嵐の後
身も蓋もなく言うところでの世界征服に際して、レメゲトンから出発した飛行船は二つある。
飛行船と言っても、爆弾にも等しい巨大な風船にぶら下がったゴンドラと一緒にしてはいけない。同じなのは見かけだけだ――風船に見えるそれは最先端の魔道具学を施した施設の集合体である。その巨大さたるや空飛ぶ航空母艦と言った方がふさわしく、その機能性も徹底されていた。
この手の乗り物で真っ先に犠牲となるのは居住性だ。例えばかつての第二次世界大戦でホテルと揶揄された戦艦大和や武蔵などはハンモックがない程度で豪華と称され、カレーが出ただけでご馳走と呼ばれたそうである。そんな体たらくなのに、戦場でケーキ食ってる相手に喧嘩を吹っ掛けたのが運の尽きだとも言える。
ここであるエルフにスポットを当ててみよう。エルフの名はグラムと言う。
同じエルフと言ってもその生活形態は様々である。日夜顛倒という言葉は魔族の辞書に存在しない。しかし郷に入っては郷に従え、お日様が頭上にあればお日様に従う者は多い。匂いのないふかふかのベッドで眠っていたグラムが朝、目覚ましに叩き起こされたのが0800。スヌーズに三回耳を揺らされた。どんな不摂生をやらかしてもピシャリと締まっている人族垂涎の腹をボリボリと掻きながら洗面所に向かう。支給された歯磨き粉はミント味、地球みたいな歯ブラシや蛇口。最初は面食らって罠かとも疑ったが、恐る恐る使ってみるとこれが実にいい具合だった。里よりも豪勢な生活に度肝を抜かれた一週間前が随分遠くの出来事に思える。便器のウォシュレットなる洗浄器で顔を洗ったエルフの告白は、船内のネットワークで最もヒットした笑い話として定着していた。
次は朝食だ。空中に窓を呼び出して注文すれば5分で部屋の中にあるエレベーターで届き、食べ終わったら食器を戻せば回収してくれる。今朝はエルフの里でも見慣れたウリ豆のシチューと、見慣れないが臭みのないホットミルクだった――データバンクで調べた所によれば、脂肪分を抜いているらしい。なるほど、脂肪とはこういうものなのか。
部屋の掃除もしなくていい――端末で設定してしばらく留守にすれば部屋の出入口に待機しているリビングアーマーが動き出す。腹が膨ればあとは娯楽である。グラムの好みはネットワークにある数多のコンテンツの一つだった。匿名で書き込める掲示板にあるスレッド名のトップ3を、上から順に眺めてみよう。
『余はベオヴーフ国王であるに笑った奴 18人目』
『ワールド・ダーク・オンライン 129ゼニー目』
『リビングアーマーに恋してしまいました・2』
っておい、これはどこのニートだ。
所と時は変わって午後の娯楽室。赤コーナー、エルフの里を滅ぼした軍勢の指揮官であるジョルジュ=スパウゼン。青コーナー、滅ぼされた里のトップである長老達が勢揃い。行っている競技は将棋のバトルワイヤル。天狗の青年は現在23勝目、色々と腹に溜め込んでいたエルフ達を挑発した5日前から計算すると200勝以上。長老達はどいつもこいつも明らかに頭に血が登っていた、とてもではないが9人合わせて5000歳を超えているとは思えない。ギャラリーが勝敗の賭けで使っているのは仮想ゲーム内の貨幣だった。自分たちの長が敗北を重ねるごとに、ネットワークのツールでオッズを計算する。和気あいあいとエルフ杯が行われる日も近い。
不穏な事を考えて一人自室にこもっているエルフも少ながらいるにはいるのだが、こんな光景を見せられては戦意もくじけるというものだ。立入禁止エリア以外は特に行動の制限も設けられていないが、フロアの所々でリビングアーマーが目を光らせているとなれば下手な事もできない。
高級ホテルかと見紛うような居住エリアとは一風変わって、レギオンの待機フロア。世界で最も凶悪な使徒の群がいる部屋は、ゴキブリでも殺せそうな沈黙で満ちていた。
数にして三百。暗い部屋にひしめいているのは一見養鶏場を連想させる。食事も排泄も人権も必要ない兵士がどんな物なのか、彼らは身を持って教えてくれていた。1ミリの乱れもなく整列して不動のまま突っ立っているのは動物愛好団体が見たら虐待だと騒ぎ出して妨害船を出動させようなものだが、こいつらが直立不動のまま、レメゲトンも含めたネットワークで展開されているオンラインゲームを24時間体制で楽しく製作・運営していると知ればどんな顔をするのだろうか。リビングアーマーに表情はないが、ドヤ顔をして俺は魔王の正体を知っているとか掲示板でもったいぶるのはどうかと思う。
ただ一人――獣の鎧だけが飛行船の真上、ハッチのすぐ横で座り込んでいた。
風は強い。温度は氷点以下。下にマラソン大会でも開けそうな船体があるせいで、眼下の雲の平原は見えない。しかし見上げれば深みのある青をした無限の空が広がっている。その光景を気に入っているのは魔王だけではなかった。時々ネットワークでレギオンを百人ぐらい呼び出して、フル武装をさせた上で暇潰しの模擬戦をする。エルフの里を滅ぼしてからの戦績は1037戦1037勝。直接対決では滅びの鎧と現状ほとんど互角ではあるが、あの力馬鹿なら同数のレギオンを一掃して同じ時間で10倍くらいの勝利を挙げられる。その差をどうしたら縮められるのかが当面の悩みだった。どこぞの艦砲主義と違って、無闇に火力を増やそうとしていないのが偉い。
慕う主のいる『アンドレアルフス』と合流するまでは、あと1日。
世界で最も高い標高1万メートルの一つ。飛行船『グラシャラボラス』。
それは果たして空飛ぶ要塞なのか、それともただの駄目人間製造工場なのか。
ただこの中にいる奴等が野に放たれたら、世界が10回滅びてもお釣りが来るのは確かだ。
今はただ、そうならない事を祈ろう。
※
そろそろベリルの唯一の友人である地位が揺らぎそうなフィレス=スパウゼンの職業を思い出してみよう。
予め言っておくが主婦ではない。
魔王城の女官である。
一応は旦那のジョルジュ付きという名目で、専業主婦同然の生活をさせてもらってはいる。が、だからと言ってそれ以外は管轄外ですみたいな、役所やゆとりも顔負けの言い逃れをしていい訳がない。レメゲトンを束ねるのに多忙なシラが世界征服の船団について来なかった以上、王族の身の回りの支度は自分の役割であるとフィレスは自負している。
アンドレアルフスから地上に人員や物資を送り込むプロセスを一言で表現するとすればマスドライバーであり、直訳すると直接投下であった。
実に乱暴な響きだが、その中に秘められた技術を開発者に語らせてはいけない。慣性対策に隠密性に確実性に速度と、一般の方々には役に立たない、しかし専門家には興味深いどころではないうんちくを三日三晩語られる事請け合いである。
実はそれを利用しているフィレスにもちんぷんかんぷんだったが、地上の如何なる場所からでも雲の上にある船内と相互に行き来できるというのがとんでもなく凄い事なのはわかる。
折りたたんだ背中の羽根を隠密魔法で隠し、投下室に入り込んで端末を操作。ドアは閉めたか。携帯端末の所持と残存魔力をチェックするがいいかね。本当に投げてもいいのかい。三回の確認すべてにOKを選ぶ。瞬時の浮遊感を感じた――天狗であるフィレスには、空に投げ出されたのがわかる。5分くらいは暗闇の中にいたが、眼下に建物の屋根が小さく見える頃に視界が開けた。ゆっくりと落下する中、携帯端末がオートで物も人もない場所を探している。
フィレスが降り立ったのは貴族屋敷の裏だった。周りを見渡す。井戸と薪小屋とゴミの燃えカスが実に小気味よく綺麗に使われている、すべて魔法で解決してしまう魔界と比べて新鮮である。レメゲトンの生活に慣れた今、原始的だと言い換えてもいい。
そしてフィレスにとっては初めての人界だった。実に興味深い。
しかし仕事がある。
裏門は言われた通りにカギがかかってなかった。
厨房から入り込んだ屋敷の中は無人だった。万が一にも人族に見られては困るので、翼を隠す隠密魔法は解かない。裏庭の光景と言い、分厚い絨毯の足ざわりと言い、再先端技術に勝るとも劣らない使用人の質の高さがしのばれた。
その使用人達も今この屋敷にはいない、王城でレメゲトン入りのための選別を受けているのだ。最初のテストケースである。フィレスもその時になったらよろしくとは言われていた。人界の王との交渉は上手く行っているようだ。
指示された部屋の前に立ち、ロック鳥模様の細かい装飾がされたドアをノックした。
たっぷり半時間以上は辛抱強く待っただろうか、待つのも仕事だ。ようやくドアが開けたのは一見ただの人族の青年、その実開けてびっくり魔王様、デウス・エクス・マキナその人だった。かつて勇者として一人で生活していた時期が多いせいか、パリッと人界の貴族服を隙なく着こなしている。実に可愛げがない。誰かの世話がなければたちまち退廃的になる旦那と姫様を見習えとフィレスは言いたくなる。
「デウス様、女官フィレス、ただいま参上いたしました」
「ありがとう、待たせたね」
「いえ、それほどでも――それでは失礼します」
「ああ、よろしく頼むよ」
挨拶も短く、部屋から去って行くのをフィレスは腰を折って見送った。
誰に対してもあまり偉ぶる訳でもなく、かと言ってへりくだっている訳でもないこの男をフィレスはあまり好きではない。気に入らないと言っていい。こいつのやってきた事を考えればそれも当然ではある。しかし少なくとも本人の前ではおくびにも出さない。こいつは今や自分と夫の主であるし、友人であるベリルの最愛の伴侶でもあるのだ――せいぜい長生きして彼女を幸せにしてやって欲しい、さもなければ地獄の果てまで追い詰めて弑し奉ってやる覚悟がフィレスにある。魔族の千年と武門の女を舐めてもらっては困る。
部屋の中はなんとも言えない空気が篭っていた。嗅ぐだけで下腹が思わず疼いてしまうような匂いだ。慣れているフィレスには我慢ができる。うん、明日ジョルジュ様と合流したら愛してもらおうそうしよう。
フィレスはベッドに近づく。
情欲の限りを尽くしたらしく、シーツが乱れに乱れている。
姫様が丸まっていた。
布団の下から覗く肩が女でも赤面するくらいに艶かしい、首筋に付けたばかりの薄赤い印はまだ黒ずんでいない。男がよく妄想するような全身汁まみれな訳ではないのだが、絹のような銀髪が染め損なったように所々白く固まっていた。フィレスにも覚えがある――初めて男にご奉仕して、口で受け損なうとそうなる。顔や体は拭いてもらえるが髪は無理という訳である。まあ、何事も経験だ。
フィレスを待たせた時間で一戦やらかしたのだろう。半開きになった唇の間から官能的な寝息を小刻みに吐き、ベッドに身を沈めているのは実に幸せそうだった。これもよしとしよう。
なるほど、フィレスは思った。これは人族の使用人には頼めない訳だ――魔族だとしても、相手がいない女性では無理だ。その惨状から魔族だとバレるリスクもそうだが、漂う淫靡さはサキュバスでも裸足で逃げ出すぐらいだった。魔族の経験者以外がこんなものを目にしたらどこかしら壊れてしまう。男などが目にしたら即座に襲いかかってしまうだろう。
あまり大っぴらには言えないが、魔族の女には後始末用の魔法もいくらか伝わっている。他の男のものなんぞ触れたくもない。極力匂いを嗅がないように髪にこびりついたのを分解してあげた。
眠りは浅かったらしい、ベリルが目を開く。茫洋とした視界の中で一言。
「ヴォルグ……?」
えーと、どう答えたものか。
一応は事情を言い含められたばかりのはずなのだが。これが何やらは盲目という奴だろうか。
「愛しの魔王様は別の部屋で支度してるわよ――ベリル、私がわかる?」
ベリルはそこでようやくフィレスだと気付いたらしい。頷き、頬を染める。自分がどんな状態なのか思い出したらしい。えっと、あの、その。まるでおもらしを現行犯で逮捕された子猫のように目を泳がせている。
うわ。
これは部屋の前で待たされるはずだ。お互いの身を引き剥がすのも一苦労だろう。
一瞬でも女に生まれたのをフィレスは後悔しかけた。が、思いとどまる。このお姫様を主に頂くほど幸運な事もないし、男に生まれたとしても手に負えない気がする。人には分というものがある。世界一の女を求めて探し当てた男は女に聞かれるのだ、あなたは世界一の男なのかと。第一、世界一の男はフィレスの旦那である。今となっては他に譲る気はない。
「起きれる?」
そう言われてベリルは布団で胸元を隠しながら肘で上半身を起こし、
そこで止まった。
うん、やっぱり。腰が抜けている。
しょうがない。ベッドの下でがびがびに固まったおしぼりは見なかった事にして、フィレスは携帯型の温水器を取り出した。持参したタオルを熱湯で濡らして絞る。別に自分の魔法でやってもいいが、熱湯を直接作るのは魔力を馬鹿食いする。その点、レメゲトンが驚異的なのは技術力と発想の両方だ。
フィレスは布団をゆっくりとめくり上げる。正常な人間ならば誰しもグラッとするような匂いが漂ってくる。
濡れていた。テカっている。垂れるを通り越して溢れていた。女でも生唾を飲み込んでしまうような光景。それが下品に見えないのは大事に扱われて、打ちどころのないぐらいにスタイルがいいからだろう。そのスタイルが普通の魔族よりも少し努力して手に入れたものなのを、フィレスは知っていた。
何回か風呂を共にした事はあるが、本人が嫌がるのもあってベタベタと触った事はない。しかし精も根も尽き果てたのだろう――体を拭かれるベリルは文字通りの骨抜きになっていた。エラい事になっている太ももの内側にタオルを近づけると、震える両手で抑えて自分で拭くと言い出す。
んでもって、拭いたタオルを情感たっぷりに嗅ぎ始めるのだ。
「やめなさい」
「あ…………」
仮にも主である。まさか頭をはたく訳にもいかない。舐め始める前にタオルを取り上げた。
むお、触ってしまった。即座に温水器で手を洗い、古いお湯を窓から捨てて新しいのでタオルを洗った。その水も捨てる――だから指で拭うのをやめろって。指も綺麗にする。まるで飴を取り上げられた子供のように見上げられてフィレスは少し仰け反ってしまう。
凶悪だった。かつてフィレスが拾ったフェンリルの子供よりも純粋な瞳なのだ。
はー、フィレスはため息を一つ。
壊れている。
似たような経験をした魔族の女としても、そう言わざるを得なかった。辛うじての分別は付くようだが、理性がガラスのように脆くなっている。単なる色情狂と違うのは、あの魔王でなくては駄目だ、という点だけだろう。
魔王と引き離せば今までのように完璧なお姫様として振る舞えるだろうが、その引き離すという任務がミッション・インポッシブルだった。元勇者で魔王と、元魔王なのである、世界最強のバカップルの誕生である。どないせいっちゅーねん。
しかしその一方で、フィレスは心中胸を撫で下ろしてもいた。
――シラ様からナタリー様の話を予め聞いておいて良かった。
レメゲトンでの出発に際して、シラ立ち会いの元でベリルから体の事は聞いている。闇の巫女でも一際異類であるベリルはどちらかというと人族に近い――それがどういう意味を持つのか。発情した猫もかくやという姿が答えだった。
魔族の人族に対する優位性はなにも腕っ節の強さだけではない――魔族に本気で抱かれた人族は、生半可な人族の男ではもう満足できなくなるという。流石にベリルみたいな極端な例は少ないが、それでも持て余して自ら魔界の色街に落ちてしまう者がいるくらいだ。人界ではそれを魔に魅入られたと言うらしい。よく考えるとこれが人界と魔界の仲が悪い理由の最もかもしれない。食い物の恨みでさえ、末代まで祟るのだ。
しかしさもありなん。魔族のまぐわいとはそういうものだ。それくらいしないと子が成せないというのもある。
一応、ご懐妊になられたらマシになるらしい。その後はお母上が逝去されたのでわからない。魔族は一般的に言うと初めて子を作るまで何十年と必要で、百年かけて出来ないと悲しんでいる矢先に出来る事もあるという事実も知らん。知らんったら知らん。ええいもう、こうなったらどっちが先に出来るか勝負だ。
全ては予測内である。埒外にあるのはそこまで至る早さだけだ。その速度たるや、自分から望んだフィレスが幼なじみを陥落させてから以上であるのだ。自分たちより愛が深いように思えてフィレスの心中はちょっと複雑になった。
――いかん。長居するとこっちまでおかしくなりそうだった。
果報者はどこだ、とっとと押し付けて帰りたい。その後はちょっとだけスッキリするか明日に上乗せするか迷う事だ。よし。5秒で後者に決めた。
まるで計ったようにドアをノックされた、というか計ってるのだろう。こちらの分別はまだかなり残っているらしい。
しかしノックを聞いたベリルは違った――ガバッと上半身だけの力で身を起こす。まるでご主人が帰宅した時の犬のようだ、微かに震えているのが庇護欲を誘う。押さえ付けた拍子にまた溢れやがったので問答無用で拭き取る。こら甘い声を出すな、変な気になる。布団を被せた。温水器で綺麗にしたタオルを絞っておく。
大人しくしないと嫌われるわよ――どうせ5分と持たない脅しをかけるとベリルは哀れを通り越して笑えるくらいに萎れた。枕を力いっぱい抱き締めて我慢するほどか。塩持って来い塩。
この状況から逃げ出すには、5分で十分だった。
ドアを開ける。表面上は完璧な一礼をして、フィレスは挨拶もそこそこに部屋を後にする。思わず早足。廊下のド真ん中にお化けが出てきそうだったので振り返りもしない。
ぐぬぅぅぅぅぅぅぅぅ。フィレス、我慢よ我慢。
傍目八目。灯台下暗し。
シラのいない時にフィレスにお鉢が回ってきたのは、因果応報だと言えよう。