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賢者の泉の底で

 ベリルは見るも無惨に凹んだ。


 その落ち込みぶりたるや、朝から彼女の世話をして朝食を給仕した使用人が、ひょっとして旦那様が勃たなかったのかしらというあさってに向かった心配をするぐらいであった。それに対する説明は滅んだという設定の祖国関連でショッキングな事が判明したという言い分。それを聞いて、慌てて精力の付く食材を仕入れに出かけようとしていたコックがようやく止まった。


 押せば倒れる、と言った感じの美姫に心配したり隙に付け入ろうとする生徒達が寄ってこようとした。しかし彼女の婚約者殿は何時ものように群衆を振りきって、生徒の間で早くも愛の巣と揶揄されつつあるミーミルの泉(図書館)に連れ込んだ。


 ヴォルグに座らせられた後もベリルは機能停止したまま、机の上に宝の地図が描いてあるかのようにうなだれている。

 脳みその回路がショートしていた。


 お前は馬鹿だと言われたとどころの騒ぎではなかった――自分なりにリスクを考え抜いて良かれと思ってやっていた事が、実は大量殺人も同然だと言われたショック。それは都合が良すぎる借り物の力で何も考えずに世界を荒らし回って、しっぺ返しも食らわずに酒池肉林の限りを尽きたあげく、付け足しのように自らのちっぽけな存在意義に悩むような脳天気主人公の比ではない。


 気がつけば、ベリルは魔王様(いつも)のように勇者の膝に乗り、子泣きじじいの如く全身にへばりついていた。

 赤ん坊をあやすようにこちらの背中をさすり、資料を読んでいた少年と目が合う――まるでつい先日のしたたかな威嚇行為が嘘のように、ふにゃっ、と弱々しく表情が崩れる。


 おでこに。

 唇でなくて良かった。

 ぐちゃぐちゃになっていたかもしれない。



 ありえん。

 布団の中で亀になりながら、ベリルは枕に顔を埋めていた。

 見ている方が恥ずかしい夕食の後ようやく我に返り、うーうーうー恥ずかしい恥ずかしい恥ずかしいとひとしきり悶え終わった後、落ち着いてしばらくしてまた熱病のようにぶり返し、再び沈み込むようなベッドで溺れる。


 嫌じゃなかったのである。


 元青年はゲイでもホモでもない、男にキスされるのも抱かれるのも真っ平御免だ――キスされて湧き上がった嫌悪感は未だ色褪せない。逆玉のためにノコノコとやってきた魔族の好青年を速攻で畳んでやった事については、幼馴染ネタで弄り回すような友人となった後でさえ胸がスカッとした。


 そう思っていた。


 勇者が憎かった。父親をボコボコにされ、魔王城から引き離され、力づくで隷従させられ、唇を奪われ、強引に嫁にされそうになっている。

 しかし――例えば人族が魔法以上の、魔族にとって致命的な何かを手にしかけているとしよう。その何かの行く末を握る人物が目の前にいるとしよう。果たして自分は、そいつにランスロットやソウルイーターをけしかけずにいられるだろうか。


 勇者()に甘えてしまったのは、理解と共に、嫌悪感が薄れつつあるという事実。

 おでこに口付けされた時、一瞬、どうにもされていいと思った。



 どっちだ。

 嫌悪感が向いている先は、果たして男か、それともそいつがヴォルグ=ブラウンという個人か。


 ここに来て認めざるを得ない現実が、逃げ場のないユグドラシル(敵地)にいて、ベリルのド真ん中で暴れ回っている。

 ベリル=メル=タッカートは就職が決まった矢先に彼女に振られたサラリーマンの卵ではない。筋肉隆々で真っ黒くろけの魔王でもない。それどころか、同じ男をドキッとさせる事すらある美男子でもない。


 女なのだ。


 ついてないのである。


 発達途中だというのに肉球がぷにっと載るのである。くびれている。そして何気に安産っぽい。

 世界中で最も狙われている唇で俺は男だと叫んでも、まずは股の間ではなく頭の方を疑われるだろう。性格の方も、元青年は彼女に振られた時ですらヤケ酒に逃げた程度で涙の一つも落とさなかった。

 が、魔界で男としての記憶を蘇らせて早八年、辛い事があると自分でも恥ずかしくなるくらいに女々しく泣いたのも一回や二回では効かない。

 可憐な美少女を前にしても、付け込む前にまずどうやってその想い人とくっつけるか考える。

 ショックを受けた時、そこにいた優しい男に、恥も外聞もなく甘えた。

 体が熱い。

 自分を触りたい、触りたくない。

 わからない(わからん)

 苦しくなった。


 一体()は、どっちな(んだ)

 いっそ、誰かが決めてくれれば楽なの()


    ※


 お姫様が壊れかかっていた。

 朝、馬車から降りる時に差し出したヴォルグの手を、ベリルは嫌悪感丸出しの表情ではたき落とした。図書館に入ったあと、ヴォルグがふと羊皮紙から顔を上げると、見方によっては誘っているような、すがるような目をベリルはしていた。どうしたと聞くと音を立てて席を立ち、本棚の陰に隠れてしばらく、心あらずと言った様子の手ぶらで戻ってきた。

 そしてまるでそれが当たり前のように、ヴォルグの膝の上に乗っかかった。


 触れれば崩れる砂の像どころではない――下手を打てば一切合切を巻き込んで爆発しそうだ。

 そして何より厄介な事に、ヴォルグにはその理由がわからなかった。

 原因は自分(勇者)、それは間違いない。


 例えばここに傷だらけの子供がいたとする。

 その原因が同じ親だとしても、その傷を付けたのが暴力を振るう親か、親同士のいさかいを持ち込んだ近所のいじめっ子か、はたまた心を病んだ子供自身かでその対処は全くの別物となる。


 例えばここに挙動不審のお嬢様がいたとする。

 生まれ育った温室の中から強引に引っ張り出されたが、ここ二ヶ月ものの間、気丈に涙の一つも見せず国王の前で猫を被って見せた。そしてミーミルの泉の中では、買い物に出かけたか女の如く、近くにいた誘拐犯(ヴォルグ)に荷物持ちとしてドッサリとした巻物を抱えさせるぐらいにはたくましい。


 何度か強引に唇を奪った。しかし彼女は女々しい反応など決して見せなかった。それどころかヴォルグが本気かどうかを見抜いた挙句、したたかに女としての魅力を駆使してこちらの本意を引き出そうとした。

 昨晩、その行動の不備を指摘した事でショックを受けた? それはそうだろう。しかしそれだけで壊れるタマではないと、4年もかけて魔族の姫君の信頼を勝ち取ったリベールという商人が力説している。



 原因はわからない――それでも棚上げにしてしまう解決策はいくつかある。

 例えば肉欲に溺れさせる、今の芯が抜けたような状態なら隷属の魔導式を抜きにしても、十中八九抵抗されずに依存してくるだろう。つまり両界でも有数の美しさを誇り、賢さでは及ぶ者がない姫君の、身と心が手に入る、魅力的な選択肢である。

 しかしそれは却下だ――しばらくは使い物にならなくなる上に、時間は限られている。何よりこっちが先に破滅の海に引きずり込まれそうだ。


 そしてもう一つある。

 目の前にニンジンを垂らして、注意を逸らすのだ。



 いきなり机の上に積まれた羊皮紙を、ベリルは淀んだ目で眺めた。


「手伝え」


 初めての命令式だった――何様だと思う反発心も弱々しく、隷属の魔導式に引っ張られてベリルはゆっくりとした動きで山に手を伸ばす。

 目を通した。それは王国の歴史を記載する、代々の史官が残した文献、その写本だった。

 冒頭に書かれた年代を見て、ベリルは目を丸くする。

 ルーブ史165年。

 調べ物の手始めたとして手に取った王国年表によると、ルーブ国は300年ほど続いた後、ベオヴーフ王国に滅ぼされている――初代ベオヴーフ国王、君主を殺すという、同じ内容を五行にも渡って文面がリピートしている。時の者に逆らった史官達が、命を以って見栄っ張りな君主の諦めを勝ち取った事の過程と証明だ。たったの五行で、四人の史官が命を散らしたのだ。


 違う、大切なのはそこじゃない。


 ベオヴーフ王国現国王であるおでん豆腐大根はんぺんが即位したのは王国史634年。

 元のメディアは羊皮紙以外だろう。ひょっとしたらエジプトみたいな植物性のパピルスかもしれない――頑固な史官の血汗が垣間見える、羊皮紙の写本が記すルーブ王国史は、ざっと千年近くも前。


 千年。宙に浮くリッチの黒々とした姿をベリルは思い出した。


 思わずヴォルグの方を見ると、傍に座った勇者は二人の真ん中に魔導レコーダーを置いていた――ベリルを撮ったのとは別の、何らかのメモが入ったカートリッジ。

 投影されたメモにも目を通す。内容は、歴史上に記された、勇者の活動記録。


 ヴォルグが手伝えと言った言葉の意味はわかる――ベリルの目の前に積まれた山は氷山の一角に過ぎない。それを漁るのは海の中で一本の針を探すまでとは言わないが、川の中で砂金を攫うが如く、膨大な作業だろう。

 昨日まで腕まくりしながらやろうとした事の――恐らくは最終目標。

 それがいきなり提示されている。


 ベリルは再起動した。

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