世界樹のりんご
思わぬ伏兵
ここに数千年の時を生き抜いた、一本の世界樹がある。
ある女によって大地に植えられたそれは最初、ほんの小さな苗だった。
やがて世界樹は大きく成長し、遂には見事なりんごを無数に実らせた。大地の恵みを得たりんご達は、見事にその恩に応える事になる――短い生涯を終えて地面に落ちた後、更に大きくした恩恵を大地へと還元したのだ。
世界樹はますますその枝を伸ばす事になり、全世界を覆う事になる。
何時しか、世界樹は老いた。なる実なる実は全て落ちても大地に腐臭を放つ毒の沼を作るようになり――やがて世界樹の周りを全て占領した毒の沼は、ついに母たる世界樹自体を蝕み始める。蝕まれ、死に向かい始めた世界樹は、それでも最後の意地とばかりに、大地に恩恵を還元できる小さなりんごを一つ実らせた。
しかし全ては手遅れだった、小さなりんごの落ちる先は、どこもかしこも毒の沼で埋まっていた。毒の沼は恩恵を与えても毒の沼であり、それはより強烈な毒となって世界樹を殺しにかかりながらも、世界樹に腐ったりんごを実らせて、毒の沼を広げにかかるのだ。
毒の沼は緩慢と、しかし世界に広がりつつあった
ここに一つの、落ちる事もできない小さなりんごがある。
風の便りで、小さなりんごは、この世界には、他にも世界樹の苗があると知った。
※
新しい魔王城とも言えるレメゲトンの頂上には、今や魔王城よろしく無数の施設が詰まっている。その中でも一際大きい施設は、レメゲトンの頂上フロアの十層の内、丸々三つも使っていた。
ありし日のベリルがゴーレムを探しに入り込んだ鍛冶場。お姫様がそこから全てを始めた小さな工房。魔王の王座から蹴落とされたパパンが日夜あーでもないこーでもないと建築物の仕様を考えていた執務室。それらの全ては今、その三つのフロアの中に詰め込まれているのである。
熱が上へ上へと登って行くのは地球だろうが異世界だろうが変わらない。つまり鍛冶場は一番上にある。元の魔王城のそれと違うのは、それがサス=カガタなるゴーレムのいる鍛冶場を中心として放射状に部屋が広がっている事である。周囲の部屋ではかつて美幼女相手に逆玉を狙った不届き者達があー、たまには地上に降りて女でも抱きてえなあと思いながらも、結局は日々持ち込まれる恐ろしい技術に魅了されて断念する日々を送っている。
かつての魔王城の鍛冶場と違うのは有り体に言えば、ゴーレムのタスクの違いだ。面倒くさい部品の量産を頼めばやってくれるのだが、その優先順序がお姫様兼魔王のリクエストより下なのは致し方がない事であろう。結果として鍛冶師共は、そこらへんのアイドルを一ダース漬物にしても及ばない美少女の来訪を心底怖がるハメとなった。面倒で面白みのない仕事が増えるからである。ちなみに鍛冶師のかかあ達は魔王城に引き続き、料理長夫婦共々レメゲトンにある厨房で働いていたりする。旦那たちの浮気や女遊びが殆どなくなったので好評と言えば好評であった。
そして中層。謎の魔王に何をするのやめてあなたって最低のクズね、とかやられていると巷で噂のお姫様が、幼少のみぎりにおねだりした工房の豪華版がある。元々の主がどっちかっつーと一言二言のアイディアを差し入れするだけになってしまった反面、頭脳派に方向転換した親父殿がリッチと共に篭もりっきりである。
しかしこの元魔王さま、24時間働けるリッチと魂の部分においてマブダチになってしまったせいか、新しい研究に夢中になると三日経つか愛娘の雷が降らないと出てこない。先日などはレギオンに取り付けるロケットエンジンを考案しながら風呂の中に沈んでいるのを引き上げられた。
ちなみに、どざえもんの第一発見者は姫様付きのメイドであるはずのバンシーである。もう必要ないのでえげつない魔導式の数々を解除された彼女は、何故か甲斐甲斐しく仕事の虫になった元魔王様の世話を焼いていたりする。朝、元魔王の部屋から出てきたり、その日の部屋のシーツが汁っ気たっぷりになっていた噂は本当だろうか。今の魔王は私だし何百年も男やもめは気の毒だし悪い子じゃないし、という訳でやたらとおおらかな娘公認である事だけをここに記す。細マッチョのイケメンとなった元魔王を密かに狙っていた女衆が、将を射んと欲すれば馬をなんとやらの真理に遅まきながら気付いてハンカチを噛んでいたりする。ベリルに腹違いの弟か妹が出来る日も遠くないかもしれない。
そして下層、ここが今回の舞台となる。
光源をふんだんに取り入れてる上二層と違って、施設エリアの下層は暗い。
通路以外のフロアを丸々使った部屋の壁際はコントロールセンターと同じ階段状となっているが、中心の床の上には複眼モニターの代わりに、あちこちが黒い空白に穴を開けられた球状な映像が浮かんでいる。
「出来た!」
階段の上にある端末に座っていたウェアウルフが叫んだ。ワイルドなハンサムに丸っこい犬耳という取り合わせのギャップが凄い。尻尾を千切れんばかりに振りたくっている。
「よし、映してくれ」
フロアの中心に立った天狗の青年が指示すると、彼の頭上に浮かぶ球の立体的な映像が変化した。黒く塗りつぶされた部分は平坦な曲面が取って代わり、更にはそれが盛り上がったり凹んだり基本色の茶色が緑色になったりした。
そうして黒く塗りつぶされた部分がなくなった巨大な球状の映像は、海のない地球儀にも似ている。気を利かせた魔族の青年によってそれはランダムに回転し、あらゆる面をフロアのあらゆる方向へと見せ始めた。
おお、という感嘆の声がフロアを満たした。よし、と拳でガッツポーズをしている者もいる。
魔族の肉体は頑強だ、力が強いと音もデカい。天狗の青年がゆっくりと、しかし大音量の拍手を広大なフロアに響き渡らせる。
「よし、皆ご苦労だった。しかし本番はここからだ。皆の知識を動員して、正確な地形に近づくように修正を加えてくれ、この球を作り上げるより大変で地味な作業だろうが――どうぞよろしく頼む」
おー。うげー。よっしゃー。やる気がなさそうな返事だったり、地味な作業にうんざりした唸り声だったり、気合を入れる声があちこちから挙がる。
その時だった、部屋の出入口から早足で男が青年に歩み寄ったのは。
「若、フィレス様が外に」
「ああ、わかった」
天狗の青年――ジョルジュは羽根の付いた背中に鉄筋が入っているような男に頷き、男が歩いてきた方向を逆走し始める。
廊下では天狗の少女が、まるでデートで待ち合わせをしているかのようにそわそわしながら待っていた。
「フィレス」
「ジョルジュ様」
青年は今や彼の妻となった少女に微笑み――廊下の両方に人影がないのを確認し、そのおとがいを軽く持ち上げて唇をついばんだ。それだけで少女の頬が桃色に染まる。ジョルジュは我慢した――いくらなんでもこんな所で激しいのはまずい。ただでさえKY局長だとか変なあだ名が密かに付いていると先日知ったのだ。そんな事を気にするぐらいなら子作りに励む方が一族の未来のためにも建設的だとジョルジュは思うが、これ以上見せびらかすのは独身の部下に背後から魔道具で撃たれかねない。
二人で腕を組んで廊下の中を歩き出す――そんなんだからあんなあだ名がつくのだ。
「ベリル様とのお茶会が終わったのかな?」
「はい――皆さん、喜んでおられたようですけど」
「ああ、正確にはまだ程遠いが――魔界の全地形を包羅した立体地図の雛形が完成したのさ」
「魔界儀……ですか、名付け元は姫様ですよね」
「そうだな――何か気がかりでも?」
フィレスの表情に微かな浮かない色があるのをジョルジュは認めた。幼い頃からの付き合いだ――隠せる事はあまりないし、隠し事もお互いしない。彼女が生まれた直後からずっとそうだった。
二人は施設エリアの下層から更に二フロア下までフローターに乗って降り、宛てがわれた部屋に戻った。肩を並べてベッドに腰掛ける。
広々とした部屋は立体的な装飾の少ないシンプルなデザインだったが、各地を飛び回り、同じ意匠の飛行船に慣れているのもあって、今のジョルジュには伝統的な建築よりもこっちの方が落ち着く。こちらに移ってきた妻も気に入っている。食堂と同じく、外壁の方の一面は日に照らされた白い平原が一望できるパノラマ。それを眺めていると人界も悪くないと思ってしまう。こんな高度では覗きもクソもないだろうが、一応として外からは単なる塔の壁に見える特殊な仕様である――だから安心して開放的な気分になって燃えるのである。昼間は特に。
しかし今は妻の話が先だ。天狗は武を尊ぶ――後顧の憂いを断ってから戦いに望むのは、武門の生まれとして当然の事だ。その発想はおかしいと先日飲み会で言われたが、何も恥じる所はない。人生とは戦いで、子作りとは次世代の将を作り出す工程である。
フィレスが口を開く。
「姫様って……凄いですよね」
レメトゲンの頂上では、ベリル=メル=タッカートが事実上の魔王だと誰もが認識していた――なので正確には殿下と呼ぶべきではあるのだろうが、対外的に魔王なのはあの居もしないデウス・エクス・マキナなのもあって、姫呼ばわりの方が通りがいい。彼女の友人である妻も当人の前以外では周りへ配慮してそう呼ぶ。
「ああ」
「魔界儀なんて発想、他の誰にもできないと思います。あんなの作って、こんな塔まで建てて、塔の上には別世界があって……そんな今の姫様を脅かすのはあの勇者でも無理ですよね」
「そうだな、つくづく規格外の大器だと思うよ――魔王城でダンスの練習に付き合っていたのが嘘のように思えるくらいだ」
本格的に動き出した姫君に付き合っている内にジョルジュが感じたのは、時代が変わるという確信だった。本人が親しい人間に自らカミングアウトした魔法が使えないという事実は、彼女が未曽有の可能性を持っている事に何の妨げもならないとジョルジュは思う――魔王とは魔界を支配する者だが、ベリル=メル=タッカートほどその意志を魔界全体に行き渡らせようとした者は歴代の魔王の中にいないとジョルジュは断言できる――ワイルドデーモンやマジックマスターでさえもだ。
だからフィレスの言葉は、ジョルジュを混乱させる事となった。
「では姫様は何を怖がっているのでしょうか?」
「……何があったんだい?」
結局、何故ベリルが勇者に執着しているか――その理由をフィレスは聞き出す事が出来なかった。
話そうとしなかったのではない、そのぐらいの信頼関係は築けているとフィレスは自負していたし――実際に姫君は頭のなかで整理していて、どう切り出そうかと考えているようだった。
思い出が頭の中で交錯していたのだろう――我を忘れたのか頬を挟んでいやんいやんしたと思えば、暗い顔で目頭を潤ませたりする。しかし見ている方が微笑ましいと思うその感情の起伏は、ある一点でその活動を止めた。
ただでさえ白い肌から血の気が引いた顔面の上に、見ようによっては愕然とした表情。
フィレスは武門の女だ――それが愕然ではない事を知っていた。
その感情の正体は、恐怖だった。
こんなに立派な砂糖漬けに育つとは思ってもいませんでした
まだちょっとだけ続くんじゃ