小さなりんご
騎士の王の予想通り、勇者は塔にいた。
しかし攻略の最前線たる眠れぬ魔族によれば、彼より上の層が攻略された形跡はなかったらしい。じゃあそれより下の階層にいるのだろうと考えても、他の冒険者には全く目撃されていない。
そもそもである――レメゲトンの出現と共にテンション全開で日夜を問わない攻略にかかった眠れぬ魔族には悪いが、馬鹿正直に塔を登って行って頂上に辿り着いても囚われのお姫様を救い出せる訳ではない。それどころかデウス・エクス・マキナなる魔王を拝むのすら不可能だった。
ひどい話もあったもので、頂上に辿り着くその一歩前で遭遇するのは魔道具学の粋を集めた剣と磨き抜かれた剣技と兆を超える経験と無敵の鎧と不屈の精神と不眠不休の体とパワーと魔力と愛と根性と友情と忠誠心と魔法使いのアシストと無敵の仲間を全て持ち合わせたリビングアーマーである。いくらなんでもあんまりだと思うだろうが、現実とは何時も非情なのである。
つまりはネットゲームの廃人を彷彿とさせる不眠と絶えぬ努力の果てには、今や個体としては地上最強の存在となった姫君の剣が待っており、渾身の土下座をしても多分通してはくれない。それどころか頑張ったで賞としてプライドを折らないぐらいに手加減されてボコられてフローターにポイッなのだ。どこかのインチキエルフよりも手心を加えてくれるとは言え、クソゲーである。
結果としては世間的の評価も魔道具も財布もザックザックであるが。実はお姫様だけが目当ての本人的には無駄な努力もいい所なのだ。悲劇である。
では原点に戻ってみよう、逆転の発想として頂上に向けて空を飛んだり壁を登るのはどうか。もう一度言うが闇素が薄いので魔界の空飛ぶ魔族や魔物では辿りつけないし、貧弱な人界の鳥に人間の重量が加わると飛ぶどころの騒ぎではない。そもそもレメトゲンの外壁にはとっかかりが少ない――ピックなどの道具は生半可な力では刺さらないし、小さな突起に引っ掛けた指一本で体重を引き上げれるような達人でもなければ到底無理な話である。以上の条件をクリアしてもその高度たるや見えている範囲内でも雲の上、つまりは最低2000メートル、最高10000メートル以上。ダメ押しに外壁を登る奴がいるのを予想したかのように、途中から外壁が大きくせり出している。そして全てを魔法で解決するような一点突破の万能選手には大自然から魔力を吸い上げる頂上近くの外壁が待っている。魔王ぐらいの魔力がないと登り切るのは不可能だし、そもそも頂上にテラスという出入口があるというのを知らないと登る意味を見出だせない。
だというのに、勇者ヴォルグは、せり出した外壁の上にいた。
人界の奥深くに隠れ住むエルフの魔法は、空間に充満する闇素を使わない前提で発展している。
だからここが闇素のない空間だとしても、せり出した外壁の縁を狙って、下から浮遊魔法で浮いてくるのは十分に可能なのだ。
フロアで言うとこの高さは1300階ぐらいか。浮遊魔法は魔力を馬鹿食いする――ここまで来るのに使った双龍紋の魔力はおよそ4割ぐらい、とヴォルグは色から見当をつける。エルフが勇者のために長き時で練り上げたそれの魔力容量は桁外れに多いが、お姫様の作ったマジックチャージャーとは違って魔力計などついていないのが玉に瑕だ。
他には何も持ってきてない、丸腰だった。
趣味の悪い金ピカな鎧も、華美な鞘も、代々伝わる紋章の鎧も、紋章の剣すら持ってきてない。今のヴォルグに、そんなものは必要ない。そこらへんにある服で身を包んだヴォルグを、見た者は誰も勇者だと思わないだろう。
その代わり、馬鹿な一人の魔族がいる思ったかもしれない。
ヴォルグは眠らない。黒い双龍紋から身体中に刻まれた魔導回路へと注ぎ込まれる魔力が、まるでレメトゲンの最前線を攻略しているという魔族のような眠らない体質を勇者に与えている。
ヴォルグは疲れない。魔導式での強化を加えたこの体は、魔族に近づいている。つまり、魔力で肉体をある程度望むように変えれるのだ。ある意味では、今の彼は、エルフの魔道具学が作り上げた傀儡だ。この身を操る糸は既に切ってしまったが、塔を登れるような力を与えてくれた事だけは感謝したい、と青年は思った。
城下町を駆け巡って集めた情報に、不眠不休で昼も夜もレメトゲンとその周辺を観察し続けた結果。ヴォルグは頂上に、物資の搬入口があると判断した。時折雲の上を走る巨大な影は地上から見ると豆粒のようで、それでも確かに何度も塔と外界の間を行き来していたのだ。豆粒の進行方向から頂上にあるであろう出入口の見当もつけた。あとは度胸を決めるだけだ。
だから今出っ張りの上で過ごしているのは、塔をよじ登るのに休憩にもならない無駄な時間である。
それでも外壁に背中を付けて、座り込んでいる理由。
「凄いな……」
ヴォルグは思わず感嘆の声をあげる。現在、この高度にいる人間は世界中で自分ただ一人だけだろう。眼下に広がるパノラマを存分にこの目に収める。
今この時だけ、勇者は全てのしがらみや束縛、宿命から自由だった。
日の落ちきった世界、魔族のように闇目の効く今のヴォルグには関係ない。全てが小さかった。荒野の向こうには平原が広がっている。かつては二人で旅をした道が、どこまでも細く長く続いている。枝分かれした先に見えるのはセルビア王国だ。
荒野に草に森に山。
全てを空と地面に切り取る線。
遙かなる地平線。
涙は出ない。全てが美しかった。生まれて初めての自由が心地良かった。
魔法を使えない事など何の問題にもならない、容姿が美しい事も関係ない。ベリル=メル=タッカートの力と美しさは、この光景だけで問答無用の説得力だ。それでもまだ塔の途中だった――改めて、彼女という存在の巨大さを感じさせられる。
塔の頂上にいる彼女は、どんな光景を見ているのか。
雲の上には、どんな風景が広がっているのだろう。
だから問題はここからだった、今座り込んでいる場所にある外壁は、恐らくは雲に突っ込む辺りから容赦なく登攀者の魔力を奪っていく。魔法で外壁にへばり付いているのなら尚更だ。浮遊魔法で上がっても外壁に近い以上、同じ事だろう――むしろ燃費の悪い魔法なだけタチが悪い。一人目の控えめに言ってもトマトの卵炒めは、魔力を根こそぎ吸い取られてから見る者の前で地面に激突し、原型を留めないくらいに砕け散ったらしい。粘っていたらひからびたミイラになって、重力と空気に身を引きちぎられて砕け散って行ったかもしれない。
それもありかもしれない。思わず笑いが漏れる。周囲に誰もいないのをいい事に、余裕を見せるためのポーカーフェイスとは違う心からの笑い声。今や誰もがその存在を知る勇者ヴォルグ=ブラウンは、誰一人知らない内にただの塵となって世界にばら撒かれるのだ。
さて、登ろうか。
※
雲が頭上に近づいた辺りから、ヤバいと思った。
外壁にへばりつくための魔法は使わない――最低限の魔力を込めて、外壁に魔族の如く強化された五本の指を食い込ませる事で吸い取られる魔力を最低限に抑える。それでも音を立てるような勢いで、身体中に行き渡らせた魔力が吸い取られて行く。ワールドデストラクションの魔導式に捕らわれて、惨めったらしく命乞いをしたエルフの気持ちがわかる。
それでも登る動きは止めない。
観察眼を磨き抜いた天狗の青年が今の彼を見ればこう言うかもしれない
勇者とは、魔法を使い、魔を討つ人族の王だ。エルフの助けを得て人界の形を整え、時には強大になりすぎた魔王を倒し、世界を維持する。腐りかけたシステムの中で、当代の勇者は理想を保ち続けてるという困難に挑んでいる。
しかしそんな事は、勇者ヴォルグ=ブラウンの表面にすぎない。
如何なる事があっても目標へと邁進する、不屈の精神力こそが彼の本質だ。
これは死ぬかもしれないな。ヴォルグがそう思ったのは、登りながら脳裏に様々な過去の記憶が走り去ったからだ。俗に走馬灯と呼ばれるそれは、死に瀕したものの前で踊り、案内人として魂をいずこへと誘うという。
ではエルフの秘薬で跡形も無いほどに記憶を寸断され、事切れた前代勇者はどうだったのだろう。
ヴォルグは魔界に生まれた。旅商人の母一人に連れ添う子一人。母はヴォルグに最後まで父親の名前を明かさなかったが、馬車の途中でよく勇者の英雄譚を聞かせてみせた。その勇者にとっての敵地で何を言ってるのだろうと子供心に疑問に思った事もある事もあるが――結局の所、子供は親を慕うものだ。
憧れた。魔王に囚われし姫君。魑魅魍魎が跋扈する魔王城。そこに単身挑み、永遠の伴侶と愛を誓い合う輝ける勇者。
疑問は母が魔物に襲われて一人になったヴォルグの元に、勇者の一族が現れた事で氷解した。
ヴォルグの前に現れた男は、ディーク=ブラウンと名乗った。
父親に代わり、兄弟たちを育てた奴は厳格が服を着ているようでその実小さな女の子に目がない変態の下衆野郎だった。それでも身内には甘い、いい兄だったと思う。末弟のルビデがディークに懐き、ヴォルグがそうでなかったのはヴォルグ自身の問題だ。
誇らしかった、勇者の血を引いている事が。森を走る道の中で、平原にある村の中で、炎を吹く山の麓にある鍛冶の町で。母が聞かせてくれた勇者の英雄譚は、ヴォルグの心の中に一つの理想を思い描いていた。
そしてたまらなく嫌だった。勇者としての技と知識を必死にものにする過程でわかったのは、腐りきったシステムと、エルフにおもねって我欲に走る当代勇者の姿だ。
一族の命で魔界を巡り、それでもヴォルグなりに楽しんでやっていた旅商人という仮初の姿。やがて勇者の秘伝をこっそりと流した甲斐もあって、その頃から賢さと美しさで魔界を轟かしていた魔王の一人娘に取り入る事に、ヴォルグは成功する。
彼女に触れて感じたのは途方も無い可能性だった、そのまま成長して行けばいずれは世界を変えてしまったかもしれない。しかしその一方で当然ながら、才能を好き勝手に使っていた――恵まれた環境で伸び伸びと育ったベリル=メル=タッカートは当然ながら世界をよくするとか、そういう大きい事に興味はなかったのだ。
それなのに、彼女の才能は、ついには勇者の一族として見過ごせない所まで行ってしまった。
好きになってもいた。
だからペド野郎が彼女に目をつけた時――ヴォルグは彼女の方を取った。兄の背中を刺し、代わりに勇者として彼女を人界に連れて行ったのだ。そのままでは世界をおもちゃ箱のように丸ごとひっくり返しかねない彼女に、歪みきった世界を見せるつもりだった。魔王を倒して彼女を引き摺り出したのは、ある意味では彼女の傍にいる守護者達の方が手に負えないと判断したからだ。
それらの全ては、勇者の血筋を引く者として間違いのなかったものであると思う。
ただひとつ、間違いがあったとすれば。
魔が差した。
全てが狂った。
※
風の頼りで、小さなりんごは新しい世界樹の苗があると聞いた。
しかし恵まれた環境ですくすくと甘やかされて育っていた世界樹の苗は、いずれは前の世界樹よりも大きく成長するというのに自分の事にしか興味がなかった。
小さなりんごは足元に広がる毒の沼を見た。
世界樹を蝕む毒は、いずれは小さなりんごに回るのだ、かと言って地面に落ちてしまっても、どの道運命は変わらなかった。
自分はただの小さなりんごだ。しかし世界樹が最後の意地で生んだ、毒のないりんごだ。
小さなりんごは自分に何をできるか考えた。
そして風に頼んで、世界樹の苗を世界樹の枝の上に運んでもらった。
最初は小さなりんごを恨んでいた世界樹の苗も、毒の沼に蝕まれた世界樹を見て小さなりんごの考えを理解した。小さなりんごはそんな、未来への可能性に満ちた世界樹の苗を好きになっていた。
そして小さなりんごはひとつの間違いを犯した。
世界樹の苗に思わず触ってしまったのだ。
それは底なし沼に沈んで溺れている人間が、頭上に浮かんでいる藁束を掴んでしまったのと同じ事だったが、間違いは間違いだ。世界中にある何もかもが小さなりんごを責めたし、小さなりんごさえも自分を責めた。
だから小さなりんごは慌てて藁束を離した。世界樹の苗を元の環境に戻すため、もう一度風に頼んだのだ。
毒の沼を見た世界樹の苗は、毒の沼を生み出す世界樹にならない。
それでよかった――世界中の全てが小さなりんごの間違いを責め立てる声は鳴り止まない。それでも全てが予定通りだった。
ただ一つ、小さなりんごに誤算があったとしたら。
それは世界樹の苗もまた、小さなりんごを許して、小さなりんごに触れてくれた事だろう。
母なる世界樹と他のりんごが毒に染まり、世界の全てが敵に回った小さなりんごにできた、唯一の光だった。
世界樹の苗は、小さなりんごの傍にいると言った。
それでも小さなりんごは世界樹の苗を風に乗せた。世界樹を蝕む毒は、いずれは小さなりんごに回ってしまうのだ。そのまま触れ合っていると、大切な世界樹の苗まで毒に染まってしまう。
世界樹の苗は、一緒に行こうと言った。
しかし小さなりんごは、風に乗って帰っていく世界樹の苗と一緒には行かなかった。
その時には、世界樹を蝕む毒は小さなりんごに回りかけていたのだ。
ちっぽけな毒は新しい世界樹の恩恵が洗い流してくれるかもしれないが、今はまだ小さな世界樹の苗だった、どうあっても毒を持ち込む訳にはいかなかった。
小さなりんごの、ちっぽけな意地だった。
そして世界樹の苗は、古い世界樹より遥かに大きい、新しい世界樹に成長した。
今や惨めったらしく、丸ごと毒に染まってしまった小さなりんごは、新しい世界樹を見上げる。
悔いはなかった。
世界樹の苗は、自分を許してくれたのだから。
やがて新しい世界樹の枝葉が、毒に蝕まれた古い世界樹に伸びてきた。
今も広がり続ける毒の沼は、やがては新しい世界樹の恩恵で浄化されるだろうが、その過程で新しい世界樹を苦しめるだろう。
小さい毒りんごは、かつての世界樹の苗のために、今の自分に何ができるか考え抜いた。
小さな毒りんごは思いついた――新しい世界樹のために、毒の沼が広がるのを防ぐのだ。
自分は全てが毒に染まった世界で、唯一生まれた毒のない小さなりんごで、今は小さな毒りんごに過ぎない。
毒に染まった古い世界樹と小さな毒りんごの、ちっぽけな意地だった。
他のりんごに毒が貯まりきる前に地面に落とし、毒の沼がこれ以上広がるのを防いだ。
同じように周りの毒りんごが小さなりんごを落とそうとしても、自分と古い世界樹を繋ぐヘタが毒で腐り落ちそうになっても、小さなりんごは周りの毒りんごをひたすら落とし続けた。
小さなりんごは頑張った。
小さなりんごは頑張った。
小さなりんごは頑張った。
そして小さなりんごは
次回、決着
勇者VSランスロット
『堕ちた勇者と、囚われし姫君』