高貴なる者の義務
「そもそも納得がいかなかったのよ!」
ザクッと、フィレスは親の仇のようにフォークをぶっ刺したケーキをワンカット丸ごと持ち上げた。グォルンが丹念に焼き上げたそれを焼き鳥の如く食い千切る。
「あのロクでもなし!ベリルをあんな目に遭わせておいて!殺されなかっただけマシなのに!未練ったらしくベリルの近くで!うろちょろ!してて!この!この!」
まるで魔物に襲われた無残な死体のようになって行くデザートは勇者の代わりなのだろうか。食べ物を粗末にしないように全て腹の内に納めているのが偉い――フィレスもグォルンも。
地球の紅茶と違い、セルビアのそれはオータムナルが最も香り高い。しかしフィレスはティーカップを大きく傾けてゴクゴクと一気飲みし、上司のポカを自分の責任としておっかぶされたサラリーマンのようにティーカップを振り降ろした。皿を割らずに着陸させたのは体に染み付いた教養の賜物だろう。
ベリルの目の前にいる少女は、完全に目が据わっていた。
何事もなかったのようにお代わりを持ってくるシラに、ベリルは思わず年季の違いについて思いを馳せる。上がり続ける天狗の幼妻のボルテージに応じて空になった皿がワゴンの上に積み重なっていく。まるでここが世界一高い客室ではなく、回転寿司か居酒屋になったような気分だった。
「勇者が勇者ならベリルもベリルよ!なんであんな事されておいて、しかも
そのためにこんな塔までおっ建てて、どこまで尽くす気なのよ! 馬鹿女にも程があるわ! ちょっとベリル、聞いてる!? ねえ!」
「え、あ、その、はい」
こうして書くと、フィレスがベリルの胸倉を掴んでいてても違和感がなそうなのだが――この場で行われているのはあくまで貴婦人のお茶会であり、スケバンの男の取り合いではないのだ。こらそこ、笑うな。他にいい形容の仕方がなかったからしょうがない。
それにしても人界と魔界の両方を手中に収めそうな相手に馬鹿女と来た――礼儀と格式でグルグル巻きのミイラになった人界の王城ならスポポーンと首の2、30本ぐらいは飛んでるような暴言である。フィレスはあの豚の慰み者だろうか――いや、これ以上はよそう、彼女は和姦系であって陵辱系ではないのだ。とても失礼な事を考えているかもしれないがそこはお互い様である。
魔界生まれで武を尊ぶ天狗がそこらへん、割と大雑把なのは重々承知ではある。しかしまさか紅茶で酔っ払う特技があるとはベリルも思わなかった。
普段がロリの入った清楚っぽいお嬢様、っつーか今は奥様なだけに、どこかネジが外れたフィレスのインパクトは凄まじいものがあった。圧倒されたベリルはと言えばあーだこーだと頭の中で練り上げた言い分の一角も出せず、カチコチに固まっている。
無礼講であった。
過去にも恋バナやらエロトークやらで盛り上がった事は多い。形式としては想い人の事で赤面したりはしゃぐフィレスをベリルが大人の態度で受け流し、時にはエロゲーを嗜むという元青年の知識を動員していらん入れ知恵をするという感じだった――流石に今ほどはっちゃけてはいなかったが。今や夫になった従兄の前では、フィレスがカマトトぶっているのも知っている。それはズルではない。女の知恵であり、それもまた彼女の一面なのだ。
しかし話題が違えば立場も違う。今回のお題は珍しくベリルの事で、矛先が向くのは今まで意図的に避けてたであろうロクデナシである。この話題が出るのも初めてなら、友人のテンションがここまでエスカレートしているのも初めてだ。
「ねえ、シラ様もそう思うでしょ! 主の間違いを正すのも臣下の務めじゃないの!?」
「お嬢様は間違いを犯さない訳ではありませんが、ここぞという所での判断を、私どもは信頼しておりますので」
シラはわざとらしいくらいに澄まし顔である。
「ああ……もう!」
こいつ使い物にならねえと言わんばかりの態度で、フィレスはついに天を仰いでしまった。相手が魔族としても女としても年と経験が遥かに上の存在だという事すら忘れている。
ふと、ベリルは嬉しくなった。
「えと……あの、フィレス?」
「なに!?」
「ありがとう」
思わぬ所からのカウンターブローに、天狗の少女が硬直する。
それではもう一発。
「本当に、ありがとう」
えと、私はその、別に。まるで塩をかけたナメクジのように、少女のボルテージがしおしおと下がって行く。その姿をベリルは微笑ましい気分で見ていた。
ありがたい事だった。
元青年は別に人格や人間関係に問題のある人間ではなかった。ソーシャルサイトでお互いを褒め合うだけの友達関係が嫌になるような、オタクにありがちな若干ひねくれた性格だったのは確かだが――お互いの就職が決まった後に打ち上げの連絡をするような相手はいたし、彼女に振られた直後、チェーンの居酒屋でヤケ酒を一緒にかっ食らってくれる友達が二人いた。
だからベリル=メル=タッカートとして生きるようになってから気付いたのは、いなくなった事で痛感した友達のありがたみだ。人は一人では生きられない――それは今や両界の境に人族と魔族両方を熱狂させているバベルの塔を仕込み、世界を変えようとする少女すら例外ではない。
ヴォルグの話題を避けたのが気遣いならば、溜め込んだ鬱憤を晴らすようにベリルのために怒り散らすのもこのフィレスの気遣いだ。
どこから始めるべきだろうか。
決めた、誤解を解く所から始めよう。
「えと――尽くしているように見える?」
「違うの?」
シラまでがお前は何を言っているんだという表情でこっちを見た。どういう意味だ。
ツッコむ代わりにベリルは両手を組み合わせる。
「私がこの塔を作ったのはね、色々と理由はあるけど、それが必要だと思ったから」
「あの男の目的のために、よね?」
フィレスはフィレスで、この事について散々考えてはいたのだろう。
ベリルは首を振る。
確かにこれはヴォルグから仕込まれたものだが、だからと言ってそれを鵜呑みにした訳ではないのだ。
「世界のために」
人は一人では生きられないという実感を今一度ベリルは噛み締める。
今思えば、お嫁に行かないという目標は、見方によっては異世界に転生してハーレムを築くのと同じぐらいにくだらない。くだらない事のために頑張って好き勝手していた時のお姫様と、今の事実上の魔王であるベリル=メル=タッカートの間に差があるとすれば、それが最大だった。
「魔界の人間には実感が湧かないだろうけどね――人界は行き詰まっていたの」
あえて人族と魔族を人間とまとめるような言い回しで――まるで我が事のように怒ってくれた友人がそれを理解してくれる事を期待する。ベリルは言葉を選びながら続ける。そんな唯一の友人に対してすら、ベリルの隠し事は多い――知るだけで振りかかる災厄というのは確実に世の中に存在するのだ。それでも今のベリルの思いを知ってもらうのは、フィレスに対する最大の誠意であるはずだ。
「そんな事、人族達の――いや、人界に住む人間達の都合じゃないの?」
「うん、そうだね、私もそう思ってた。でも、でもね――」
ベリルは言葉を切る。地球の中世レベルで、数千年も停滞した異世界。魔族と人族が不平等な世界。そんな時代にそれを口に出すのには、勇気が必要だった。
ベリルはヴォルグとの、ある会話を思い出した――その会話の後に彼が一瞬でも本性を出して唇を奪われた時、ベリルは本気で殺してやりたいと思った。しかしそれが何時しか変わったのも、結局はその時の言葉が全てだったのだと思う。
思い出して、クソ度胸を決める。
わかりやすい言い回しなら、ベリルはその時に思わず口にしているのだ。
「人は誰しも幸福になる権利があると、私は思う」
――全ての人間は、平等に生まれている。
アメリカ独立宣言。
中世の時代から人間が苦しみ抜き、争いながらついには結晶した近代思想を代表する言葉は、ゆっくりとこの場にいる人間の脳裏に染み込んで行った。当然のようでいて、今まではちっとも当然じゃない思想に揺さぶられたように、フィレスもシラも口を噤む。その思想が即座には受け入れがたいという事を、ベリルは異世界で生きた十七年で痛いほどわかっている。
理想を押し通すためには力がいる。究極的に言えば少年は、そのために血の繋がった兄を殺したのだ――力を得るために。
まるで神話だった。言い換えればその力を以って、ヴォルグとベリルは長き神話の時代を終わらせようとしているのだ。
ようやく、と言った感じでシラが言葉を絞り出す。
「お嬢様……しかしそれをあなたがやる必要はないのでは?」
「うん、でも――気付いちゃったから」
そう、それは地球の知識を持っているベリルをして、気付きという言葉以外が当てはまらない変化だった。知っている事と、それが理解できているのは違う。理解とは不可逆の現象であり、不理解に立ち戻る事はどうあがいても不可能だった。
魔導式で強化されたガラス窓の方を見たベリルの視線を、二人は追う。
日に照らされて黄色に染まった雲の平原が、視界一杯にどこまでも続いていた。いかなる魔族と人族の誰にも成し得なかった光景。歴代最強の魔王ベルセルク=フォン=タッカートですら不可能だった両界を征する事も可能な、前人未踏の力。
ベリル=メル=タッカートを中心に渦巻く力を語るために、何よりも雄弁な光景だった。
話しながらもベリルは不思議な気分に見舞われていた。
自分が無力な――ただの美しいだけの魔族の姫君ベリル=メル=タッカートではどうだろう。思想を語る口はあっても世界を揺さぶる力はないのは無論の事、勇者との会話でそれに気付く事ほどの知識はなかったに違いない。
いや、そもそもの前提として――力の無いベリル=メル=タッカートは、ヴォルグ=ブラウンの前ではその他大勢であるはずだ。
目の前にいる天狗の少女の思いにも全く気付かず、あるいは気付いていてもそれが王族の義務だと言わんばかりに天狗の青年に嫁ぎ、汁っ気たっぷりの恋愛エロゲーみたいな生活の果てに子を産み、一生を全うしていたかもしれない。フィレスもまた、今はベリルその者である元青年という存在に人生を変えられた人間の一人なのだ。
転生か神降ろしかはわからないが――とにかく地球の一般人のメンタリティとでも言うべきものが、闇の巫女という自分に備わっている事実。
その理由が、今自分で語っている事の中にあるような気がした。
闇の巫女の一族である二代目魔王・マジックマスターは、恐らく中世の貴婦人の知識をその身に宿していた。文化が違えば教養も違う。教養という武器を以って原始的な生活を営んでいた魔族を束ね上げ、彼女の知る地球と同等にまで、この異世界を引き上げた。その魔族が禍根を残すほど人族を虐げるのを防ぐため、エルフを人界に連れて行き、勇者というシステムを構築してバワーバランスを保つようにした。
彼女が世界に植えた種は、見事な花を咲かせ、実を成したのだろう。人間達は第二次世界大戦を知識でも知る身からすれば可愛いと思えるぐらいの小競り合いを今も繰り返し、破滅から遠ざかった所で栄華を謳っている。
しかし同時に、世界は停滞してしまった。
受験以外では歴史に全く興味のなかった元青年だが――然るべき地位と教養を持てば、十二年の間で培えたものはある。
例えば魔族だ。魔界とは、絶対武力である魔王をトップとした、魔族の各部族が集合してできた一つの集合体である――言い換えれば強大な王立軍に、そこそこの力を持った領主が各地に散らばった巨大国家だ。たまに領主が王に取って代わるが――魔王という地位の条件を考えれば別に不自然ではないし、地球でも散々繰り返された歴史なのはちょっと考えればわかる。
逆に人界は不自然の極みだった。一言で言えば魔界から領主の力を抜いた権力構造。ベリルにいちゃもんを付けてきた豚野郎の役職を思い出す。辺境にあるセルビア王国を背中から脅せるような常備軍を持った、隆盛を誇る中央国家同盟。
しかし勇者との旅で目にした、富を不自然に吸い上げられた周辺土地は原始時代よりちょっとマシな程度のものだった。
おかしいのだ、常備軍というのは金食い虫であるはずだ。
ベリルの見立ては正しい。今の彼女には知る由もないが――地球でも貧しい封建体制の国家に、王が常備軍を持つという余裕などはなかった。領主それぞれで養っている軍をその都度に雇い上げるような――つまりは今の人界の逆である。
そしてそんな世界が、進みも後退もせず、数千年もそのままだったのだ。
地球を思い出すといい――元青年は覚えてない暦が始まってから数千年の歴史で、人はどれほど前に進んだのだろう。
そうした不自然の原因は言うまでもなかった――勇者とは、歴史の影にいる人の王だ。我欲に走った前代勇者やランスロットがボコボコにしたエルフを見れば何が起こったのかは猿でも気付く。
実が腐った事でご先祖様を責めるつもりはベリルには毛頭ない――むしろ数千年の時でようやくボロが出てきた事を誇るべきだと思う。しかしそのせいで停滞し――先細り一方の世界には、そろそろ方向転換が必要なのも確かなのだ。
これか――これなのだ。
闇の巫女。地球の知識。停滞した世界を進めるために、自分という存在はここにいるのだ。
あるいはそれは地球異世界に存在する無数の少年少女と同じ、思い上がった一人が抱いた錯覚なのかもしれない。
それでもベリルにとってその閃きは、唯一無二の事実だった。
そしてシラとフィレスは、ベリルが想定していたのより遥かに深い理解を示した。魔界のハイソサエティに属する彼女たちは、それぞれベリルの考えを表現する恰好の言葉を知っていたのである。
力には責任が伴う。
胡散臭くて不自然でやたらと俗っぽい神様のような何かに何故かお前は選ばれたと言われて、究極的に言えば一人を活躍させるためだけの悪趣味な世界に転生させ、大した理由も必然性も代償もなく与えられたお仕着せのようなチートとは違うもの。
天狗の貴族である少女はそれを、高貴なる者の義務と呼んだ。
ベリルとその亡き母上――二代に渡って闇の巫女に仕えたアルケニーの解釈は意外にもロマンチシズムに溢れていた。
これは世界を変える、闇の巫女の宿命である。
だからフィレスの煮え切らないような表情は、決して今までのベリルの言い分が納得できなかった訳ではない。
そして天狗の少女より年季を重ねた魔族の貴婦人は、少女よりいち早くそれに気付いた。
ベリルの言葉には、欠けているものが一つある。
「なるほど、お嬢様の言い分はわかりました。例えそれが勇者の仕組んだ事であっても、今やそれはお嬢様の考えでございます――お嬢様に幼少からお仕えした身として、私はそれを誇らしく思います」
シラは冷めてしまった紅茶を下げ、代わりに熱々のそれをカップに注ぐ。
「しかしそれならば全てをお嬢様一人で成されればいいと思うのですが――世界を変えるという事に気付かされた事実も、彼がお嬢様を利用しようとした上、あなたに加えた仕打ちを打ち消せるほどの事でもないかと存じます。それでもお嬢様が彼の者に執着する理由は何でしょう?」
ポンと、天狗の幼妻が両手を打った。
そこなのだ。
いわゆる異世界転移の演出では、ドリフターズみたいなわかりやすくて訳分からんぐらいなのが読む方からすれば腑に落ちそうだと思うのこの頃です