決別の狼煙
式の前日に花嫁に会いに来るとは何事か――という文句はこの人界でも通用する事らしい。
微笑む地獄の門番と化した人間台風を抑えたのは、付き添いとして少年の傍に立っていた騎士の王だ。
「リム、この二人だけで話させてくれないか?」
目を吊り上げたレイバック夫人だが――有無を言わせないような様子の夫に口を閉じる。何かあったのね? 言葉に出さずに目で問いかけ、シフォンが頷くと、アッサリと部屋の外に出る。普段はヴォルグに辛辣なのに、である。レイバック夫人のあまりの引き際の良さに、ベリルはポカーンと口を半開きにして見ていた。
何かが起こっている、それはわかる――しかしそれが何なのか、ベリルには見当が付かない。
部屋の中で二人っきり、化粧台の前からドレス姿のまま腰を挙げたベリルの目の前、明日の花婿は困ったような顔で見つめてきた。
何か言えよ、おい。
不安はドロッとした妄想に変わった。少年から青年の域に入りつつある目の前の勇者は、今にでも呟きそうだ――式を挙げるの、止めよっか。そしたら自分はYESと頷くのだ。
つくづく婚礼を間近に控えた女の発想ではないと思う。そもそもの原因はこいつではないか、と上目遣いで睨んでみせる。
「あー……うん」
ベリルの前では微笑みを絶やさず、物腰こそ柔らかいが何事もハッキリ言うこの男が言い淀んでいた。
背が伸びたな、と思う――倍以上という事はないが、ベリルと同じくらいの背丈だったのが、今や視線を前方に移せば木の板のような胸板しか見えない。
「綺麗だよ」
それだけか。
何時ものように抵抗できないのをいい事にキスの一つでもしたらどうだ、この野郎。
と思っていたら軽く抱き寄せられた、耳元で囁かれる。
「まるで人間じゃないようだ」
その言葉を聞いた途端――ベリルの中でカチリ、と何かの噛み合う音がした。
先ほどレイバック夫人との会話で感じた違和感。
――今頃は、魔界で。
それがハッキリするまでの数瞬、更に理解できない事が起こった。
ベリルの首筋に回したヴォルグの指先が、隷属の魔導式を撫で回すような――そこが散々触られた体中で、未だにくすぐったいと感じる数少ない未開の地である事は、この勇者が二年間ぶりにそこに触れたという事実をベリルに思い出させた。
耳元での囁きが、やけにハッキリと聞こえる。
「シーク・ネクスト」
それは、ベリルが知りたくても知らなかった、模索しようとしても隷属させられてその気にすらなれなかった言葉だった。
ベリルの肌に魔力を込めた隷属の魔導式、その解除のキーワード。
まるで凍った湖が春の太陽に晒されたように、意識の上っ面を覆っていた靄が晴れる気分。
「え…………?」
自分が発した忘我の呟きを、まるで別人の言葉のようにベリルは聞いていた。
そして無数の疑問が湧き起こる数瞬までの間、
何かが部屋の窓ガラスを叩く音。
そっちに首を向くと――
ベリルの頭ぐらい覆えるような大きさの肉球が。
※
ユグドラシルは大混乱に陥った。
カンカンカンカンカンカン。
突如城門に突撃してきた全身鎧の軍勢に、城兵が警鐘を狂ったように鳴らし続ける、城壁に寄りかかって居眠りしていた守備兵が驚いて身を起こした。
「何事だ!?」
ようやく駆けつけてきた守備隊長が城壁の下を見下ろした時、鬨の声の一つも発する事の無い軍勢は、跳ね橋を上げた城門近くの堀の前に押し寄せている。
「どこの国だ、盟主たるベーオヴーフに攻め込むとは!?」
実戦を経験した事のない守備隊長は気付いていなかった――全身鎧とは、本来は戦馬に乗る時に使う物であり、両足で走ったり跳ねたりするものでない事を。
そして篝火が軍勢を照らした時、城兵達が息を飲む。
それぞれの獲物を構えた全身鎧達は、全員が漆黒のカラーリングで統一されていた。
誰かが叫んだ。
「誰だ!跳ね橋を下ろしているのは!?」
そして振り返った城兵は、そこにいた者の姿に息を呑む。
元青年ならこう言うだろう、ガメラみたいだ、と。地面に転がってうめき声を上げる兵士達に囲まれ、まるで亀のような姿をした全身鎧が、竜の爪にも匹敵するような両腕で跳ね橋を上げ下げするための錘を操作していた――単体で。
亀の甲羅のド真ん中、開かれた目玉の意味を解する暇もなく、跳ね橋がガターンと残響の長引く震動と共に降りた。漆黒の軍勢が城門前に殺到する。
城兵達は、それを呆然としたまま凝視していた。
獣の意匠を凝らした全身鎧が、手に持った大剣を下段から振りかぶる、
誰かが呟いた。
「馬鹿な……」
瞬間――石畳の地面を、踏み込んだグリーブが割り砕く。
丸太と補強用の鉄板、その他諸々も一切合切叩き割るような、言語にしがたい音と共に――三重になった城門を一気に半円に繰り抜いたリビングアーマーを先頭に、闇の軍団が城門を突破した。
人間技ではない。
戦慄と共に不運な守備隊長は叫んだ。
「伝令!伝令!魔族が攻めてきた!魔族がユグドラシルに攻めてきた!」
『よっし、突撃』
大剣を肩に担ぎ、ソウルイーターはガチャガチャと人間臭い動きで兜を回す。
背後にいた、どこかで見たような10tハンマーを両手に持ったリビングアーマーが使い魔のネットワーク越しに語りかけてきた。
『魂喰らいの旦那、本当に好きにやっていいんで?』
『うん、でも殺しちゃ駄目だよ、主が後々困る事になるかもしれないってさ。スラム街も意味ないから無視――兵士たちはそっちなんか見向きもしないだろうから。あと多分出てこないはずだけど、武器を持たないのに逃げずに遠巻きに見てたり突っ込んできたり、紋様の複雑な鎧を着た奴がいたら全力で逃げてねー、あの一族とやり合うと死ぬよ』
「う……うわあああああああああああああ!」
城門に殺到した兵士達が槍を突きこんできた、それをリビングアーマー達は避けも防ぎもしない――カン、と切っ先が鎧に弾かれる音。
ハンマー持ちが手に持った得物を一閃すると、数人の兵士が槍を砕かれた衝撃だけで吹き飛んだ。
「だ、ダメだ、剣や槍は通らん、メイスだ、メイスを持ってこい!」
慌てて後ろに下がって、遠巻きに囲む守備兵達をソウルイーターは見回し。
『んじゃ予定通り、主んとこ行ってくるから、あとよろしく』
『へーい、お気をつけて』
まるでコンビニにでも行ってくるような口ぶりだが、ノーモーションで跳んだソウルイーターは建物の上に飛び乗り、屋根伝いにひょいひょいと跳んでいく。
※
「まさか!?」
叫んだベリルの目の前で、意外にも軽い音を立てて窓が強引に押し割られた。
音を立てずに、夜の庭にも勝る漆黒を備えた巨大なフェンリルが窮屈そうに窓から頭だけを室内に突っ込んでくる。
ガタイこそ随分と大きくなってはいるが、ベリルはそれを見間違えない。
「ロキ!?」
夜の庭園を背にしてもわかるくらい、ロキはパタパタと黒い尻尾を千切れんばかりに振りたくっている。
そっちに駆け寄ろうとしたベリルだが――ふと違和感を感じて振り返った。
まるで織り込み済みと言わんばかりの表情で、彼女を引き止めようともせず、ヴォルグはそこに立っている。
ベリルは思わずその胸倉を掴んだ。
「どうして……!?」
少女の腕に、ヴォルグは優しく両手を重ねた。
「お別れだよ、お姫様」
淡々と話す青年の態度が示す事はただ一つ――
全てが、彼の手の中にあるのだ。
「ありがとう、この二年間、とても楽しかったよ。一年前の誕生日になるまでに君を帰してあげたのに、今まで傍に留めてしまったのは僕のエゴだ」
その言葉に泣きそうになるのが自分でもわかる。
魔界に帰れる、おうちに帰れる、お父様に会える、シラ、ランスロット、ソウルイーターフィレスジョルジュグォルンジョスバーハラプレア、
リベールがいない。
酷い事をされた。人界に拐かされた。唇を奪われ、隷属の魔導式を描かれ、強引に婚約者にされた。人界の事情を教え込まれ、自分が男ではなく、女である事を嫌でも自覚させられた。
理屈ではないのだ。
「一緒に――!」
その言葉は、自分でも意外なほどスルリと口から出た。
「それはできない」
「…………何でっ!?」
「僕は勇者なんだよ、人族なんだ」
血を吐くように、一字一句、まるで自分に言い聞かせるような言葉――それが答えだった。
先ほどから感じた違和感の正体。
なんだかんだ言って、楽しかったからなのかもしれない。人族と大差のない地球の概念が染み付いていたからなのかもしれない。
それでもどうして今まで気付かなかったのだろう、とベリルは愕然とした。
それは人族と魔族、歴然とした寿命の差である。
例えば明日ベリルがお嫁になってしまったとしよう。
十年経った、若作りだと言えば周りは納得するだろう。
では二十年はどうか、妖怪じみているがまだ言い訳が立つ。
更に十年重ねる、老いが見えてきた勇者に対して、人族で言うと十代の外見しかない自分。
その後に待つのは破滅だ。
「僕はここまでなんだ、運が良くてもあと五十年ぐらいしか時間がなく、守るべきものがある。そして君には千年の自由が残されている、わかるかい?」
ヴォルグが自分を人界に連れてきた理由も、今ならわかる。
ミーミルの泉を飲んだ今のベリルは知っている――勇者とは、弱者の王だ。
本当に勇者が問答無用で強かったら、魔王が力だけで魔界を統べるように、世界を統べれるはずなのだ。
弱者だからこそ必死に必殺の刃を研ぎ、闇に紛れる技を磨き、決定的に詰んでいるとも言える人族が崖から転落するのを辛うじて防いでいる。
だからこその、人族の希望だった。
青年の求める"どうしたら人界と魔界、両方が幸せになるのか"という無理難題に解答を弾き出すには、人族の勇者はあまりにも力不足で、あまりにも時間が無い。
だからそれをベリルに託す。
人族では答えを出すのに時間が足りなくても、魔族の千年ならひょっとしたら答えが出るかもしれない。
そのために幼い頃から魔導具の概念を弾き出した魔族の姫君に近付いた、ベリルの素質や性格を探り抜き、人界の存在を身を持って教え、無視できないようにした。
いや、どこまで意図通りなのか、本人でさえわかっていないのかもしれない――少なくとも、二人の距離がこれほど近くなるのは想定外のはずだ。
結局ヴォルグは、まな板の上で寝転んだベリルの貞操を最後まで奪おうとしなかったし、人界にいる二年間、ベリルに不自由をさせなかった――それこそ鬼畜エロゲーのようにもっと酷い扱いをされてもおかしくないのに、だ。
厚遇の意図はその目的を考えれば明白だ――ヴォルグ個人はともかく、ベリルに人界を恨ませる訳には行かなかったのだ。
そしてヴォルグが、勇者である意味。
ここまでやったのだ、
全てをベリルに押し付けておいて、押し付けた当の本人があとははいよろしくという訳にはいかない。
万が一、ベリルの弾きだした答えが、人界を破滅させる事となった時に備えて――
ヴォルグは、勇者でならなければならない
他の奴に、譲れるはずもない。
「私の事は……」
もう薄っぺらな男としてのアイデンティティを保つための敬語も抜きだ。
あれほど好き放題やっておいて、好きではないとは言わせない。
人族の希望である勇者であり、世界を救おうとする人間であるヴォルグは、ただの男でもあるのだ。
――だから決して言えるものか、
「大嫌いだよ」
ベリルはわからなくなった。
男とは――こんなに複雑奇怪な生き物だっただろうか?
「ずっと大嫌いだったよ」
こちらを傷つけるような言葉。
しかし慈しむような表情が、優しくベリルを撫でるような仕草が――言葉を裏切っている。
「美しくて、賢くて、でも肝心の男には無防備極まりなくて、どれだけ迷惑だったか」
髪からおでこ、おでこから頬、頬から首、背中――まるで少女を型作る曲線を脳裏に刻み込むような手つきの両腕が腰を抱いてくるのを、ベリルはされるがままにしていた。
「恵まれた魔界に生まれて世間知らずで、こっちの事なんか何も知らなくて、僕が止めなきゃ人界を破滅に導こうとした君が――」
傷つけるような言葉にも、少女の表情は微動だにしない。
紫色の両目が、まるで見通すように青年を見つめている。
決して言えないから、抱き締めて唇を合わせる。
長い事、そうしていた。
――もう意地を張るのは、止めにしよう。
――俺は。
――いや、私は。
――ベリル=メル=タッカート。
――魔王の、一人娘だ。