手術室前の考え事
元青年には心残りがひとつある。
オタク仲間に薦められたその映画は、記憶の欠落として名前がわからない。随分と昔に撮られたという映画は死んだ男がロボット警察になって活躍するといもので、元人間なのに真っ二つになった特殊メイクの断面が生々しかったのを覚えている。そして数十年の時を置いてリメイクされたそのロボット警察を動画サイトのCMで楽しみにしていたのを以降に、元青年はその本編を拝めていない。
目の前の光景は、ロボット警察が目覚めた時のシーンに似ていた。
ケーブルの代わりに部屋のあちこちから魔導式が地面を這っていた。それらは全て大仰でサイバーな椅子に座った勇者の体に集中しており、リッチが呪文を唱える度に光ったり変形したり波打ったりしている。その勇者と言えば見た事もない怪しい道具で満載の工房を興味深そうに見回し、傍で作業をしている少年がぶすっとしているのにもかかわらず質問を繰り返していた。最初はベリルが相手していたのだが、あまりに専門的すぎてついていけなくなったのだ。一応この工房は俺んだ、俺んだぞという心の呟きが虚しい。
新しい双龍紋の装着と共に、身体中に描かれた白い線はヴォルグの体から消え去っている。今、繋がった魔導式の一本から黒い魔力が伝って行った。
一瞬で黒くなった双龍紋を、ヴォルグは目を丸くして見ていた――同じ結果を生み出すために、この勇者はベリルの親父と薄皮一枚を削るような戦いを繰り広げたのだ。
わかるわー。ヴォルグの手を握りながらベリルはさもなりあんと頷いた。むしろまだ反応が浅い方だと言えよう。ベリルが初めてこの技術を見た時は、半日はショックで午後のティータイムの記憶がない。世界がひっくり返るのはまだまだこれからだ。
迸る魔力が、全身の回路を黒く染めあげていく。その外見はと言えばロボット警察というよりはとある悪魔を召喚するゲームのシリーズの、悪魔に寄生されて悪魔になった主人公のようだった。
ロマンチックな告白シーンの後には、現実を見つめる作業が待っていた。
少女漫画のように勢いに任せて致してしまう余裕すらない。本人が言うには体の崩壊する音はもう聞こえていないのだが、無論そんな簡単に納得できるベリルではない。何せ命がかかっているのである。そしてまるで歯医者を嫌がる子供のように引き摺って行ったヴォルグは、たちまち青狸を開發していても不思議ではない工房に夢中になった。
忘れていた訳でではないが、勇者の一族はこの道では数千年に渡る魔道具学の先駆者だ。
そして勇者は、魔王を張り倒すぐらいには魔導式の達人だった。
体系が違えば言葉も違う。詠唱魔導式展開の事を、ヴォルグはパイモン式方陣展開と呼んでいた。ラウムのヘキサグラムって何、と思わず聞き返した大魔導師の二番弟子に、ヴォルグはこの双龍紋に魔力を流し込むための入力式だと答えた。オタクは同じ趣味の人間に弱い、現実的なコストを度外視しているだけあって、自分の世界に理解を示した人間にはそれこそエロゲのヒロインのようにアッサリ転んでしまう。よく見ると顔を背けたホーゲンの頬がぴくぴくと動いてる、振り向いて専門的な話をしたくてたまらないのだ。
その一番弟子と言えば二人の会話の1割ぐらいしか理解できず、ヴォルグの横でつまらなさそうな表情になりそうなのを必死に戒めていた。なるほど、ゲームをやっていた元青年の横で、元彼女がしきりに声をかけて集中を乱そうとしていたのはこういう事か、と重力を発見したニュートンのように納得する。一緒にやろうと言ってもこちらに背中を向けて転がり、ファッション雑誌を読み始めるのだ。
自らその立場になって、ベリルはようやくその気持がわかった――単純だった、かまって欲しいのである、彼がコントローラーに夢中ならば、せめてそのコードの繋がるゲーム機は自分であって欲しい。が、そんな事は無理だとも今のベリルはわかっている、男だろうが女だろうが、人間は他人の無聊をごまかすためのペットではない。元彼女はそれをわかっていなかったぐらいには馬鹿女だったし、元青年はフォローを入れるのを忘れているくらいには女を知らないクソオタクだった。お互い様の結果は痛み分けの破局となり、かくして元青年は夜通しヤケ酒を飲む事と相成った。
まことに若気の至りという他ない。立場が違えど二度目となればより上手く出来るのは当たり前で、ベリルはじっと耐えていた。ほら、それが後々どんな結果を招くかもわからずに、胸を勇者の腕にさりげなく押し付けていたりする。
そんな時間が終わりを告げたのは、うら若き――って訳でもないように見えてやはり若い七十歳の継母がサンドイッチを載せた皿を工房に持ってきたからである。何時の間にかお昼になっていた。
「ヴォルグ=ブラウン様。ベルセルク=フォン=タッカート様が、これをと」
その言葉の意味をわからないヴォルグではない、にっこりとして頷く。
「元魔王様に、昔の無礼をヴォルグ=ブラウンが悔やんでいたとお伝えください」
嘘つけ。
が、それが和解の意思表明であるのは確かだ。
ヴォルグは興味深げに具材を挟んだ食パンに目をやっている。地上でサンドイッチと言えばライ麦パンに挟んだ干し肉と漬け野菜が相場と決まっている、いいとこ小麦のクロワッサンだ。
コードから外れないように、勇者の手足は固定されている、工房に篭もりっきりのパパンのために考えたそれを、ベリルはヴォルグの口元に持っていく。
「うん、美味しい」
「それはようございました……それで、あの」
乏しい表情でもじもじするプレアにベリルは首を傾げる。まさかヴォルグになんとやらな訳じゃあるまい――こんな重い男、本性を知らないならいざ知らず、相手をするような根性のある馬鹿女は世の中でも自分だけだという自負がある。
ふと、視線を感じて周りを見渡す。
その場にいる全員がこちらを見ていた。
バイアンの虚ろなしゃれこうべも、微かに頬を染めたプレアも、呆れたような表情のホーゲンも、その他の工房の少年少女達もが手元の作業を止めていた。
全員の視線がベリルに――その手に持っているサンドイッチに集まっていた。
あーんをやっていた。
ベリルは逃げ出した。しかし囲まれてしまった。
衆目を意識したギクシャクとした赤面のまま、責任を持って最後のサンドイッチをヴォルグの口元に運んでしまった。
「姫様、結構時間がかかると思うので、終わるまでお昼をとってきてはどうでしょうか」
半目になって、言外にベリルが邪魔だと言い放った少年をベリルは引き攣った表情で見る。
言うようになったな、こいつ。
※
結局、ベリルは工房には戻らなかった。
サンドイッチの皿を抱えたベリルに、ヴォルグは何かを囁く仕草をした、そして耳を寄せた自分にあろう事か首を伸ばしてほっぺにチューをしたのである。工房の目を考えると、どうしても再びそこに近づく勇気が持てなかった。
上の空で昼食を終え、まるで妻が初めてのお産を迎えた男のように何をするでもなく辺りをウロウロとする。それが手術室の前で待つような心境になったのに、さほどの時間がかからなかった。午後のティータイムもパスして、かと言って自室でも落ち着けず、カーディガンを羽織ってテラスに上がる。
心の整理をする必要があった。
背後では、部屋の前からついてきたランスロットが控えている。
ベリルは思う。こいつはどこまでわかっていたのだろう――勇者と騎士の間に何があったのか、ベリルは知らない。
結果としてランスロットはヴォルグを通した。滅びの鎧はそれ以降テラスに陣取るのを止め、また昔のようにベリルの部屋を守り始めた。よく考えるとこいつもロボコップみたいなものだよな――とベリルは自然とロボット警察の名前が記憶の表面に滑りだしてきた事に驚いた。記憶の歯欠けにも程度があるらしい。
そう言えば――バイアンが言うにはランスロットには昔の記憶があるらしい。前々代魔王に殺されたという事は、少なくとも百年以上も前だろう。結婚したのだろうか?子供がいるのだろうか?その場合――子孫はいるのだろうか。そして何より、気にはならないのだろうか。ロボコップは自分のだった妻子を見に行き、ストーカー扱いされた。ランスロットが人間であった時の子孫に出会うような事がある時、こいつとその子孫は何を思うのだろう。
ヴォルグは大丈夫だろうか――バイアンには百パーセントの信頼を置いてあるが、何事にも絶対という事はありえない。今も空中に窓が開いて、緊急事態を知らせてこないかとドキドキする。一人になるとコンマ以下の確率が100以上のパーセントとなってベリルの心に暗幕を下ろそうとする。
朝までヴォルグが寄りかかっていた柱に背をつけて座り込もうとして地面の冷たさに立ち上がり、迷った末に勇者がよじ登ってきたというテラスの端に歩き寄る。
「ランスロット」
墜落防止の魔導式があるのはわかっているが、褒められたものではないので、一応の保険として滅びの鎧も傍に控えさせる。こいつなら万が一ベリルが落ちても身を賭してもテラスに戻し、自分が落ちても無傷で帰ってくるだろう。
テラスから見下ろす雲の平原は、落ちたら助からないと思うぐらいには頂上と距離が離れていた。
見ているだけで寒気が背筋を走り抜けるが、ベリルはその場に踏ん張る。
勇者は、雲の遥か下から登ってきた。
どんな思いだったのだろう。腐れエルフに余命一年だと宣告され、調整なしでは数ヶ月と生きられないのに縁を切った。そしてその人生を象徴するような、一人ぼっちの登攀を敢行したのだ。
ベリルに会うために。
塔の中からベリルに会う事を望まなかった事を鑑みるに、ヴォルグはベリルの期待に完璧に応えてみせた。それはヴォルグがベリルの力を完全に理解していても変わらなかったに違いない。元男としての感覚が、男はそういう所で意地を張るのだと語っている。
だから、せめてもの償いとして、ベリルは彼に隠し事をしたくなかった。
キスされた頬を撫でてみると、もう数時間経っているというのに熱い。
紅を引いた唇に恐る恐る手を伸ばしてみる。
あ、やばい。
人間は脳で感じるという。
唇から股の間にかけて、甘い衝撃が走り抜けた。
男だったら間違いなく勃ってる。
一瞬で、ベリルは天国から地獄に落ちた。
下腹の疼きが嘘のように引いて行く。
ベリルは女だ。それは鏡を見てもそうだし、女としての自分を確認している時もそうだ。女として生まれ、女として育ち、ユグドラシルから去ってからのこの2年間は殊更覚悟を決めて過ごしてきた。周りも自分を見て女だという以外の答えは絶対に返ってこない。今一瞬走った感覚ですらも男とは別のものだと、胸を張って言える。
例えば、ベリルの体質をヴォルグに言ったとしよう。彼は決して気にしない。頭の中にある、地球の記憶を語ったとしよう、ヴォルグはそれを闇の巫女の性質として受け入れてくれた上に、それで世界をどんな風に変えるための参考資料にしてしまうだろう。言うなれば、ベリルではどうしても出来なかった未来の設計図を引く事が、ベリルと契約の口付けをかわしたヴォルグの仕事だった。
――では、自分の中にある記憶が男の物だという事は?
それを考えると、ベリルはまるで塔の上から真っ逆さまになる錯覚を味わってしまう。
地球で、医学の力で女になり、女優にまでなった元男がいたのを思い出す。彼の親は彼女と縁を切ったという。自分の事を自分で決めた彼女を応援する声もあったが、そのグラビアは、結局好奇心以外の理由で売れなかった。
それがどんな美女だろうとも、中身が男だとわかれば余程の変態でなければ抱く気にもなれないに違いない。下手をすると同性が好きな男にまでお断りされるかもしれない。少なくとも元青年としての感覚がそう語っている。
ベリルはヴォルグに隠し事をしたくなかった。
だから――それも言うのだろうか。
本当に言ってしまった時、ヴォルグはどんな反応を返すのだろう――気味悪がるのだろうか。ありえないだろうが、むしろ男の方が好きだと言うのだろうか。それとも全く気にしてない態度を取るのだろうか。全て無かった事にするのだろうか。どれも可能性はあるし、どれもピンと来なかった。
そして例えば、例えばの話だが――延命を果たしたヴォルグと千年添い合ったとしよう。
千年ものの間、これを秘密として抱えて一生過ごすのだろうか。
怖くなった。自分の体質を世界に知らしめた後殺到するであろう男達も、ベリルの元が男である事を知るとその大半が足を揃えて逃げ去るに違いない。
獰猛な想像力はよりにもよって元彼女の姿をしていて、生ゴミに向けるような目でベリルを見ていた。
――キモッ。
何時の間にか、空が暗くなっている。
甘酸っぱい気持ちなど吹っ飛んでしまっている。体が寒く感じるのは、決して今いるのが標高二千メートルの上空なせいだけではないだろう。
ランスロットを付き従えさせて雲が一望できる端からテラスの奥に引っ込むと、ベリルの目の前に通知用の窓が現れる。
バイアンからだった。
勇者に対しての、検査と処理が一通り終わった。
――後で、積もる話をしよう。
ベリルの頬にキスをした後、ヴォルグはそう囁いたのだ。