お楽しみはこれからだ
まるで酔っぱらいが、全てを曝け出したような夜。
その翌日。
メイドに髪を梳かさせているベリルは、姿見の前で悩んでいた。
どういう顔をして会えばいいのか。
仕方がなかったのだ――昨晩のが気の迷いだか何だかはともかく、ヴォルグの真意をわかってしまった今、爆散四散させる訳には行かなくなったのである。
ではそうじゃなかったら――いやいや、違う!
ベリルは頭を抱えてうーうーと唸る。
だからフローラ、使用済みのおしぼりはとっとと仕舞って欲しい。あと、温かい視線をこちらに向けないで欲しい。
そして悩みながらも食堂に向かったベリルは、申し訳なさそうな執事の言葉を聞いた。
旦那様は、しばらく実家に戻るとの事です。
ミーミルの泉にも、ヴォルグはいなかった。
放課後まで、姿を現さない。
屋敷に帰っても、
その翌日も。
そのまた翌日も。
あの野郎。
※
「ヴォルグ様」
チェアの上でボケーとしていた少年は、すぐ傍から響いた声に顔を上げた。
「父上か」
若干皮肉を込めた口調になったが、白髪の混じった壮年は特に気にする事もなかった。
「はい、王宮からの迎えが参りました」
「わかった」
立ち上がり、首をグルグルと回す。
「そのしゃちほこばった態度、なんとかならない? 気持ち悪いよ」
「ご容赦を、私個人のささやかな拘りでございます」
頭を下げた実の父親に、ヴォルグは小さくため息をついた。
口に出して聞きたくなる――一生、このままでいるつもりなのかと。
自分は、年をとったら同じようになるのか。
「面倒だな、当初の目標は果たしたのに、お姫様や世間の機嫌は取らなきゃいけない」
「はい、存じております」
知っているぞ、と来た。
さて、屋敷に使用人として潜んでいる間者は何人いるのだろうか。
「心配はいらないよ、確かにあのお姫様は男にとっては至高の毒だが、こうやって距離を置いておけば惑わされる事もない」
「はい」
突如、湧いてきた衝動にヴォルグは二本の指を父親に突きつける。
微動だにしない中年男。
「今、死ねと言えばあなたは死ぬのかい?」
「それが必要とあれば」
取り澄ましているが、一瞬、その顔面が微かに動いたのを少年は見逃さない。
機械ではない、人間なのだ。
実の息子をも手に掛ける父親。そしてその父親に死ねと命じそうになる息子。
かつて一族の誰かが言ったらしい――ちっぽけな個人で大きな世界を救うには、歯車としての狂気が必要だと。
勇者とは狂気を否定する個人であり、狂気を孕んだ一族であり、狂気を維持するためのシステムだ。
千年、下手するとそれ以上にも渡って世界を維持してきた歯車だ――誰が悪い訳ではない。しかし補強に補強を重ねたそれは、気がつけば誰にもどうしようもなくなっていた。
この一族は狂っている――知ってさえ、誰もが踊らずにいられない。
例えば今ヴォルグが勇者を否定したとする、ありえない事に目の前の中年男も同意して、想像するだけで鳥肌が立ってしまうような感動的な和解をしたとする。
狂った歯車は、間に挟まった、少し大きいだけの小石などお構いなしに噛み砕く。
「冗談だよ、では行ってくる」
「ご武運を――勇者ヴォルグ様」
ヴォルグは振り返らない。
父親は下げた頭を上げない。
例えそれが生まれ持った宿命だとしても、それがどうしようもなかった事だとしても――毒入りの麦粥は吐き出されないし、集団墓地に入った名無しの死体は帰ってこない。
その覚悟もが勇者というシステムの一部だとしても――
歯車には、歯車の矜持があるのだ。
※
貴族というのは人脈とコネを重視する生き物である。
友達や家族が用意して祝う地球の現代人とは違い――貴族の誕生パーティは本末倒置にも主役がヒーコラ言ってご馳走と会場を用意するものである。ちゃんとした奴は招待状を自分で書き、ちゃんとしてない奴は哀れな従者に書かせて知り合いやその腰巾着を招く事になる。
そんな時に誰も来ない悲哀は、どこかの巨人の星を見るまでもない。そのために貴族は普段から山吹色のお菓子という名の金、良家のお嬢様という女、そして兵隊という名の暴力を持ち札にし、あちこちで名と恩を売り歩くのである。
ありがたい事に、勇者ヴォルグ=ブラウンにその必要はなかった。
何せ入学するだけで学園の志望人数が百倍になるような、ほっかほかの英雄である――王様からの褒美を軽く済ませたら、押して駄目なら引いてみなという感じで屋敷と年俸を下賜されてしまった。余程の浪費をしなければ三代渡って食う物には困らない。知り合うだけでも箔が付く上、女に至ってはその希望者が列を成すだけでユグドラシルを一周できる。
当然ながらその想い人である当代一の美姫・ベリル=レイバックの誕生日が無事に済む訳がない。ユグドラシルに勇者が帰還したその翌日から、目端の効く貴族から、その類のパーティへの打診は山を成した。
ありがたいごとに、おでんの王様はそこまで予測していた。
勇者とその伴侶の慶事は王宮が全て引き受けるという旨が出た途端、屋敷に届く手紙の津波の高さは半分以下となり、残りへの返事も「王宮に言え」という役所も真っ青のたらい回しで済む事となった。
ただし今回のパーティに際して、出席料代わりのご祝儀で国庫が一回り太ったというのだから、全く食えない国王である。
別に驚く事でもないのかもしれない――ベリルが自らの目で見た訳ではないが、かつてお父様とまったり誕生日を過ごしていた時でも各部族からのプレゼントはチョモランマの如く高く積み上がり、魔王城周辺で似たようなドンチャン騒ぎになっていたのである。
では当日の様子を見てみよう。
まずは王宮前。
橋の上はオープン前のコミケもかくやの混雑状態だった。自らの欲望と行動が直結した徹夜組のごとく、朝から押しかけた馬車の列はもはや交通妨害の域である――コネと持ち金が足りなかったが、面の皮だけでなんとかできないかと考えている貴族がいるのは、地球で大繁殖しているクレーマーと何ら変わりがない。
だが弁慶のように立ちはだかったベーオヴーフ国の衛兵は、コミケのボランティアほど温厚でもなければ、東洋系のサービスほどお客様は神様な訳でもない。王という虎の威を借りて、容赦なく無礼な貴族を千切っては投げ千切っては投げている。
あ、今慌てて馬車を回頭させようとしたのが堀に落ちた、日頃からクレーマーを道頓堀にぶん投げたいと思っているフライドチキン店の店員さんとかにはかなりスカッとする光景かもしれない。
そして夜、普段は割と早めの時間で真っ暗になるはずの下町は、太陽が落ちきっても昼間かと見まごうほど明るい。凱旋の場面を描いたという若き英雄と美姫の絵に注文が殺到してどっかのボンボンが嬉し悲鳴を上げ、丸描いてチョンという適当なデザインの姫饅頭とやらが飛ぶように売れている――設定上でも事実上でも亡国の王女なので、その本人が実は既にお姫様ではないと気付いている奴は一人もいない。
屋台の演目では勇者が聖剣で魔王をなます切りにしており、お姫様本人とくらべて体重が倍以上もありそうな役者が近所迷惑の美声を響かせていた。
意外にも王宮内は静かであり、あちらこちらで交わされている談話も落ち着いている。人数や質を絞っているというのもあるが、そこにはコネとワイロを最大限に活用して四桁にも及ぶ倍率を潜り抜けたので、やれ礼儀だのやれ格式だのとうるさい王宮で下手を打って追い出されてはたまらない、という涙無くしては語れない事情があったりする。
さざなみが水面の上を走るように、静寂が会場の中を伝播して行った。
客室の並ぶ二階から、会場へと降りる階段の踊り場をまず踏んだのはフリルと装飾でゴテゴテと飾り付けられた、しかしもっこりタイツに赤い靴は相変わらずである平成以降のガン◯ムだ。後ろには荒事に慣れた者特有のワイルドさを帯びた凛々しい騎士が続いている。流石に鎧こそ着ていないが、腰に帯びる王者の剣を見て、彼が教導騎士団長・シフォン=レア=レイバックだとわからない馬鹿はそもそもこのパーティに入る術を持たない。
先頭のガンダ……じゃなかった、おでんが口を開く。
「よく集まってくれた、皆の者、ベオヴーフ国王・オーデン=トーフ=ダコハペンである」
ほとんどの貴族達は既に空いていた片手を胸に置き、両手に料理とグラスを持った奴が慌てて置き場を探して、無様な音を立てていた。
「今宵は我ら人族が英雄、勇者ヴォルグ=ブラウンの婚約者であるベリル=レイバック姫が、この世に生を受けた喜ばしい日である、皆の者、大いに祝って欲しい」
おでんが背後に一つ目配せをすると、シフォンが背後にいた二人の人物を踊り場に誘導した。
ガチャンと、会場のどこかで誰かがグラスを落とした音。
十四歳? と誰かが呟いた。