魔王の苦悩
以上が武器庫で起きた事件の報告です。
幸いにして暴走したソウルイーターはお嬢様お付きのスケルトンにより鎮圧。溜め込んだ魔力の全てを使い果たしたようなので現在再封印の儀式をしております。
吹き飛ばされたリビングアーマーはほぼ無傷。損害したスケルトンやゾンビは破棄しておりますがほどなく再召喚できる見込みです。
お嬢様にお傷はありませんでしたが、ショックが大きかったようでシラ様が付き添っております。
え?飲ませろの意味ですか?
いや、それは。
えーと、あの。
その、
「もうよい」
しどろもどろになっていた魔族の言葉を、男はうんざりとした声で遮った。
見上げるだけで首が痛くなるような、筋骨隆々の偉丈夫であった。人族の男性の倍以上はある長身を特注の玉座に落ち着かせている。腕から伸びた爪は腕掛けを丸ごと覆ってしまうほど長い。頬杖を突いた方の爪が前を向くように捻っているのは自分に刺さらないようにするため、なのではあるが、
不機嫌そうに眉を潜められながら爪を向けられると、背筋に冷たいものが流れてしまう。
「で、では失礼します」
「ああ、ご苦労であった」
転ぶように逃げ出した魔族には目もくれず、魔王は爪を前に向けたまま、手の甲を額に当てる。
ふー、と、重そうな溜息が子供を丸呑みできそうな口から漏れる。
由々しき事態だった。
しばし思考の海に沈んでいたが、いくら魔王と言えども、世界を止める術など無い。
その事を証明するかのように、沈黙を破る声が響いた。
「魔王タッカートだな?」
朗々と上げられた声の方向をタッカートは一瞥した。
曇り一つなく磨き上げられた白銀の鎧を着た、キリッとした表情の美青年だった、刃こぼれ一つない見事なロングソードを片手で持ち上げ、魔王の方に向けていた。
勇者。
それはまるでお芝居の一幕のような場景であり、魔王の視線を受けた彼は名乗りを上げる。
「私の名は勇者シフォン=レア=
ピュンッ。
名乗りが途中で止まる。
一拍の間を置いてまず根本から断ち切られたロングソードが地面に落ち、カランとした音を立てた。
青年のブレストアーマーが横一文字に深々と切れ目が入る。切り裂かれた肌着の下からはボーボーとした胸毛――まあ、地球で言う白人なので。
名乗り口上の途中で固まった口のまま、シフォンなんたらという勇者は起こった事を目で確認する。そして信じられない物を見たという風に魔王の方に視線を戻した。
魔王は玉座の上から動いてすらいなかった――いや、前に向けられた爪の一本が横薙ぎしたように位置を変えている。
「失せろ」
押し殺した声。
シフォン某は柄だけ残った剣を取り落とし、腰が抜けたようで地面にペタリと座り込んだ。
ジワリと、股の間から湯気立つような液体が地面に広がる。
そいつはしばらく茫然自失としていたようだが、我に返った途端、あわわわわわとうめきだす。柄だけになった騎士の命をも放り出し、這うように玉座の間を逃げ出した。
最初の一瞥以外に、魔王はそちらを見もしなかった。
程なくして、玉座の間に現れた掃除係は目を疑ったかのように両目をゴシゴシとこすった。
その背には掃除道具やえーとそのなんと言いますか、散らばった人族や魔族を片付けて放り込むための桶が括りつけられている。
そんな何時ものようにその仕事をこなす彼をして眼前の光景は信じられなかったのである。
両断された剣に、地面に広がった湯気立つ液体――それはいい、今更珍しくともなんともない。
だが肝心の、ぶち撒けられているはずの死体がなかった。
異常事態だった。当代の魔王は人族の勇者や魔族の反逆者に、歴代で最も仮借ない殺戮を与える事で有名だったのだ。
すわ魔王様が討ち取られたのかと思いきや、玉座の間で思考の海に沈んだかのような王には傷ひとつ付いた様子もなかった。
しかし万が一という事態もありうる。
「ま、魔王様」
「なんだ」
後始末係は慄いた、案の定無事のようだ――しかしかつて無いほどに主君の声は低かった。
あるいは今はご令嬢の世話役についたアルケニーがこの場にいればこう言ったかもしれない、まるで奥方に先立たれた時のようだ、と。
腕の下に隠れた表情は見えない、内心で吹き荒れる嵐は果たして如何ほどか。
「……勇者は逃げ出したのでございますか?」
「ああ」
あれを勇者と呼べるのなら、ではあるが。
つまらない人族だった、目立つ所に傷一つなく、さりとて疲労困憊といった様子でもなかった。汚れ一つない白銀の鎧も刃こぼれのない剣も、私は何の戦いも苦労もせずに魔王の前に立っていますと言っているようなものだ。
それでいて自信満々の表情をしていたのだ。滑稽ですらある。
そういや名前は何だったか。
そんな俗物がここに辿りつけたのは先程報告を受けた一件のせいだろう。そうでなければモンスターがウヨウヨとしている魔王城で、戦ってきた痕跡が全くない事に説明が付かない。
「そ、それで彼の者はどうしましょうか?」
「捨て置け」
「は?」
「二度は言わん」
掃除係には、魔王が取り逃がした者に、他の魔族が歯が立つ訳がない、と言っているように聞こえた。
「は、ははっ、失礼しました」
チラリと、震えながら掃除をしている魔族、そのモップが向かう先にタッカートは目をやった。
もはや温度を失ったその液体は、掃除係の素早い動きであっという間に跡形も無くなっている。
ピシリ。
何かが割れる掃除係は目を上げ、目の前の光景に慄いた。
亀裂が入っていたのだ、腕を載せた玉座の腕掛けに。
怒っている――残虐の限りを尽くした前代をも遥かに凌駕する力で玉座に座った当代魔王、ベルセルク=フォン=タッカートが。
バキン。
遂に腕掛けが砕けた、俯いた魔王の全身が怒りを堪えるかのように、ブルブルと震えている。
もはや生きた心地がしなかった。
「し、失礼しましたぁぁぁぁぁっ!」
自分もぶち撒けかねないくらいに全身を震わせた魔族はかつてないほどの素早さで断剣を拾い上げ、転がるようにその場を後にした。
きっと魔王タッカート様は初めて勇者を仕留め損なった怒りで我を失う寸前だったのだ。
あのままその場にいればバラバラ死体にされていたに違いない、とその掃除係は後に語った。
ようやく行ったか、とタッカートは呟いた。
「く……!!!!」
堪え切れないとでも言うかのように、俯いたその口端が歪む。
そう…由々しき事態のはずなのだ。
もう駄目だ。
ぷつん。
所変わって麗人の塔。
ベリルは体育座りで部屋の片隅に向かっていた、死んだ目でるーるるるるるとカナリアのように囀る。
その後ろではシラが困ったものだと片頬に手を当てていた。
大丈夫ですよ、誰も気にはしてません、という慰め文句は既に定番を通り越して語り口すら尽きている。
同時にお嬢様は恥じる事を知る一人前のレディになりつつある、とやはり明後日の方向に期待を膨らませていたりする。
笑い声は、そこまで聞こえてきた。
ベリルは声の主を聞き間違えなかった。
「う、うわあああああああああああああん!」
まるで壊れかけたエンジンにニトロを注入されたかのようにガバッと立ち上がり、シラが止める間もなく部屋の外に駆け出した。門番に走り寄ると、息の合った動きで差し出された手のひらにヒラリと飛び上がる。
えぐえぐ、ひっくひっく。
顔を隠して嗚咽を漏らし、指で階段の下を指さす。
一人になりたい。
困ったようなスケルトンナイトが伺う方向には、こめかみを指の先で押さえたアルケニー。
まあ、この髑髏の騎士が傍にいれば無茶はできないだろう、一つ頷く。
承認である。
ガチャン、と兜のバイザーが降り、その下で無いはずの両目がビカーンと光る。床に亀裂すら入れてジェットコースターのように、全身鎧の髑髏騎士は螺旋階段を猛然と駆け下りて行った。
なお、数日に渡って玉座の間で響いた思い出し笑いがどんなものだったのかは、本人と魔族の沽券のために伏せさせて頂く。