ムーンファイト
人界の月は、一日の半分を夜空で過ごす。
空に留まっている長短の違いこそあれど、外見は魔界のそれと違いがわからないそれを、獣の鎧は見上げる。
世界は広い。
人界の森は、魔界のそれと比べて随分と過ごしやすそうだった――獣は魔界のほど猛々しくはなく、時には魔族と交渉までしてしまう魔物ほど狡賢くもない。
人間ならば肌を切る草や這いまわる虫に辟易とする所だろうが、生憎と全身鎧で構成された体はそれらも全く苦にしない。
森を抜けると、円状の城壁に囲まれた王都ユグドラシルを一望できる丘があった。そこに長身の男が立っているのを確認し、リビングアーマーが片手を挙げてゴーサインで振り抜く。
森の中から黒い軍勢が現れる。
群れの先頭に立つのは大の男がそれでも見上げるようなフェンリルだった。獣の皮を固めた骨みたいなおかしを咥えているのが若干格好付かないが、こいつはこいつで大真面目なのである。
続く軍勢は、人の形をしていた。
背格好が違う。横幅が違う。背中に背負ったり腰に挿したりしている武器だったり手ぶらだったりも違う。しかし共通している事が一つある。
その全員が、がらんどうの黒い全身鎧なのである。どいつもこいつも野外進軍のせいで若干汚れてはいるものの、作り自体はピッカピカ――という訳ではないが傷一つない新品だった。
森から出たリビングアーマーの集団はソウルイーターの前に整列する。どこかの犯罪組織そのものな北半島の奴隷国家が涎を垂らして喜ぶような、全員が同じ芯の通ったビシッとした直立姿勢。全員が並び終わるまで全く微動だにしないというのは、動いたら殺すとその国真っ青の脅しを人間にかけても不可能な芸当に違いない。
リビングアーマーの軍団に振り向きもしない男と、おやつを咥えたままお座りをして王都を眺めるフェンリル。その後ろで腰の後ろに両腕を回したソウルイーターは、軍団の前で点呼を取り始めた。
『全身揃ったー?』
うーい、はらへったーと直立不動の集団から各々の返事があがる。
こら、そこ、笑うな、重ね重ね言うのもなんだが、彼らは大真面目なのである。
真面目ぶるのと、真面目なのは似ているようで天と地の開きがあるのだ。
『では食いながら聞いてねー』
はーい、と各々のマジックチャージャーを取り出して黒い管でチューチューするリビングアーマー達。
小学生か。
獣の鎧は今にでもコホンと咳払いとしそうな人間臭い仕草を一つ、
『ではこれから我らが主、ベリル=メル=タッカート様の救出作戦を始める』
左右をウロウロしながらソウルイーターは続ける。
『貴様らは武器庫から出来たてホヤホヤの半人前だが、この作戦後、ひとかどのリビングアーマーとなるだろう』
グシャリ。黒いバナナを吸い終わった軍団は、マジックチャージャーを握り砕いて地面に捨てる。魔界でも有数のチートコンビが作り上げた携帯食は自然に優しい即分解。問題はないのである、ないったらない。
『よろしい、それでは――』
軍団のリーダーはピタリと止まる。
『野郎共、俺達はなんだ!?』
『シャドウ!レギオン!』
悪夢の光景が広がった。
興奮したのか、ガパッと、レギオン達の全身鎧から――胸に生えた目玉が、腹に開いた尖った牙だらけの引き裂き口が、肩から生えた巨大な竜の爪が、
『シャドウレギオンとはなんだ!?』
『最強!無敵!強靭!』
『男にしてもらいたいかー!?』
『殺せ!殺せ!殺せ!』
『主の魔力を飲んでみたいかー!?』
『殺せ!殺せ!殺せ!』
『主になでなでしてもらいたいかー!?一人前になりたいかー!?』
『ガンホー!ガンホー!ガンホー!』
『あれはいいものだぞー!』
いーなーいーなー、と軍団から挙がる声に、表情がないはずの獣の鎧がニヤリとする気配。
いつの間にか、漆黒の獣が姿を消していた。
男は微動だにしない――というかレギオンの声が聞こえていないのだから当然だが。
ソウルイーターがその背後でガシャリと音を立ててひざまつくと、バサリと音を立てて、男の背中から巨大な悪魔の翼が広がった。
眼下に広がる王都ユグドラシル、その閉じられた巨大な城門を指差す。
『よし、行くぞ!野郎ども!シャドウレギオン・ア・ゴー!』
ガパッと開いた兜の中から引き抜いた巨大な大剣を、ソウルイーターは同じ方向に向けて振り下ろした。
ドドドドドドドドドドドドドドド、と今までの隠密進軍が嘘のような轟音すら立てて、リビングアーマーの軍団は丘を駆け降り始める。
ユグドラシルの城壁は、たちまちパニックに陥った。
※
はっ!?
ベリルは正気に戻った。
体を見下ろす。試着しているのはセルビア風の、身も蓋もなく言ってしまえば女よりも男にウケの良さそうな清純そうな白い花嫁ドレス。目の前には刺繍の華やかな白いベールがスタンドに載っかかっていた――一度姿見の前で被ってみた感想は、我ながら鼻血が出そうになるほど可憐だった事だけに留めよう。
いや、そもそもの問題として、だ、
この夜を過ごした後、ベリルは花嫁になるらしい。
やばいやばいやばいやばい。
あらどうしたのベリル?
横から聞こえた声に、不安げな表情でベリルは顔を上げる。
相も変わらず枠外でしゃべる人間台風が、化粧台の前で座りこんだベリルと、姿見越しで目を合わせていた。
「リクーム様……」
駄目じゃない明日花嫁になるって女がそんな表情をしていちゃ。
いや、その花嫁というのが問題なのだが、と言う訳にはいかない。
レイバック夫人はベリルの肩に両手を載せる。
不安なの?
ベリルはコクリと頷く。
大丈夫よ誰でも通る道だから心配はいらないわこれ以上に綺麗な花嫁がこの世に存在するものですかというかあのへたれの根性なしが悪いのようちのダンナに足腰立たなくなるほど打ちのめして貰おうかしら
仮にも勇者相手にひでえ言い草であった――てか一応その旦那さんを小指でちょいした魔王を完封しているのだが、彼女の言うヘタレは――あ、魔法を封印する前提ならそれぐらいはできるのかもしれない。
「いやあの……」
信じられないわこんな可愛くて夜の方も凄そうな子に二年間も手出さないなんて本気で勃たないんじゃないかしらベリルもうあんな駄目男のお嫁さんなんか止めて他の相手探さないあなたならもっと素敵で殿方が
「いや……そこまでは――」
流石にヴォルグが哀れになってベリルは抗弁の言葉を口に出した――あれは勃たないとか枯れているのではなく、死ぬほど我慢しているという事ぐらいベリルにはわかる。
なにせ元男なのである、ヤりたい盛りの年頃など文字通り二十年前に通過している。
そして我慢している原因はと言えば、間違いなくベリルの隠している秘密のせいだ。
少年はそれを聞かなかった。
ハッキリ言おう、あっちがその気であれば今頃は爆散しているはずなのだ、この二年間、もうどうにもなっていいと思ってしまったのは一回や二回では効かない――我ながら物凄くアレだと思うが、今が女でも元が性欲に弱い男なので勘弁して欲しい。そうでなければ古今東西、わかっちゃいるのに女で身を持ち崩した男共の数に説明が付かない。
ピタリと、レイバック夫人の口から流れ出ていた悪口が蛇口を捻ったかのように止まった。
ヴォルグ様の事はお嫌い?
う、嵌められた事に気付いてベリルは言葉に詰まり――力なく首を横に振った。愛しているか、と聞かれると微妙だが、嫌いかと言うと首を振るしかない。
ヴォルグにはヴォルグの思惑があるというのはわかっている――しかし勇者一族としてのやり口ならそれこそ口封じか、前代が辿った末路のように、秘伝の薬とやらでも使われてもっと酷い扱いになっていてもおかしくはないのだ。牙を柔らかくするよりも、根本からポッキリ折った方が手間がかからないし、リスクが少ない。
ヴォルグは勇者だ、しかしそれに徹そうとしながら徹しきれない矛盾があるという事を、ベリルは既に理解してしまっている。
そしてこれは死んでも口に出す訳には行かないのだが――
責任を取れと言いたい。
元男としての知識や考え方は残っているのだが、アイデンティティは男に抱かれる躊躇を除けば既にボロボロだった。
自分が女である事、気付けばその事実をすんなり受け入れてしまっている現状。この二年間がなければ、そこまで行くのに百年はかかるのではないだろうか――そんな気がする。攫われていなければ、今頃は魔界の社交界で並み居る男を千切っては投げている真っ最中だろう。
未だに男に抱かれるという抵抗感が無い訳ではない。そもそも嫁になるって事はアレだ、ヤるという事だ。人族は死ぬのだ、なんとかしようとしたら――って違う違う、何考えてるんだ自分!
堂々巡りの支離破滅であった。
うーうー、と両頬を挟んで悩んでいたベリルの唸り声が止まる。
あれ。
凄く大切な事が抜け落ちていた――今それに気付いたような。
その時だった、寝室の扉がノックされたのは――音だけでそれが誰なのか、今のベリルにはわかる。
判るようになってしまっていた。