


「ん……? 雷が、収まってないか……?」


俺は耳を澄ませる。

あれほど轟いていた雷鳴がピタッと止まっている。

その場に居る全員がそれに気付く。


「雷呼が浴場に居るのなら、脱衣場の会話が聞こえていたでしょう。もしそうなら、待っているのだと思います。雷を落とすのを止めたのは、力を無駄使いしたくないからでしょう」


みことは口の中をオニギリで一杯にしながら喋る。


「待っている? 何を?」


訊いた俺を指差すみこと。


「俺が入って行くのを待ってるのか?」


味噌汁を啜ったみことは、顎を縦に振って口の中の物を飲み込む。

頬に紅が差さり、丸みが戻っている。


「注連縄を締めると再封印が可能なのは雷呼も承知している様です。戻って来たのがその証拠です。ならば、ただの人を力尽くで退ければ、わらわか真珠が突入すると予想しているはずです」


なるほど、と頷くまりあん。


「みことは神。真珠は妖狐。雷の神に対抗出来るのはその二人だけって訳ね」


「はい。わらわと真珠を自分と戦わせ、ショウが注連縄を締める。その作戦で来ると雷呼は読んでいます」


「断言するわね。その根拠は?」


まりあんが訊くと、みことは味噌汁を一気飲みした。


「雷呼はショウを殺せないからです。封印を解いた者なら、簡単に岩を割れますから。そして、わらわがそれを知っている」


「みことが復活した時みたいにか?」


俺に向けて頷くみこと。


「だが、あいつは俺を殺そうとしたぞ?」


「復活直後は混乱していますからね。わらわも夢と現が混ざっていましたし。だから厚かましくショウを頼った訳ですが」


みことは二個目のオニギリを持ちながら神妙な顔をする。


「もしもショウを殺していたら、雷呼は後悔したでしょう。早まった事をした、と」


ふむ、と言って顎に左手を添えるまりあん。

ショウ、みこと、真珠以外の人間が浴場に行けば殺される。

しかし、相手の考えが分かっている以上、その三人が浴場に入るのは危険だ。 

どうしたら良い物か。

誰も良いアイデアが浮かばず、煮詰まった空気が脱衣場前の廊下に充満する。


「いっそ、雷呼の作戦に乗ってみようか」


俺が言うと、まりあんは「はぁ?」と呆れた。


「何で雷呼の思うつぼに自分からハマりに行くのよ」


「雷呼が俺を殺せないなら、絶対に手加減してスキが出来るはずだ。そこに勝機は有る」


「まぁ、そうだけど……」


「作戦はこうだ」


俺達は円陣を組み、雷呼に聞かれない様に小声で話し合う。

真珠とみことにアース付きの金属の棒を持たせ、ゴムの手袋と長靴を装備させる。

それで雷の直撃は避けられるだろう。

恐らく雷呼は黒いもみあげを地面に刺している。

あれはアースの役割を持つ物だろうから、あれを切れば強烈な雷は使えなくなると思う。

だから、真珠とみことに刃物を持たせ、正面から突入させる。

可能ならもみあげを切り落として貰いたい。

無理なら雷呼の注意を引き付けるだけで良い。

俺は外側、つまり脱衣場の反対側から侵入し、雷呼に気付かれない様に湯船に針金を突っ込む。

そうすれば温泉に帯電している電気は逃げるだろう。

仕込みが済んだらこっそりと岩に近付き、注連縄を掛ける。

そこまで行けば絶対に雷呼に気付かれるだろうから、動きが素早い真珠が雷呼を撹乱して何とかする。


「何とかする、ねぇ。何とかなると思ってる?」


まりあんは気乗りしない声で言う。


「本当に俺を殺さないなら、何とかなる」


「あやふやで危険ね……。他のアイデアは有りませんか?」


まりあんの言葉に返事をする者は居なかった。

俺の作戦で行く雰囲気になっている。


「分かった。珍しくやる気になっているショウの作戦で行きましょう」


仕方が無さそうに溜息を吐くまりあん。


「決まりだな。正直怖いが、みことが無事なら大丈夫だろう」


俺が封印を解いたみたいだから、俺が頑張らないとな。

俺のせいでこの辺り一帯が焼け野原になったら夢見が悪くなりそうだし。


「みこと。俺が怪我をしたら、治癒を頼めるか?」


「はい。いざと言う時は濃厚なキスをしてあげます」


ウフ、と笑みながら頬を染めるみこと。


「さっきは手の甲にしてたじゃないか。あれで良いじゃないか」


「あれはわらわの体力が完全な状態の時に出来る事です。もしもわらわも雷を受けて体力が減っていたら……」


「あー、分かった分かった。俺が怪我をしない様に気を付ければ良いだけだ。じゃ、準備をしてくれ。真珠も良いな」


「ワン」


改めて作戦の確認をし、それぞれの役割を把握する。

真珠が理解してくれるかが一番の心配事だったが、大丈夫だワンという本人の言葉を信じるしかない。


「では、作戦を開始しましょう」


まりあんの号令と共に人々は動き出す。

みことと真珠の人外二人を脱衣場担当の神主さんに任せ、俺とまりあんはおじさん達と共に二階に登る。

外から浴場に入るには屋根から降りるしかないらしい。

覗き目的の侵入者対策で、絶対に物音が立つ仕組みが設置されているんだそうだ。

しかも獣除けの罠も有るので、地理を知らない俺が徒歩で浴場に入る事は不可能らしい。

急いで用意して貰ったロープを身体に巻き、ゴムの手袋と長靴を身に付ける俺。

ここで用意された長靴は、渓流釣り用の腰まで有る奴だった。

注連縄を締める時は風呂の湯を抜く手順なんだが、今回は雷呼が急に現れたせいで栓が抜けなかった。

客が勝手に栓を抜かない仕組みにしてある為、雷呼に気付かれない様にお湯を抜く事は絶対に無理。

つまり、注連縄を締めようと思うのならば、必ずお湯に入らなければならない。

針金を突っ込んで湯船の電気を逃がす事に成功したとしても、電圧がゼロにならない可能性が有る。

だから腰まで守れるこの長靴じゃないと危険なのだ。

動き難い格好だが、雷から身を守る為なら仕方が無い。

そして針金が巻かれた三十センチくらいの鉄の棒と、湯船に浸ける用の二本の針金を持つ。

湯船用の針金は一本で良いと思うが、雷呼のもみあげを切る事に失敗したら高電圧になるだろうから、念の為に二本にした。

俺から伸びている三本の針金は旅館の裏まで伸び、土の地面に刺されている。

これで俺の準備完了。

おじさんの携帯が鳴り、浴場前の準備も整ったとの連絡が入った。


「じゃ、行って来る」


「しっかりね」


珍しく心配そうにしているまりあんに片手を上げた俺は、静かに窓から出て屋根に降りた。

そして抜き足差し足で屋根の先端を目指す。

数人のおじさんも屋根に出て来て、アースの針金が瓦に当たって音を立てない様にゴム手袋を嵌めた手で針金を持つ。


「やっぱり来たわね」


真下からの雷呼の声。

見付かったのかと思って足を止めたが、続いてみことの声が聞こえて来た。


「雷呼。貴女に訊きたい事が有ります」


「嫌ぁね。私もそちに訊きたい事が有るのよ」


会話は神同士でしている様で、俺は見付かっていない。

なので、静かに歩を進める。


「では、貴女からどうぞ」


「そちの名前を教えてくださる?」


「動桃命です」


「犬は?」


「真珠」


屋根の先端まで来た俺は、身体に巻かれたロープがちゃんと張っているかを確かめた。

二階の廊下の中に残ったおじさん達がロープを持っていて、俺の体重を支えてくれている。

針金が屋根の先端に触れて音を立てない様に、その部分にタオルを敷く。

ここまでは順調、作戦通り。

さて、正念場だ。

おじさん達を信じ、恐る恐る屋根から身を乗り出す。

スパイ映画の様に宙釣りになった俺は、ゆっくりと浴場に降りて行く。


「動桃命は、復活した後に他の神に会った?」


「……会った会わないの二拓なら、いいえと応えます」


「言いたい事は分かるわ。――真珠以外の妖怪には?」


「いいえ」


「嫌ぁねぇ……」


俺は、音も無く浴場の床に降りながら浴場の様子を伺う。

雷呼は普通の洋服を着て巨岩の上に座っている。

青い髪が逆立っているので、帯電している。

浴衣姿のみことと真珠は入り口を背に身構えていた。

みことは髪切りハサミを持っており、真珠は出刃包丁を口に咥えている。

俺が現れても気にするなと言ってあるので、二人共視線を雷呼から離さない。

しかし雷呼の黒いもみあげはまだ切られておらず、浴場の床に突き刺さっている。

降りるのがちょっと早かったか。

だが、二人の身の安全を考えるのならば、針金は早目に設置した方が良い。


「では、わらわからの質問、良いですか?」


「良いわよ」


「貴女は、わらわと同じ理由で封印が解かれたと思います。もしそうなら、これからどうするつもりですか?」


「そうねぇ……」


いきなり振り向く雷呼。

俺と目が合う。

やはり予想されていた!


「この身が擦り切れるまで、全てを破壊しようかしら?」


雷呼の身体に電流が走るのを見て、死を予感した俺の身体が無意識に強張る。

だが、予想されている事も予想している。

その一瞬のスキを突き、真珠がひとっ飛びで雷呼のもみあげの一本を切り落とした。

包丁がもみあげに触れた一瞬だけ電流に触れた様だが、包丁の柄に繋いだアースのお陰で口の中がピリッとしただけで済んだ様だ。

着地は勿論タイルの上。

お湯には絶対に触るなと言ってある。


「嫌ぁね。酷い事するわぁ」


大事な髪を切られたと言うのに、雷呼は余裕な態度を崩さない。


「地域の人々を皆殺しにするとか言う奴よりはマシだよ!」


走って湯船に近付いた俺は、二本の針金をお湯に向かって放り投げた。


「何それ、おまじない? ……ああ、そう言う事か。嫌ぁね。雷対策が出来る知恵が付いたのね。人間の分際で」


俺が何をしたのかを悟った雷呼は、声のトーンを低くした。

二本目のもみあげを切ろうと身構える真珠を指差す雷呼。

次の瞬間、真珠の口から包丁が弾け飛んだ。


「ケンッ!」


声を上げて後ろに跳ねた真珠は、目隠しの柵に背中をぶつけた。

目に見えない雷撃を食らった様だ。


「やっぱり狐じゃない」


金色の瞳を細める雷呼。


「真珠、一旦逃げろ!」


俺は、背中を丸めて蹲っている真珠を庇う位置に移動する。

鉄の棒を雷呼に向かって付き出す。

どこに雷を撃っても、人体より電導率の良いこの棒に落ちるはずだ。


「でも」


「丸腰じゃ何も出来ないだろ? まりあんに作戦を貰え!」


「ワン!」


真珠は柵を飛び越え、近くの雨どいを伝って屋根に上がって行った。


「あっ」


みことが短く声を上げた。

今のどさくさに紛れてもう一本のもみあげを切ろうとしたのだが、失敗したらしい。

ハサミを構えたまま数歩下がるみこと。

雷呼のもみあげは地面から抜かれ、普通の長さに戻っていた。

しかし、左右で長さのバランスが違う。


「獣はすばしっこいから邪魔よね。さぁ、これからどうするの?」


巨岩から飛び降りた雷呼は、水飛沫を上げて湯船の中に着地した。

肉体の封印は解かれていないって話だったが、実体が有る様だ。

どう言う事だろう。


「雷呼。本気ですか?」


みことが厳しい表情で訊く。


「何が?」


余裕の薄ら笑いで応える雷呼。


「破壊です」


「そうね。本気よ。ウソだと思うのなら、その男をちょっと貸してくれないかしら? 身体を掘り起こすから」


「お断りします」


ふんわりと笑むみこと。


「わらわは治癒の神。雷呼が破壊を望むのなら、敵対するしかありません」


「嫌ぁね。雷も再生の一旦を司っているのに」


雷呼は、薄ら笑いのままダルそうに頭を傾げる。


「再生と治癒は別の物です。敵対に問題はありません」


「嫌ぁね。そちは人を中心に考えているのね。どうせその男の影響でしょ?」


神様同士が睨み合っているスキを突き、俺は背負っていた風呂敷からロープの様な注連縄を取り出した。

それでわっかを作り、カウボーイの投げ縄の様に頭の上でグルグルと回す。

投げ縄なんかするのは初めてなので上手く行くかは分からないが、雷呼本人が浸かっている湯船は危険過ぎて入れないんだからしょうがない。


「勿論です。わらわは人の世で生きたいので、周りの人の影響も喜んで受けましょう。雷呼もそうだから復活出来たのではないですか?」


「否定は出来ないわ。雷は自然の一部。人も自然の一部。だけど、私は人を中心には考えない」


振り向く雷呼。

金色の瞳には投げ縄を投げる俺の姿が映っている。


「だから人は私を恐れ、抑え込もうとする。嫌ぁね」


真珠にした様に指先から電気を出して注連縄を撃ち落とすかと思ったが、雷呼は何もせずにただ立っていた。


「良し!」


俺が投げた注連縄は、巨岩にスポッと嵌った。

火事場のクソ力と言うのか、命が掛かっている時は事が上手く行く。


「……」


「……」


みことと雷呼が無言で成り行きを見守る。

注連縄を見上げている雷呼の姿に変化は無い。

何も起きない。


「……あれ? 巨岩に注連縄を締めたら、雷呼を封印出来るんじゃなかったのか?」


焦っている俺を見ながらケラケラと笑う雷呼。


「封印失敗かな? ざーんねん」


「ど、どうして?」


「嫌ぁね。何の力も無い、然るべき修行もしてない人が神を封印出来ると思ってるの? 思うのなら、それは思い上がりよ」


俺は歯噛みする。

それっぽいアイテムを使えば何とかなると思い込んでいたのはゲームのやり過ぎだったか。


「なら、わらわが力を貸せば封印出来るかしら?」


湯船の縁に足を掛けるみこと。

すると雷呼から笑みが消えた。


「嫌ぁね。分かってるクセに。あの狐犬よりは可能性が低いけど」


「だから真珠を追い出したのか」


そう言った俺を見ない雷呼。

ハッキリとみことを警戒している。


「尾が分かれている狐は単純に妖力が高いからね。封印向けじゃないけど、治癒の神よりはマシだわね」


逆立っている雷呼の青い髪に静電気が走る。


「狐犬が戻って来たら、今度は容赦しないわよ。そちも。遊びはお終い。飽きたから」


湯船の水面がざわめき出す。

妙な威圧感。

もの凄い圧力の電気が流れている様だ。

もみあげのアースは引っ込んでいるのに、どうしてこんな事が出来るんだ?


「あっ、そうか! 俺が突っ込んだ針金をもみあげの代わりに使っているのか!」


俺が気付くと、雷呼は一瞬だけ振り向いて俺を見た。


「嫌ぁね。無意味に賢くなっちゃって。人は、そうやって色々な神を殺して来たのね」


「どう言う意味だ?」


訊くと、雷呼はみことを睨みながら湯船の中を歩き始めた。

服がお湯を吸い、太股がお湯を波立たせている。

どう見ても実体が有る。


「復活したから、付近の神々に挨拶しに行ったのよ。そう言うの、大切でしょ?」


「そんなのは知らん。でもまぁ、大人になれば、人間でもそう言うのが大切になるのかな」


言いながらみことを見ると、長い黒髪を揺らして頷いた。

みことは挨拶回りみたいな行動はしていないと思う。

だが、俺が気付かなかっただけで、人が寝静まった深夜にでもしていたのかも知れない。


「そしたらね。誰も居なかった。何も居なかった。居ても、話が通じなかった。この辺りの神は私だけになってたって訳」


今度はしっかりと俺に顔を向ける雷呼。

寂しそうな表情。

そう言えば、さっきみことは他の神に出会っていないって返事をしてたな。


「時代、でしょうね……。人が神を必要としていない時代。神が居なくても、人が生きていける時代」


みことも寂しそうな顔をして言う。

ウチの近所にも神様は居ないのか。


「雷呼は、封印されている間、人の世の夢を見たりはしなかったんですか?」


「そう言うのは無かったわね」


バチン! と派手な音がした。

みことが持っていた雷避けの金属の棒が弾け飛んだ音だった。


「腹癒せに大きな建物を壊してやろうとしたけど効かなかった。その金属の棒と糸のせいでね」


「そう言うのを、避雷針って言うんだ。雷を避ける針って書く」


俺が教えてやると、雷呼は俺を睨んだ。

余裕綽々な態度はムカつくだけだったが、怒りを顔に出すと本気で怖い。


「復活してすぐに神と妖怪を見たせいで、世界は昔のままだと勘違いしたのね。嫌ぁね、腹立たしい」


「キャア!」


みことの身体が激しく痙攣した。

そして床に崩れ落ちる。


「何をした!? 止めろ!」


叫ぶ俺を上目使いで見る雷呼。

表情に威圧感が込められている。


「良い事? 私が本気になれば、そんな細い鉄の糸なんか一瞬で焼き切れるのよ? 気付かれない様に雷を飛ばす事も出来る」


床に倒れて小刻みに痙攣しているみことを指差す雷呼。


「人。動桃命を殺されたくなかったら、言う事を聞きなさい」


「岩を割れって言うんだろ? そんな事、俺に出来るのか?」


「嫌ぁね。知ってるんだ。なら話が早いわ。やり方を教えるから――」


「断る」


「あら。動桃命は見殺し?」


「それも無し、だ。みことは復活して数日しか経っていないんだ。復活してすぐに殺されるのは可哀そうだろ? 見逃してやってくれよ」


「嫌ぁね。人が私と駆け引きをするつもり?」


「するつもりだ。これが何か分かるか?」


俺は、ベルトに挟んで服の下に隠していた小刀を取り出した。


「それは……!」


さすがの雷呼も、小刀を見た途端に顔色を変えた。

これは脱衣場に居た神主さんの神社に伝わる御神刀だ。

巨岩の下に有る雷呼の肉体には、この御神刀で付けられた傷が有るらしい。

その傷と同じ場所を切り付ければ、高確率で雷呼の魂は大人しくなると伝えられている。

ただ、肉体と魂を二重に傷付ける為、神を殺すかも知れないと言う最終手段なんだそうだ。


「雷呼も復活したばかりで殺されるのは嫌だろう? 俺も神殺しをしたくない。ここは大人しくしてくれないかな?」


「嫌ぁね。どうしようかしら」


可愛らしく考えるポーズをした雷呼は、倒れているみことを横目で見た。


「ふん……」


「あうっ!」


床でのたうちまわるみこと。

目に見えない雷撃を食らっている様だ。


「止めろ!」


「止めてみなさいよ、人」


恐ろしく冷たい声。


「動桃命に言われているんでしょう? 私はそちを殺さないと。肉体の封印を解いて貰わないといけないからね」


話の間もみことはのたうち回り続けている。


「でもねぇ。私は気が短いの。面倒臭くなったら、全てを壊すかもねぇ。それが自分の肉体でもね!」


雷呼の声がヒステリックに高くなって行く。


「ガァッ!」


みことの悲鳴がヤバイ感じに変わった。


「さぁ、どうする? 人ぉ!」


金色の瞳孔が開いている。

本当に本気なら、一秒の迷いも命取りになるだろう。

しかし、どうしたら?

ああもう考えるのが面倒臭い。


「だったら、こうするしか無いだろ!」


手に持っていた鉄の棒を捨てた俺は、助走を付けて湯船にジャンプした。

が、真珠の様に湯船を飛び越す事は出来ず、雷呼の数メートル手前でお湯の中に足を突っ込んだ。


「!!」


お湯に浸かった俺の身体に強い電流が走る。

くそ、この腰まで有る長靴、全然役に立たないじゃないか!

気絶しなかったのは湯船に浸けた針金のお陰か。


「グゥッ! 雷呼ぉ! うおおッ!」


痺れる体を気迫で動かし、御神刀を構える俺。

狙うは雷呼のヘソの数センチ上。

雷呼を封印した人は心臓を狙ったそうだが、外れてしまってそこを刺したんだそうだ。

だから今もこうして雷呼は生きているって訳だ。


「嫌ぁね。何も考えていないバカな特攻。昔を思い出すから、そう言うの、大っ嫌い」


雷呼の両手に電気が走る。

今までの様な静電気的な物ではなく、火花が爆ぜる本気レベルの電気。

殺される? と思ったが、その電撃は俺の腕だけに当たった。

激痛と共に弾き飛ばされる御神刀。


「ゲンッ!」


同時に真珠がみことの方に吹っ飛んで行った。

戻って来ていたのか。


「真珠!」


浴場の床に転がった真珠の口には葉っぱ付きの木の枝が有り、両手に一本ずつナイフが握られている。


「嫌ぁね。桑じゃない。私には関係無いわよ、そんな物」


痺れながらも立ち上がる真珠。

そして枝を噛みながら喋る。


「まりあんが、雷の神様にはクワバラが効くって言った!」


「ふーん……」


俺の身体に走っていた電流がスッと消える。


「ああ、もう止めた。興が覚めた。そち達の勝ちで良いわ、もう」


逆立っていた雷呼の青い髪が落ち着いて行く。


「……どうして?」


感電の痺れが残っている俺は、呼吸も荒く訊く。

すると、雷呼は薄く笑んだ。

先程までの殺気が消えている。

みことへの雷撃も止まったらしく、長い髪の少女が苦しそうに顔を上げる。


「私を封印した人はね。そちみたいに猪突猛進な人だったのよ」


俺を見て溜息を吐く雷呼。

いたずらっ子を叱る小学校の先生みたいな表情をしている。


「まさか命を捨てて特攻して来るとは思ってなかったから、相打ちで封印されてしまったの。私も、甘かった」


「後悔しているのですか? その人を殺した事を」


そう言ったみことに微笑みを向ける雷呼。


「ええ。だから、そち達を殺せなかった。だから、私の負けよ」


雷呼は大きな歩幅でお湯の中を歩き、そして風呂から上がった。

洋服がお湯を吸っているはずなのに、全く水滴が落ちていない。


「これからどうするの? 雷呼」


さすが治癒の神、激しくのた打ち回る程の雷撃を食らったのに、もう立ち上がっている。

俺は立っているのもやっとだ。


「さっきも言った通り、私以外の神はもう居ない。この世界はつまらない。だから神の世界に帰るわ。

あいつと一緒に埋まっている肉体はあいつにくれてやる」


「え……?」


みことは目を丸くして驚く。


「そんな世界が有るんですか……?」


「そちみたいな不自然な神でも、魂だけの存在になれば行けるわよ。行き方は自分で探しなさい」


治癒の神を言葉で突き放した後、俺を見る雷呼。

その視線は穏やかだった。


「そち。名前を教えて」


「中古笑」


「なかふるしょう、か。覚えておいてあげるわ。命知らずのバカ二号としてね」


雷呼は唐突に指を鳴らす。

すると、俺の髪が静電気で逆立った。


「バカ一号は、痺れるのを覚悟で私を抱いたのよ。ふふ。本当、バカよね」


雷呼の身体が薄くなって行き、数秒後に完全に消え去った。

真珠が素早くその場所に掛け寄り、タイルの匂いを嗅ぐ。

不思議な事に、雷呼の足跡が残っていない。

完全に濡れていたはずなのに。


「消えたワン」


真珠が咥えていた桑の枝がポトリと落ちる。


「逝っちゃったのね。彼女の、安住の世界に」


遠い目でそう言ったみことは、思い出した様に湯船の中に入って来た。

そして立ち尽くしている俺を抱き締める。


「長時間感電していたので、念の為、治癒します」


二度目のディープキス。

俺の身体に残っていた痺れが消えて行く。


「わらわは……」


唇を離して何かを言おうとしたみことは、急に脱力して崩れ落ちた。

間一髪、その細い身体を受け止める俺。

電撃のせいで寝癖の様にグチャグチャになっている長い黒髪の先端が湯に沈む。


「みこと! 大丈夫か?」


苦しそうに眉間に皺を寄せているみことは、弱々しい声で言う。


「……お腹空いた」


脱力する俺。

ビビらせやがって。

安心したら、静電気で逆立っていた髪が収まった。


「時間的に、もうすぐ夕飯だ。きっと御馳走だぞ。俺達はこの地域を救ったんだからな」


「ふふ。楽しみです……」


この衰弱っぷりは、どう見ても雷撃のダメージのせいだろうな。


「真珠も大丈夫か? かなり派手に吹っ飛ばされたが」


「平気だワン」


「そうか。じゃ、戻るか」


俺はみことをお姫様だっこして浴場を出る。

真珠もその後に続く。

脱衣場から廊下に出ると、まりあんとその他大勢が待ち構えていた。

全員が息を飲んでいる。

だから俺は渾身のドヤ顔をして見せた。


「終わったぞ。雷呼は神の世界に帰って行った」

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