歴史の終わる時
魔族とは、魔法を使える人間の事を指す。
では我らが主人公・ベリル=メル=タッカートはどうか、ナニをしながら呪文を詠唱して物理的と精神的の両方で自爆しながら使うという前提で言えば、確かに彼女は魔族と言えるだろう。
では逆に今レメトゲンのあちこちである意味人生を謳歌している、魔道具を持った人族達はどうだろう。魔力を持たないのに魔法を使える彼らの事を魔族とは誰も言えまい。
しかし魔族と人族の差異はそこだけではない――腕力が人族並だというどこかの一族を例外とすれば、魔族は得てして腕っ節が強い。魔王城を歩く可愛いメイドさんですら満杯のバケツを軽々と振り回せるくらいなのである。そういう意味では、魔力で肉体を強化するというのも魔族の一つの特徴と言えるだろう。
無数の破砕音が聞こえた後、エルフを襲ったのは横殴りの凄まじい衝撃だった。それでも胴体が両断されずに吹っ飛んだのは、魔力で強化された肉体が見た目通りの華奢な優男ではない事の証明だ。
「ぐ……つつ、一体何が?」
音でわかる。プロテクションを破られたのだ。
エルフや勇者の一族ですら独自魔法を使える者は少ない。竜王招来はその一つだ。全身の魔力を振り絞り――恐怖に駆られて放ったそれは、間違いなく生涯最高の魔法のはずだ。しかし試し撃ちで森林を数百メートルに渡って薙ぎ倒した風と水流の乱舞は、今その残滓すら感じられない。
――そうだ、あの三柱王は。
顔を上げたエルフのすぐ前に、リビングアーマーが立っていた。
紋章の剣にも似た大剣を振りかぶっている。
「ひっ……!?」
エルフは悲鳴を上げた。反射的にプロテクションを張り直す。再び起きる連続した破砕音は、防壁が斬撃の勢いを殺している証拠だ。恥も外聞もなくエルフは地面を転がり
すぐ目の前に、プロテクションを貫いたセイブザクイーンが突き立った。
剣の周りにただの闇素がまとわりついている。何故魔法が発動しないのか理解したエルフの、プライドの最後の一欠片が跡形もなく砕け散った。
「や……やめ!」
破砕音。破砕音。破砕音。破砕破砕破砕破砕砕砕砕砕砕砕。何故防壁が分解されずに効いているかにも思い至らず、目にも留まらぬ無数の斬撃が破砕音となって心まで砕く。立ち上がる事さえ諦め、エルフは床の上で縮こまりながら必死にプロテクションを張り直し続ける。股間から湯気の立つ液体が流れ出している事にも気付かない。
ガツンと、防壁の消えた地面を叩き、滅びの鎧が手を止める。
エルフは失神していた。
剣の先でつついても完全に動かないのを確認した後、リビングアーマーはまるで子猫を持ち上げるかのようにエルフの首根っこを掴み上げ、一階行きのフローターの上に放り投げる。
冒険者達に身包みを剥がれたエルフが這々の体で塔から逃げ出した時、既に城下町は眠りかけていた。
※
ゴミと野良犬が住む小路の間を、エルフは走る。
息が荒い。壁が高い。まるで光を消した全ての窓の中から、無数の視線が注がれているようだ。世界全てが魔王の手先になったように感じる。どこか隠れる場所を探さねばと思う一方、そんな所などどこにもない錯覚をエルフは覚える。
レメトゲンの城下町は冒険者目当ての商人達が発展させて行った町だ。人界寄りの荒野にあるので猛獣も魔物も寄り付かず。城壁を持たないまま今でも拡大の一途を辿っている。
ふと、エルフの足が止まる。
「大丈夫かい?」
見せかけの金ピカ鎧も、紋章の剣が入った華美な鞘もない――小路の先。光が閉ざされた小さい広場の真ん中に、丸腰の黒い人影が立っていた。その正体を夜目の効くエルフは即座に見て取る。
「な、なんだ、勇者ではないか、何故ここに?」
敬語も忘れている。
勇者・ヴォルグ=ブラウンは天を仰ぎ、ため息を一つ。
「いい加減うんざりするね」
「何を……?」
「もういい」
勇者が右足を持ち上げ、軽く地団駄を踏んだの見た瞬間、勇者の庇護者は全てを理解した。
「ゆ……『勇者よ、我に従え!』」
勇者は動かなかった。
エルフがほっとしたのも束の間。
黒い人影が呟く。
「……我が宿命よ」
瞬間、世界が変容した。
暗闇の中で、それは暗く光る赤い紋様に象られていた。地面に、建物の壁に、積まれていた木の箱に、捨てられていたゴミに。世界がまるで生物の体内のように禍々しく変化して行った。
実際、エルフは勇者の体内にいるにも等しい。
魔導式の赤い脈動は、全て目の前に立つ青年の体に集積していた。
エルフはその正体を知っていた。
「わかってたよ、僕の体に隷属の魔導式を仕込んでいた事ぐらい――僕達の一族が、何時までも魔導式の研究を君達に丸投げしたままだと思うかい?」
平坦とした口調がむしろ恐ろしい。
「そう言えば、自壊の魔導式もあったよね」
今度こそ、エルフは崩れるようにその場に跪く。全て見透かされていた、全て上回っていた――今ヴォルグが口にしたのは、エルフがひた隠しにしていた当代勇者への切り札であり、タブーでもあったのだ。
「こ、殺さないで……」
「妙な仕草を見せるな、余計な事を口走るな」
破壊の権化のような三柱王よりも余程恐ろしかった。
「話せ」
エルフは新しい染みを股間に作り、無我夢中で一部始終を吐き出した。助けて。お願いします。あなた様を見くびっておられました。忠誠を誓います。数百年の人生で恐らく初めて並び立てたあらん限りの媚びは、慣れてないのが丸わかりな粗末なものだった。この世のどこにそんな命乞いに耳を貸す馬鹿がいるのかと聞きたい。
しかしその恐怖は本物だった。靴を舐めろと言ったら躊躇なく這いつくばっていたに違いない。
そしてこれまた生まれて初めて手を拱いていたエルフの前で、黒い勇者は頷いた。
「なるほど――ご苦労だったね」
安堵したエルフは、次の言葉で身を硬くした。
「去るといい――我が一族は今この時よりエルフと袂を分かつ」
「しょ、正気か貴様……我が一族の傀儡風情が、そもそも貴様の命は
「言ったはずだよ」
エルフは失言を悟った。次の言葉を発しようとして、身体中から何かがごっそり抜けて行く感覚に今度こそ悲鳴を上げる。
「あ……あああああああああああ!」
ワールドデストラクション。エルフは知っている――荒れ狂う嵐も、地獄の炎も、猛る雷も、絶対零度の世界も術者の心象を表すもの。デュアルスペリングとは緻密な魔法で膨大な魔導式を戦場に描き上げれる技術――しかしどれも、この魔法の本質ではなかった。
魔導式に捕らえた者の魔力を抜き取る勇者ヴォルグ=ブラウンのユニークスキルが今、エルフの魔力を根こそぎ吸い取っていた。
魔族にとって、魔力とは力であると同時に命でもある。
「安心しなよ」
こんな時でも、勇者の声は穏やかだった。
「殺しはしない――無力なただの人族の気持ちを味わいながら、君の一族に僕の言葉を伝えるといい」
それでもエルフにとって、それは死刑勧告に等しかった。
白目を剥き、膝を曲げた姿勢のまま後ろにバッタリと倒れたエルフの魔力を、ヴォルグは容赦なく吸い取っていく。
勇者が息を一つ吐いた後。
「終わったか」
勇者でもエルフでもない声。広場に繋がるいくつかの小路、その中の一つから騎士の王が姿を現した。
「魔王を打ち倒した技……か、初めて見る。紋章の剣も使わないとはまるで魔族のようだな」
紋様の浮き出た手の裏を、勇者は持ち上げて見せた。
「魔法を使えるのは副次的な能力に過ぎません――それに、僕のスキルは単なるペテンです、ネタの割れた相手には二度と通じませんよ」
「……ならば何故、魔王タッカートを生かしたのかな?」
そう聞きながらも、シフォンは既に答えを知っている風だった。返答がない事も意に介さず、気を失ったエルフを肩に担ぎ上げてから別の話題を投げかける。
「さて……これからどうする?」
「こちらの力はあちらに通用しない、四年前のような手も二度と使えない、真正面から塔を登ろうとしても会えるとは限らないし、第一彼女は自らの手のひらの中で踊るような者を求めていないでしょう」
「八方塞がりだな――ではあの塔の中に入って、会って話がしたいと叫んでみるかい? 我が養女はそれを拒まないと思うが」
「交渉とは、せめてお互いの立場がゼロ対ゼロという所から始めるべきですよ」
「そうだな……ただのヒモに価値はない。君にも意地があるか」
愚かさの意味を知る男は、自分の発言を噛み締めているようだった。
「失言だったな、忘れてくれ」
そしてエルフを担いだシフォンが去って行っても、
ヴォルグはそこに佇んでいた。
深夜の事だったとは言え、塔の中で勇者の仲間が晒した醜態を見た者は多い。
噂はすぐに広まり、エルフだと判明したその者がその後に町から消えた事もあって数多の憶測と呼んだ。
曰く、エルフは斥候で、彼から得た情報で体勢を立てなおしている。
夜、勇者が滞在する宿屋の屋根の上で塔の方を見上げる人影を見たという者がいたが、一ヶ月経った後も、勇者はレメトゲンの出入口を潜ろうともしなかった。
曰く、新しい仲間を集めなおしている。
勇者が町の中を歩きまわり、時には他の冒険者を訪ねていてさえも、その同行者は一向に増えなかった。
曰く、レメゲトンの困難さを悟って臆病風に吹かれている。
そして勇者の噂は、眠らぬ魔族が200階に達したという話題の影に隠れて行った。