王の帰還
「何故わからぬ!」
激情が机を叩いた。エルフの腕力は細い丸太を握りつぶせる、それでも特注の切り株テーブルはビクともしない。切り株をグルリと取り囲んでいるのは、辟易したようなエルフの男女達。9人はどいつもこいつも妙齢に見える美形の男女達だが、連日の集会にうんざりとした顔色を隠そうともしない。
「しかしだな、ラウズよ――」
それでもババというのは誰かが引かないといけない。朝、いきなりギトギトの焼き豚が食卓に挙がってきたような顔をして発言したのはクレイモン。トグロを巻いた、よく言えばアイスクリームのようで、悪く言えば便器の中身とベリルなら表現するであろう頭。長老の中では一番の若手で下っ端だ。
「勇者の一族から絶縁されたと言っても、ユグドラシルからはその確認を取れていないのだぞ?」
「何度も言っているだろう! それを言い放ったのは当主なのだぞ! 即刻奴等から全てを回収し、我々がその位置に納まるべきだ! 奴等に警戒されて準備が整わない内にやるべきだ!」
「そもそも絶縁というのも君の証言だけなのだがね、刻命石が砕けたというその当主の言葉を証明できるのかな?」
ラウズの端正で色白の顔が目に見えるほどドス黒く染まった。
「き……貴様、言う事に欠いて私を疑うのか! この日和見主義の馬鹿共め!」
あからさまな罵詈雑言に場にいる9人の長老がシンクロして顔を顰める。馬鹿はどっちだ。世の中のどこに悪口を浴びせかけられて言う事を聞く人間がいるのだ。まるで思い通りにならないからと暴れ出す子供だった。
しかしその力は確かだ。ラウズは里の中でも数少ない独自魔法を扱えるエルフだが、魔法の腕と共に見識と人格を磨こうとはしなかったらしい。元から鼻で他の人間を見下すような嫌な奴だったのだが、人界からしょんべんを漏らして帰ってからは拍車がかかったような気がする。エルフはあまり外に出たらがらない。魔導回路処置の実験台にした勇者の調整役を頼まれたのも、単に厄介払いにされただけだと未だに気付いていないらしい。
「と、ともかく、ユグドラシルでは新しい勇者の選定を行っているという、それが終わるまではこちらから何かをする訳にはいかんのだ!」
「話にならん!」
それはお互い様には違いない。周りが馬鹿に見える奴は、そいつが馬鹿なのだ。
ラウズは鼻息荒く踵を返し、壊れない程度の力でドアを叩きつけた。神木を丸ごと繰り抜いた長老会議室を見上げる。神木とは聞こえがいいが、要は数千年ものの時を生き抜いた大樹を殺して魔導式で固定してるだけだ。大樹が葉も実も成す事はもはやない。まるで人界に寄生しているエルフの象徴のようだった。
そもそもの話として、何故勇者の一族を前に立てなければいけないのか、今のラウズには理解ができなかった。レメゲトンなる塔で味わったあの万能感。全てを手中にするような快感を今まで勇者の一族は独占し、エルフは数千年に渡ってそれを裏から支えていたのだ。そろそろ奴等から全てを取り上げて何が悪い。
里の結界からすら外れた森の中、辺り一面が禿げている空き地にラウズは向かった。切り株にドスッと腰を下ろす。そこは竜王招来に開眼して以来、彼だけの世界となっている。
「かくなる上は……」
いやいや、と首を振る。いくら里の誰もが自分のように魔力を蓄えておらず、自分が突出しているとしても、長老達だけは別格だった。その何人かが力を合わせれば、自分一人を抑える事は十分に可能だ。
数が必要だった。集めた仲間達に、魔力を蓄えさせるための時間も。
ラウズ最大の幸運は、その三百年余りに渡る人生の終わりに際して、自分の力と考えを肯定する者達がやってきた事だろう。ランスロットとの交戦記録と魔法使いの計算は、密かに魔力波長を追跡されていたラウズをエルフの里における最優先排除対象として認識したのだ。
痛みはない。音すらなかった。
ラウズがレメゲトンから逃げ帰って以降、尖らせた神経の如く張り巡らせていたプロテクションが、濡れたティッシュペーパーのように切り裂かれる。何時の間にか忍び寄ってきた獣の鎧が振り下ろした大剣が、まるで空を切るような勢いでラウズの首の位置を通過した。一拍遅れて頭が落ちる。蛇口を捻ったホースのように血が噴き出し、体がゆっくりと前のめりに倒れた。
開いた兜の中から目玉がギョロリとしているその背後。遥か上空からインビジブルをまとって降下したリビングアーマーの軍勢が、結界の外に密かに潜伏する。
エルフのネタが割れたのは、僅か二日後の事だった。
マジックマスターがそこに目を付ける前から、木々は数千年かそれ以上の時間をかけて人界の大地に奥深く根を張り、その向こうにある魔界から闇素を吸い上げていた。勇者に全て押し付けていたエルフの里は平和だった――誰もがラウズのように魔法の腕を拠り所としていた訳ではない。必要最低限の魔力を保持し、あとは需要に応じて木々から汲み上げるのが楽に生きるコツなのだ。
逆に言えば、そんな中でも魔法の腕を磨きあげた者だけが、里での主導権を取れる――だからラウズのような人間が、煙たがれているとは言え長老にまで登り詰めれるのだ。
一体何をされたのか。エルフ達に並々とした魔力を供給していた木々は沈黙した。
夜更かししていた魔族が眠りに落ち、昼に活動するエルフが寝ぼけ眼をこすっている爽やかな人界の朝。
気付いた時には、全てが終わっていた。
里の中央にある空き地で、一体のリビングアーマーが大剣を地面に突いて立っている。一匹見かけたら百匹いると思え。ではその百匹はどこにいるのか。
長老達の感知魔法では、槍とも杖ともつかない長物を構えた異形の姿達が、里の各地に散らばっているのがわかった。いくら力を持っていると言えども、誰もがラウズのように短慮では長老会議は務まらない。
ババは誰かが引かなければならない。
空き地に出たパジャマ姿の長老達が目配せをする。唯一夜更かしして服装がまともだったという理由で、一人の長老が獣の鎧の前に出た。
そこから僅か三日後――無力な普通の住民達をレギオンに抑えられたエルフの里は、自然に返されて無人の廃墟と化した。
そして人界に数千年も巣食った魔族達を制圧したリビングアーマー達の中に、姫君を守る騎士の姿はいなかった。
※
城門に入ろうとする群衆の中、ひっそりと一匹の馬が並んでいる。
それでもユグドラシル外城城門守備隊長・ヘイムダル=ダ=サイレンを初めてとした人間が注目したのは、馬に乗っていた一対の男女があまりにも目を引いたからだ。
数年の時を置き、少年という域を脱して益々精悍さが増した青年。きらびやかな鎧はない。豪華な鞘も腰に下げてはいない。それでも彼が体の前に大事に支え、眠っているように目を閉じている銀髪の姫は、地味な服装にも関わらず人目を惹かずにいられなかった。
かつてユグドラシルで凱旋した勇者と初めて会話した守備隊長は、この時も真っ先に二人に駆け寄って声をかけた。声が震えている。
「ゆ……勇者殿。よくぞ、い、生きて……」
「久しぶり――ヘイムダル殿、だったかな?」
覚えていておられた。震えはもはや全身に伝わり、鎧と剣が打ち合ってカチャカチャと音を立てている。
しー、と人差し指が勇者の、
「僕はもう勇者じゃない、この意味がわかるね?」
いや、元勇者の唇に添えられる。
それは英雄譚の終わり。語られる事のない事後談。
攫われた姫君とそれを救った勇者は、ただの男と女に戻るのだ。幸せに浸かるために。
ヘイムダルはコクコクと頷いた。
それでも――例え本人がどんな装いであろうと、どんなつもりだろうと、彼が英雄であるのは間違いないのだ。
えこひいきをして二人と一匹を先に城門に入れた守備隊長に、文句を言う者はいなかった。
凱旋の時のような叫びはない、歓声もない。
それでもただの男と女に戻った勇者とお姫様を一目見ようと、ユグドラシルのあらゆる所から群衆が集まってきた。誰もが息を止めて、ひっそりと大通りを進む二人を見つめている。
勇者と姫君の絵が売りに売れて以来、実家の商家でその絵を取り扱うまでに至った金持ちのボンの一流画家は、噂を聞きつけて大通りに出た。
俺の目は節穴だ。
ボンは目をこすった。凱旋のあの日の後、勇者と恋する姫君なんて煽り文句を付けて売り出した――それが今更になって恥ずかしくなったのだ。
ほら見ろよ、あの勇者と姫様の姿を。あの二人には金ピカの鎧もマントも、ヒラヒラの白いドレスも余計だったんだ。どこにでも売ってるような服を着た二人にとっては、お互いが一番大切な宝石に違いない。見ろよ、あの嬉しそうで、恥ずかしそうな笑顔。あれが本当に恋する乙女の顔なんだ。恋人を大事にする男はああいう姿であるべきなんだ。
ボンは目を閉じる。瞼の裏に恋する男女の姿が焼き付いているのを確認。アトリエに飛び込んで即座に炭ペンを取り出して猛烈な勢いで描き出す。
そして静かにざわめく群衆の間を抜けて、
二人で一つの魔王は、人族の城を目指した。
人界は相変わらずだった。道端に平然とうんこやしょんべんが垂れ流し。
ベリルがヴォルグの胸に顔を押し付けているのは何のことはない、相変わらずの人界の臭さをごまかすためだったのだ。
ベリルは呟く。
「この悪人」
「魔王だからね」
笑いながら呟き返してくる魔王デウス・エクス・マキナの言葉は、誰にも聞かせる訳にはいかない。
かつては殺伐とした雰囲気だったのも、今になっては懐かしいぐらいだった。
「王様に会おうか。それほど物を知っている訳じゃないけど悪人じゃない――変わっていく世界のために、一働きしてもらおう」
「うん」
「その後にお屋敷に帰ってみよう――あの王様なら、多分そのままにしておいてくれているから」
ベリルは頷いた。
そしてもう一度呟く。
群衆が硬直した。一部で上がる黄色い声。
勇者の胸に額を押し付けた姫君が、板金に覆われていない胸板の上にのの字を書き始めたのだ。何よりもタチが悪い事に、それが絵になっている。
公然と口付けしてでもいたなら、盛り上がって歓声でも上がったいたかもしれない――それすらも出来ずにカチンコチンになった群衆を抜けて、どこにでもいそうな馬が歩いて行く。