世界より愛しいなんて
ユグドラシルに辿り着いて一ヶ月経った頃、学園が休みの日。
シフォンが訪ねてきた。
今度ばかりはベリルも忘れてはいなかった。何せこの王都で彼女を訪ねてくるのは下心満載の貴族達を除けば、そのケーキみたいな名前の騎士しか思い当たらないのである。
ケーキのデリバリーには、人間の言葉を話すでっけぇモンブランがサービスで付いていた。
まあ、何て綺麗なお嬢さんなんでしょう!
――いや、えーと。
あ、申し遅れましたわ、私はリクーム=ルセ=レイバック。シフォン様の妻ですよの、改めてお名前を伺ってもよろしいでしょうか?
――ドラゴ◯ボールかよ。
「……あの、ベリルです――」
=レイバック、と続けようとして、ベリルは自分が目の前のテカテカした貴婦人の養女になっているのだと気付いた。
まさか結婚していたとは。
まあ、そうだろう、話を聞いた所では、教導騎士団団長というのは結構なご身分らしい。
教導騎士団はその全名を汎人族国家教導騎士団という。
地球での教導部隊というのは敵をシュミレートする役割も兼ねているが、魔法を使えない人族のそれはどちらかというとエリート部隊の性格付けが非常に濃い。
軍隊で教官が忌み嫌われるのは当たり前。業界ではアグレッサー・オーダー、略してアゴ野郎という仇名で呼ばれているのを見てもわかる通り――各国から選りすぐりの人材を集めたその騎士団は、平和時は各国の騎士団を訓練して回り、魔族の戦いではまず先鋒として武力偵察を行う性格上、長らく魔族との戦いが起きていない今でもコネと鼻薬が効きにくい――貴族の腐敗化が進む中央国家同盟で、数少ない実戦派とは勇者の弁だ。
魔王の前から生還できた唯一の騎士であるという肩書きは、辺境出身のシフォン=レア=レイバックを団長の座に納まらせるには箔付け十分だと言える。しかし実力主義でコネの効かないエリート部隊でもあるので、他を圧するほどの腕前が無ければトップが務まらないのもまた事実だ。
とどのつまり、この魔王城で漏らして這々の体で逃げ帰ったケーキの騎士は人族では屈指の使い手という事になる――レイバック流と言えば、今人族の国家では最もホットな流派であるらしい。
そして聞いて驚け、そんな騎士団長の位は王族に当たる大公爵である。その腰に帯びるはエクスカリバー。つまり教導騎士団は建前上でも一国家に比肩し、その総締めと言えば比喩的ではなく一国一城の主。領土こそほとんどないが、ちゃーんと借り物としての城もあるらしい。地球で言うバチカンみたいだと言えばわかりやすいだろうか。
普通なら三十にも届かない、辺境国家の一貴族出身である若造が賜っていい位ではなかった。
セイブザクイーンに憧れた騎士は、常識破りな騎士の王となっていた。
驚いた、魔王様はこんなのを小指でチョンしてションベン小僧扱いしていたのである。
なお、その化物親父をぶっ倒して見せた勇者殿は今この場にいない。実家に帰っている――逃げやがったな、あの野郎。
当然ながら各国の貴族がこんな大物をほうっておくはずがない。しかしベリルのダンスパートナー選びにも匹敵するお見合いリストを、シフォンは片足で押しのけたらしい。そして祖国の幼馴染と壮大な結婚式を挙げた。その幼なじみが目の前のレイバック婦人だ。
どっかで聞いたような話だ。
あの天狗の少女は元気だろうか――気に病んでないといいが。
ていうか、目前の問題はレイバック婦人だ。
シフォンから聞きましたが魔王城に囚われててしかも天涯孤独で辛い目に遭ったのですねよく頑張りましたわねこれからは私を本当のお母様と思ってください。
私の口はマシンガン、枠外で怒涛のように喋りまくる二十代ちょっとと思われるレイバック夫人のエネルギッシュっぷりたるや、冗談ではなく太陽拳でも出そうな勢いだった。いやだからそこの養父殿、地位相当の貫禄が付いているのはわかったから、落ち着いてないで止めて欲しい。ほら、フローラも口が開いてるだろうが。
養母様がベリルの頬を両手で軽く挟む。
本当に可愛らしい娘さんですこときっと歴史に残るほど綺麗な花嫁になるわそうよセルビアの花嫁衣装は綺麗だからベリルにも似合うわよ早速ドレスを注文して取り寄せないと今から楽しみねねえあなた?
「うん、そうだな」
――いやその。
あらいやだわ私ばかり喋っているわねねえ勇者様は優しいかしらきっとそうよねでも困った事があったら遠慮なく言ってくださいねそう言えば今日は挨拶としてケーキとお茶っ葉を持って来たのよ屋敷はこの国にないからケーキは自家産じゃないけどベオヴーフ国でも特に美味しいと評判でお茶っ葉はセルビア自慢のオータムナルなのよ私の実家が
――。
ドッと疲れた。
ヒューマノイドタイフーンが過ぎた後、ベリルはおしぼりを額に載せてダウンしている。
「凄い人でしたね」
食器を片付けるメイドも苦笑いである。
「うん……」
しかし、
ベリルはおしぼりの下で口元を緩める――あんなのに吹き散らされていると、ウジウジ悩んでいた自分が馬鹿のようだ。
もしそれを狙っていたのなら、ベリルのお漏らし仲間であった青年は大したタマに成長したという事になる。
人は誰しも変われずにいられない。
シフォンも、ベリルも。
そして、
その夜、人界に入ってから、初めての雨が降り始めた。
※
ヴォルグが実家に帰ると、弟が死んでいた。
執務室に広がった血の海、倒れ伏した少年を前に、血糊のついたダガーを壮年の男が拭いている。
「父上」
ヴォルグの声に、男が振り返った。
「これはヴォルグ様、お見苦しい所をお見せしました」
その慇懃な言葉で悟る。
「確認が取れたのかい?」
「はい、ついさっき、各方面から届いた情報を総合して、魔王ベルセルク=フォン=タッカートは討滅されたと判断しました」
実の息子に対して、その父親である男は恭しく報告する。
「今この時より――ヴォルグ様、あなたがブラウン家の当主でございます」
「そうか」
淡々と返事をしたヴォルグは、物言わぬ死体に目を向けた。
「ルビデは何をした?」
「はい、魔王討伐を成したのはヴォルグ様ではなく、自分だと称していたので――よって、処分しました」
「そうか、こいつはディークに懐いていた、僕が奴を殺したのに我慢がならなかったんだろう」
「愚かな事です」
「ルビデの双龍紋は?」
「ここに」
そう言って前代のブラウン家当主は、灰色の双龍紋を差し出す。
受け取ったヴォルグはため息を一つ、踵を返す。
「興が削がれた――帰る。この屋敷は任せた。魔族のお姫様はデリケートでね、壊さずに手中で転がすには目を離せないのさ」
「かしこまりました」
血の海に沈む実の息子を背景に――勇者の父は、深々と頭を下げた。
勢いよく降る雨のおかげで、誰にも見られずに済んだ。
御者は帰らせてしまっている。
誰かを呼ぶ気にもなれず、所々の建物から漏れだす弱い光に照らされた大通りの中、ヴォルグは傘もささずに歩いていた。
勇者の一族にとって、夜は基本であり、雨は味方である――闇はこっそりと刃を突き立てるのに役立ち、雨は何もかも消し去ってくれる。それは相手が魔族であっても変わらない。
ふん、と鼻で嗤う。
光輝く鎧をまとい、聖剣を振るう伝説とは何とかけ離れた現実だろう。
ふと、夢想した。
魔界にその人ありと謳われるようになった、大商人リベールはいつものように魔王城に出向いた。
美しく成長した姫君が新しく作った魔道具について商談をまとめながら、ふと、お眼鏡にかなう魔族の男はいないのですかと聞く。
笑いながら首を振られる。
そうですか、では私はこれで。
飽くほど見慣れた魔王城の来客室を退出しようとして――いきなり背中にしがみつかれた。
その数年後、部屋に駆け込んだ商人の目の前には、自分と同じ髪色をした赤ん坊。
ご苦労様、そう言いながら妻の頭を優しく撫でるリベール。汗で額を湿らせ、幸せそうに笑う銀髪の姫君を
勇者ヴォルグは赤ん坊共々くびり殺した。
気がつけば、ヴォルグは窓の外に立っている。
つい最近国王から下賜された屋敷、その庭の中だ――身に染み付いた勇者の技術は、この期に及んでも誰にも気付かれずに、無意識下にこんな所まで彼を連れてきてしまった。
そう、無意識にだ――ドロッとした妄想に濁った足が向いたのは、皮肉にも人界に拉致してきたお姫様の元である。
美しく、賢かった――当代随一と言えるくらいに。男として惹かれないと言えば嘘になるが、それ以上でもそれ以下でもなかった。自らを律したヴォルグが彼女をここまで連れてきたのは、人族にとって決定的な破滅を堰き止めるための、勇者としての都合に過ぎない。
今も彼女は魔導レコーダーに記されたメモを片手に、ミーミルの泉で汲み出した情報から何かを見出そうとしているだろう。
全て計画通りだ。
そのはずだった。
四年だ。商人として、ロドスを通して、ずっと見てきた。
トドメにこの二ヶ月、傍に置いていた。
いくら見てても飽きなかった。
ヴォルグは壁を背に、ズルズルと地面に座り込む。雨と血の区別がつかない暗闇の中、両手で顔面を覆う――全身を濡らしているのが果たして雨か、血なのか、ヴォルグには見分けがつかなかった。常識的には雨だが、血臭が鼻につくのだ。
今すぐ窓をノックしたい。
窓を開いた彼女に向かって、
何をするつもりだ。
奪い、振り回して、壊しかけて、今も利用して。
失わせた相手の前で、自分が失わないようにあがくのか。
冒涜だった――それを考える事すら。
暗闇の中、ギリッと歯を噛み締める音が響く。
自己嫌悪と自分に浸っている時間は終わりだ。
勇者は人族の希望、人族の代弁者、人族の守護者。
勇者は壊れてはいけない。
勇者は立ち上がらなければいけない。
勇者がいなければ、人族はどうなる――魔法が使えない、ただでさえ崖っぷちな、哀れな世界の捨て子達。
かつて、世界を救いたいと思った。
今は、世界など滅びてしまえばいいとすら思う。
しかしその破滅への憧れすらも、また世界のためにあらねばならないのだ。
そうでなければ――
暗闇の中で閉じたヴォルグの瞼の裏。去来するのはソファに身を沈めたまま、麦粥を取り落とす兄の手。血の海に沈んだ弟。実の息子を手に掛けた父親。
そうでなければ、あまりにも浮かばれない。
窓の光が消えた後、勇者ヴォルグは再び立ち上がる。
自らの顔面を鷲掴みにする姿は、奇しくも騎士の礼に似ていた。
例えこの身が砕けようとも、この魂がすり切れようとも。
我が宿命は、忌々しき世界のために。
だから決して言えるものか、