突撃!隣のヒノキ風呂
かっぽーん。
風呂桶を置くと、懐かしい音がこだました。
幼い頃からFRPのバスタブに親しんだ元青年にとって、ヒノキの経験はあまりない――修学旅行の時、体育科に催促されながら着替えながら足の裏で感じた大浴場の着替え室ぐらいである。
それ以降の魔界でも人界でも浴槽と言えばスベスベの大理石である。国の名前だけは辛うじて記憶から欠落しなかった母国生まれにとって、ある意味ヒノキを思い出させるガウム尽くしの風呂は元青年の憧れだった。
またガウムかよ、という記憶力のいい方はともかく、ガウムって何だっけ? ああ多分アレだなという読者諸君のために一言言っておくと、便器の上に塗ったり、実は美味しく食えたり、アスファルトより耐久性がありそうな道路の舗装材に含まれている粘液――果てには今回の風呂場において大活躍の、なんだよこの何でも樹木という割にはそこらへんに生えてるというチート植物の事である。
ただし問題点がひとつだけある――ガウムの木は魔界にしか生えていないのである。あと、現地の人間にとっては気にならない点として、ヒノキほど香りがない。
その内ヒノキもどきの素材もどっかのジャポネからやってきた異世界人が発掘してくれるかもしれない。地球ではありえないくらいにぶっといガウムの切り株を丸ごと繰り抜いて、樹液を塗って滑らかに固めた巨大な浴槽は非常に具合がよかった。流行ったら間違いなく自然破壊になるだろう。
ヒノキなどどうでもよくなりそうだった。樹液の下にお湯を生成する魔導式が仕込んであるとなれば、風呂に一家言ある国のメーカーでもジェット噴流がないと抗議するくらいが関の山である。
――てめえ、折角のお風呂シーンでどうでもいい設定語ってんじゃねえ、女体はどうした女体はといきり立つ紳士諸君、いいから座ってろ。
ベリルが浴槽の縁にもたれかかっているため銀色の聖域やおっぱいは見えないぜザマアミロ、と言いたい所だが、上気してトロンとした顔と、結い上げたプラチナの下から顕わになったうなじは各方面のマイスターが思わず頷くほど色っぽい。
何々? 物足りない? よかろう、ならば全裸だ。
喜べ、いきなり浴場のドアを全開にして自らのセクシーダイナマイツをも全開で仁王立ちしているのは芳麗143歳の曾祖母様であった――実に風情がない事おびただしいがこれも文化の違いというやつである。
外見は二十代前半なので目の保養ではある。
143歳の仁王立ちで全開なのだが。
もちろん女として、どころか人間としての人生を合計しても桁が一つ違う相手にチラチズムだの風情だのを説く無謀さは孫娘にない。魔界版和風風呂以外に形容のしようがない浴槽にとろけた目を、そのままジト目に変えて全開の143歳を見つめる。
うん、黒い。あそこの色も髪と同じだ。
おばあさまは体を清めず、即、浴槽にドポンと入った。魔界は気候の変化が緩めで冬もあまり寒くないので、あまり汗をかかないからだ。
魔法のナプキンにも使ってある奴を応用して、汚れを分解する魔導式を仕込んだ服なんかどうだろう――ベリルが思ってる傍でミリアははふーと、気持ちよさそうな吐息を一つ。そこだけは日本人みたいに手ぬぐいを頭に載っけて、仰向けになった口からおっさん臭い声を出す。
ああー。
――気持ちはわかるのだが。
5歳の頃から史上最大の猫をかぶり続けたベリルが言えた義理ではないが、元男の夢をぶち壊す事甚だしい――それが実のおばあさまともなると、カルピスの原液にマスタードをぶち込んで青汁で割ったような味わいがある。
「いいわー――これもその記憶とやらの?」
「……そうです」
これだから油断がならないのだ。
「あの手紙、何て書いてあったの?」
「――中身、知らないんですか?」
「知らないわよ――ご先祖様がお書きになって以来、写本をいくら両界にばら撒いても、未だに誰も読めた試しがない代物だもの」
はー、とベリルはお風呂の縁にもたれかかったままアンニュイな感じでため息をつく。
「大体の事は……」
「彼女が現在の魔法の基礎を築いたのは?」
「それは前から知ってました」
「勤勉なのね」
「……皆が無頓着すぎるんです」
「しょうがないわよ」
お湯越しに、おばあさまが足を伸ばすのがわかった。チョイチョイと尾骨の辺りをつつかれるが無視。
「お腹が減れば魔法で獲ればいい。渇いたら水を魔法で作って飲めばいい。寒さも暑さも敵も、ぜーんぶ魔法が解決してくれる。大きな病気には滅多にならないし、無駄遣いするほど寿命は有り余っている。その上目の敵にしてくる人族はそもそもがその気にすらなれないインポ揃い。これで歴史から学べって言ってもインキュバスに貞操を説くようなものよね」
確かに。
魔王というレベルはおろか――ベリルが拉致されていた時、ドアの隙間から出歯亀していた宿屋のおばちゃんですら、人族とは隔絶した生き物だ。魔力こそあれど通わない身からすれば、インチキとしか言いようのない生き物である。
しかし――チート、インチキ。それらが完璧とイコールではない事を、今のベリルは知っている。
地球の例えを出すまでもない――ベリルはチートというものをよく知っている。
並ぶもののいない前代魔王は、退屈そうに自称勇者を活け造りにしていた。そこから解放されたお父様は、生き生きしながら世界観無視の鉄筋ビルを建てていた。
魔界版のミケランジェロとも言えるバイアンは人の身ですらない。仮初の肉体は感情こそあれ、その有り余るチートをほとんど自分に使わないのは欲望がないからだ。
パパンを張り倒した勇者に至っては、自己矛盾で今にも四散しそうだった。
そして思わず掴んだ藁すら自ら手放し、一人で底なし沼に沈んで行こうとしているのだ。
――ばか。
そう呟いて俯いた直後、腰の辺りに電撃が走った。
思わずピクンと跳ねた体を抑えてベリルが恐る恐る振り返ると、そこにはチェシャ猫がハマり役だろうおばあさまの顔があった。
「誰の事を考えてたの?」
ぐへ。
効いた。
「そこまで変なとこに触ったつもりはないんだけど」
チョンチョンと、まるで白魚のようなミリアの趾が先ほどと同じ所をつついてくる。
不都合な事に、見事な曲線を描くベリルの腰骨はこのタイミングで無反応だった。
そしてまるで熟練した職人が冷やしたパン粉で揚げたトンカツに対するが如く、おばあさまはのぼせる寸前の孫娘を湯船から掬い上げる。
いや、ちょっと。
「よっこらしょっと」
抵抗は無駄だった。一族揃って非力であるはずだ。しかし127年という歴然とした経験の差。肉体派の反対の極致にあるベリルは、有無を言わさず風呂場にある台座の上に転がされた――何時の間にか体を拭いてタオルを巻いたゴージャス美女が、やたらと年季の入った掛け声と共に跨がる。
自分は裸一貫。バスタオル一枚で、ゴージャスな美女で、背中にサワサワと何かがあたっていた。連想するのはあれだった――男の人がお金を払ってお店で受けるあれなサービス。
ただし美女の正体はおばあさまであり、自分の体は美少女で孫娘である。
「あの」
「はいはい、大人しくしてなさい」
いや待てちょっと待て。
いくら外見があれだからと言って、何が悲しゅうて祖母と百合あわないかんのだ――ゲイと801の見分けがつかない人種のような無理解な感想を浮かべてベリルは暴れる。
人体は腰を抑えられると動けなくなる事を、身を持って思い知った。
目をギュッと閉じて、ベリルは予想されたアレな感覚に耐えようとする。
あれ?
果たしてインキュバスのおじいさまをメロメロにしたというテクは孫娘に施されなかった。
まるで商人がチーズを検分するかのようにベリルのふくらはぎを指で押し込み、おばあさまは頷く。
「ふぅん、足はいい感じね。でも長い間怠けてたでしょ、折角だから鍛え直しなさい」
う、と図星を突かれてベリルはうめく――二年にも渡る人界での生活は運動する機会に恵まれず、ずいぶんと弛んでるのは確かだ。ここ半年で再び回復しつつあるが、今のベリルでは不埒者の股間を蹴り砕く事はできまい。
元青年はスポーツジムに行った事はないが、トレーナーに筋肉をチェックされるとこういう感じなのかもしれない。やれ脇のラインが甘い、やれ二の腕が締まってないだの、まるでどこぞのプロモデルの体作りだのとツッコみたくなる。
しかしこのおばあさまが大真面目になってるのを見ると、生死に関わる問題とすら思えてくる。
あ、そうか。
ベリルは気付いた。
初代魔王を初め、魔界中の男共を魅了した巫女の一族は女っぷりで世を渡っているのだ。正に生死問題であるのだ。
「……私、太ってるのですか?」
毎日鏡を見ても丸くなっているのに気づかず、ズボンのサイズが合わずに初めて気付く事実もある――それは生粋の女ならぬ身でもなかなか身の毛がよだつ推測であった。
「違うわよ、体に魔力が通ってない分、鍛えてカバーしろって言ってんの」
「え?」
「ああ、シラはアルケニーだからそれを知らないんだったわね――魔族なら誰しも魔力をイメージ通りになるよう体を調整してんの、魔力量で限界はあるけどね――あなたのお父様を思い出してごらんなさいな。あなた達母子は体に魔力通ってないから。はい、力抜いて」
あいででででってってっ何そのとことんなチート体質。ダイエットに躍起だった元青年の前彼女が知れば憤死してくれそうだ。
そう言えばグォルンも太鼓腹以外は結構ガチムチな筋肉マッチョだった。この世界に生を受けて以来、極端な肥満体は人界でしか見た事がない――つまりは例の豚だが。
やたらと手慣れた様子のミリアに、孫娘はもう一つ気付く。
「おばあさまはお母様にもこれを……?」
「まあね、気に入った男を魔王に仕立てあげて、ヒヒ爺をぶっ殺すなんてよくやったもんだわあの子――で、あの男のどこが良かったの?」
一瞬、反応が遅れたのはベリルが鈍いせいではないと思いたい。