魔王誕生
事の起こりから言おう。味噌が出来上がった。
異世界転生物でありがちの何番煎じだかわからないが、元日本人念願の和食である。が、ありがちなのはそこまでで、元日本人としての意識が芽生えてから着手するまでなんと十一年である。
何でそんなにかかったんだ、という疑問に対しては、あれやこれやがてんこ盛りでそれどころではなかった、という答えを返そう。
ともあれ、味噌である。
原料そのものは問題ない――何しろ大豆まんまのブマ豆という物が身近にあったのだ。煮ると甘いそれは、庶民的なおやつとして魔界で流行している。
では味噌醤油豆腐の製造法を述べよ。三行で。
。
生憎と元青年は現代っ子である。
俺は異世界に行くぜえと事前にウィキペディアやグーグルを読み込んだ剛の者ではない。
死んだと思ったら、何故かやたらと俗っぽい神様がいて、何故か世界中で毎日死んでる十五万人の中の選ばれし者がなんたらで、何故かおわびで都合のいいチート能力――って、作者読者の薄っぺらいが実はなかなか切実な願望にしてもちったあ捻れよ、みたいなツッコミが尽きない幸運児でもない。
味噌汁には味噌と出汁がいる。味噌は大豆と塩と麹。出汁は鰹節――味噌汁を煮たことは辛うじてあっても、製造法についての理解と知識はそこまでだったのである。
そもそもの事として、ベリルは超弩級と但し書きがつくぐらいのお姫様である。
本家にすら目を付けられるほどに凄い魔道具学の研究を裁縫の代わりに出来ても、魔王城やブラウン邸の愉快な皆様には料理のりょの字にすら触らせて貰えなかった極端ぶりなのだ。
この時点では、おしっこを蒸留した聖水を浸けた藁の束が、ベリルと料理の、唯一にして最大の第一種接近遭遇であった。これエロゲより酷くね?
以上の問題点をヒーコラ言いながら、ベリルは半年かけて乗り越えたのである。
そんな訳でようやく出来上がった異世界初の味噌汁の味は実に味わい深いものがある。
鰹節という定番の出汁がないのも気にならない――魚を手に入れるのも一苦労だったのだ。魔界に海はなく、人界は物が腐りやすい。苦労して手に入れた魚を身アラにする時、周囲の目も痛かった。
※
置いてけぼりなのは読者だけではない、やたらと経験豊富なお姉さまにしか見えないおばあさまもである。
孫娘を訪ねて三千里。滞在三日目にして折り入って話がありますと来た。
すわ魔王襲名かとミリアは内心期待していた。
しかし今、厨房に呼び出され、目の前に置かれた腐ったブマ豆を煮たミソスープとやらを、かつての旦那が痴情のもつれで刺された時並の入り混じった感情で眺めていた。
目の前には実質上の魔王である孫娘がいた。フリルごてごてなドレスの上に、裁縫職人が血を吐いてぶっ倒れるような超高級生地のエプロンを着けている。
信じられねえこの孫娘、美味そうに飲んでやがる。
が、癖があるのにいい匂いなのは確かだ。ミリアはとりあえずおそるおそると一口――あらなかなかいけるじゃない。おかわり。これは売り物になるかもしれない。どう作るのかしら。
はっ。ミリアは我に返った。
「で、これがお話とやらと何の関係があるのかしら?」
茶碗を置き、ミリアはご立派な胸の下で腕を組んだ。ごもっともな質問であった――未だにほのかに香る、底の見えたお椀がなければであるが。
うーん、とやはり曲線を覆い隠すエプロンの上から、強調するように腕を組むベリル。二人揃って同じポーズであるのは、血縁というよりはある一定以上のレベルを持った者にしかできない王者の貫禄と言った所である。争いは、同じレベルの者でしか発生しないのだ。
お話と味噌汁が関係あるか――そう聞かれた本人からすれば、無論ある。 あるのだが、単なる味噌汁からどう話を展開していいものかと作者と同じくらいに悩んでる。うーん、と手を額に当てて唸る。両腕がおっぱいを挟み込んでいるのは、誘ってるか嫌味かのどちらかにしか見えなかった。
いいや、言っちゃえ言っちゃえ。
「おばあさまは、細菌という物をご存知でしょうか?」
「サイキン?」
首を捻るミリア。頭に浮かぶクエスチョンマークが目に見えるよう。肉眼では見えない微生物。人が病気になる元。ベリルが説明すると、おばあさまはまるで今食ったカレーが実はうんこであると言われたみたいに顔を顰め、味噌の原理がワインと同じだと説明されてケロリと機嫌を回復させた。ものは言いようである。
「ふーん、面白いわね」
「はい、しかしそんな物はここにありません」
なんじゃそら、とズッコケかけるミリア。孫娘が真顔なままなのを見て、ふと思いついて周囲を見回す。
厨房の中には、二人以外誰もいなかった。ベリルにとって一番親しい人物であるアルケニーすら、である。
これ? とミリアはこめかみを叩いてみせる。ベリルは頷き返した。勿論脳みそがパーになったとか確認を取ったのではない。
闇の巫女。頭にあるというもう一人の記憶。
それは地球と異世界の一つの差異を探り当てた。
顕微鏡を作る技術は既にあった。原理は小学生でも知っている。壁、土、地面、皮膚、口の中――魔道具で調整した空気のレンズという、やたらとゴージャスな技術で考えうる限りのサンプルを覗いた結論は、この世界に細菌などという代物がない事実だ。
この世界には細菌がない――下手をするとウィルスも。では人は如何にして病気になり、物は如何にして腐敗するのか。
ここで一つの常識と一つの奇説を思い出してみよう。
闇素をこねくり回す力が魔力というのは常識である。反面、万物が闇素で出来ているというのは、数多の学者や魔導師に寄ってたかって否定された奇説だった。
しかしその奇説は本当だったらしい。細菌の確認と魔力の測定。証明するのに必要な道具は全てベリルの手元に揃っていた。
そこからは一つの事実が導かれる。
人と物は、闇素を失う事で腐敗するのだ。
実の所――この理論を思いつき、証明したのはベリルではない。
味噌の製造と並行して出汁を探すため、お忍びで出かけた人界の港町で拾った少年と一対の双子。
この世界とは異なる地球のアイディア。魔界有数の大魔導師。それらの薫陶を受けたホーゲンは、わずか半年で、世界の根源的な秘密に迫りつつあったのである。
そこまでベリルに説明されてミリアは目を見開く。
あの施設の外で道案内として声をかけた、どこにもいるような人族の少年が、という感想は無論ある。しかし何よりも――この孫娘の周りで渦巻く様々に触れただけで、ただの人族がかような結果を叩きだした、という事実には驚愕以外の感情が抱けなかった。
つい数日前の事である。今エプロンの前で胸を強調するように腕を組んだ孫娘の事を、闇の巫女有史以来、最大の意志と力を一言で動かす事ができる罪な女とミリアは評した。
しかし今ミリアは理解する――それどころの話ではなかったのだ。
曾祖母が黙り込んだのを見て、ベリルはギュッと俯く。銀色の前髪に隠れた小さいつぶやきをミリアは聞き逃さなかった。
止まらないんです。
血を吐くような言葉だった。
そこから一週間後、様々な答えと秘密を抱えて、ミリアは教会に戻る事になった。
ベリルに対する最後の問いは、魔王を襲名するか、である。
※
一年が過ぎたある日。
勇者ヴォルグは歩いて僅か十分の所にある塔を見上げていた。人界と魔界の境目にある、逢魔が時ならぬ逢魔が地――魔界から流れだした闇素と、人界から流れてきた雲の両方に覆い隠され、塔がどこまで上に伸びているかは地上から窺い知れない。
ヴォルグは、ユグドラシルを出た時より精悍さが一層増していた。
腰に差す豪奢な剣、金ピカ鎧に赤い裏地のマントは今更言うまでもなく趣味が悪い。しかし周りへのインパクトと威圧感は十分だ。背後には彼より一回り年も体格も上の騎士がいた。フードで顔を隠し、布に包まれた杖を抱えた縦長い人影もいる。奇しくも地球でのRPGに出てくるような三人のパーティだった。
周りにいた人族の冒険者から、勇者だ、という声が聞こえた。
勇者の背後にいるのが騎士の王であると見とがめた者もいた。魔法使い風の、微動だにしない長駆に圧倒された者もいる。
声はざわめきとなって人々の間を駆け回り始め、冒険者の集う酒場で、料金がやたらと割安な宿屋で、魔道具を作る武器屋で、魔道具の鑑定屋で、町の至る所で囁かれ始めた。
しかしそれを聞いた者の反応は驚きではなく、ついに来たか、という感じであった。塔と共に周囲に突如現れた小さな城下町は、冒険者達が落とす金や財宝を見込んだ商人達により現在でも拡大の一途を続けている。
今やレギオンという名の死神達が闊歩し、死の代名詞となった魔王城を目指す冒険者など人界でも魔界でも物好きしか存在しない。代わりに人界の冒険者や魔界の戦士が目指す所は一つだ。
セルビア王国から更に東に一日行った所。一晩でいきなり建ったとしか思えない、人界と魔界の境目で聳え立つ塔の名前はレメゲトンと言う。
塔の中ではスケルトンやリビングアーマーという使い魔の定番を初め、まだ見ぬ強力なモンスターが闊歩していた。それらが守るように、人族でも魔族に抗しうる魔道具という名の希望も眠っていた。
それらは魔族達にも魅力的だった。自分もひょっとして魔王に、というくらいの力を秘めていたのである。
そして塔の前でうろちょろしている魔族と人族の前では、ある光景が空中で大写しになる事がある。
それが未だに魔族一の美姫であるベリル=メル=タッカートなのか、それとも攫われた勇者の伴侶であるベリル=レイバックであるか議論は尽きない。名前が同じなのが判明した後に、同一人物だと主張する者までいる――しかし両者の姿を見た事がある人間がほとんどいない以上、結論など出ないのは当然の事である。酒場の中で、各種族の冒険者達がふと話題にした拍子に血を見る事も珍しくない。
ボロボロになった服から覗く白い肌は艶めかしく、両手を鎖に繋がれて項垂れてさえ、絹の糸のように流れるような銀髪は曇り一つない。
髪の間から覗く美貌、伏せた瞼の下ではこの世に二とない一対のアメジストが眠っていると、冒険者達の間でまことしやかに囁かれている。
貴族とは、味方も敵の捕虜も丁重に扱うものである。万が一自分が捕虜になった時に困るからだ。そこには魔族と人族の差などない。
しかし暴虐の後を示すかのように――彼女が身に付けている、所々が千切れた服は一目で粗末なのがわかった。それは暴虐を加えた者が、そんな暗黙の了解など考慮する必要がない存在である事を示している。
永久の美姫を囚え塔の上に鎮座するのは、かの強力な三柱王すら従える新しき魔王である。魔王の名は、何時しか人々の間で囁かれるようになっていた。
その名をデウス・エクス・マキナと言う。
魔王になるかというミリアの問いに対し、ベリルの答えは、ノーだった。
TV番組の得意な三文字を思い浮かべてみましょう
サン!ハイ!