天蓋ベッドの攻防
ガチャリ。
カギをかける音は、布団の中にまで響いた。
ベリル二等兵よ、現状を報告せよ。
敵は婦女暴行の前科を三つも持った誘拐の累犯という、シャバで悠々と泳いでいるのがおかしい札付きの犯罪者。ただし外面は完璧であるので、周りのウケは至極良い。ていうかそもそもこの窮地には使用人も一枚噛んでいる。
端的に言うと、援軍は来ない。
敵はどう見ても鬼畜エロゲーの主人公だった、その獲物が自分だと思えば絶望感もひとしおだった。
対してこちらは武器も軍隊も取り上げられた丸腰の子羊が一匹――ステータスは遊び人も真っ青のお色気一点振り。装備はヒラヒラでスケスケのえっちぃベビードール一枚である、扇情的な意味では、男に対する防御力は葉っぱ一枚の方が上かもしれない。敵の視線を引き寄せるだけが能のネタ装備だた。なお、ゲームではこういう装備を付けたキャラを壁ではなく囮と言う。
しかも肌の色に合わせたチョイスは白だった。なまじっか着ている方が色白なだけに、色のついた綺麗なピンクだったりやや薄目の銀色だったりする部分が目立つようになっていた。悲劇である。
そうなると頼りになるのはスキルだけとなるが――よりにもよってどっかの経験豊富そうな老婆仕込みのエロいラインナップであった。一応ファイナルストライクで人としての尊厳をかなぐり捨てれば股からビームが出せるが、どっかの対怪獣兵器みたいに自己融解を起こしてしまう。しかも、このトップシークレットがバレると問答無用で牢獄シナリオ確定なのだ。
スタート地点であるアリアハンから出た勇者の前に大魔王ゾーマが出張ってきたRPGというよりは、完璧に自分が攻略対象のエロゲーであった――本人からしたら全くそのつもりがないのは自明の理であるのに、本人から見ても誘っているようにしか見えないのである。CG回収をしてくださいと言わんばかりの据え膳なのだ。ここまで徹底していると自分の事ながら食わぬは男の恥だとすら思えてしまう。
そしてベリルが食われると何が起こるのかは不確定ではあるが、人族である敵が文字通りに爆発してしまう確率は至極高い――少なくとも、ただの人族が魔王になるというありえない想像よりは。元青年はファミコンにあった、敵の尻に叩き込んだ空気入れで爆殺するゲームを思い出す。
ある意味男のロマンである腹上死だが、ここまでスプラッタな予想図ではどんな男でも二の足を踏んでしまうだろう。しかし敵地に孤立している今、退路も確保していないのにそれが起こってしまったら、残された方はどう考えても楽しい未来図が予想できない。具体的にはどっかの豚とかに拉致られそうだ――女だの男だのという以前の問題であった。
結論、こっち来んな。
こっち来んな。
だからこっち来んな。
ベッドの端に腰掛けられ、頭から被った布団の中で、ベリルはギュッと目を閉じて体を縮こませる。
しかし身じろぎしたのはコマンドミスだった。起きていると自白してるようなものだったからだ。
頭の方だけ布団が剥ぎ取られた。うつ伏せで亀になった魔族の美しい姫君は怯えた流し目を、そこに座っている少年に向ける。
ふー、とベリルの非協力的な姿勢に呆れたのか、頭上から重々しいため息。
――わざとやってるんじゃないだろうな、このお姫様は。
少なくとも、並の男でなくともルパンダイブしそうな光景に頂きますと手を合わせなかった、その生物として合格ラインギリギリから斜め下に不時着するような根性は評価しようではないか。
男ならば誰もが羨み、そして事情を知れば思わず瞑目してしまうようなシチュエーションで、その夜の会話は始まる。
※
婚約者の取り出した物を目にして、ベリルは合計三十年以上の人生の中、最高に慄いた。
元青年がアイディアを出し、大魔導師がプロトタイプの製作から量産品への改良を主導した魔導レコーダーは、地球で言うスマートフォンに似た大きさの、しかし表面にレンズのない金属プレートである。
ベリルは思った。裸や痴態を撮るのを男に許す女どもは、馬鹿のように心が広いか、余程のノータリンに違いない。
げ、今一枚撮られた。
魔導レコーダーを奪い取って消去しようと、上半身を起こしたベリルは手を伸ばした。ヴォルグはご丁寧にも小さくて薄いマジックチャージャーと記録メディアであるカートリッジを抜き取って、本体だけをベリルに放ってよこした。
ぐぬぬぬぬ。
少年を睨みつける傍ら、頭のどこかで冷静に考えている自分がいる。
「便利だよね、それ」
それは貪られたあの日、何故、という数多の意味を含んだ質問の続き。
そして棚上げにしていたその話を今日蒸し返す理由。
「手に取った時驚いたよ。それがあればミーミルの泉が、ちっぽけな物置一つに納まる、しかも物凄く安くて、誰でも少し頑張れば手に入る」
そう言いながらも少年は、夢物語を口にしているような口調だった。
しかし地球の現代文明を知る元青年にとって、それは夢ではなく、歴然とした事実である。
あの世界は更に極まっていた――その気になれば世界中の大半の知識が、世界の片隅にある一般人の小さなデバイスに短時間で集まる事をヴォルグに言えば、それは神話の領域だという答えが返ってくるだろう。
貧しい土地で栽培できる栄養価の高いじゃがいもが、ヨーロッパの人口爆発を支えたように、一つの発見や発明が世界を変えてしまう事もある。
そして今ベリルが両手で捧げ持っている代物が世界にもたらす影響はじゃがいもの比ではない――薄くするのに職人ギルドから大金を取られるような羊皮紙から、コストが安くてかさばらない植物性の紙を頭越しに飛び越え、世界を克明に記述して、それを誰にでも手に入るようにする、夢の装置。
「……それがどうしたのです?」
ベリルは疑問に思った。
地球には及ばないものの、バイアンとサス=カガタのチートコンビが作り出した魔導レコーダーは、性能・コストを両立させたハイバランスなポータブルデバイスだ。アイディアを出した方が思わず驚くほどに地球のその類の装置に近く――あるいは地球で作られたそれよりも優れた機能を所々持っている。少なくとも空中に投影した映像をタッチして内容を改変できるデバイスというのを、元青年は他に知らない。
そしてリベールという商人にマジックチャージャー共々それの流通を任せたのは、それが魔界の利益になると判断したからだ――リベール本人にもそれは魔界にその人ありと名を知らしめる事ができるほどの、千載一遇の大チャンスであったはずである。
転生の秘術ほど禁忌にまみれている訳でもない。
確かに急激に知識が広まる混乱はあるだろう。しかしその行き着く先は、誰もがより幸せの意味を知り、誰もが幸せを追求する方法を模索できる世界だ。
その程度の事を目の前にいる勇者が想像できないはずもない。
疑問の視線を受け――リベールと自称していたヴォルグという少年は、布団を胸元で抑えていたベリルの手を優しく取る。思わず身構えるが、その手に落とされた物を見てベリルは目を丸くした。
それは黒く染まった紋章。お互いの尻尾を食い合う一対のウロボロス。
双龍紋、勇者の一族に伝わる紋章――ベリルが作ったそれよりも遥かに歴史を積み重ねた、強力なマジックチャージャー。
うなじに刻まれた隷属の魔導式さえなければ、今をおいて他にない大チャンスであった。
ベリルの視線を受けたヴォルグは軽く頷く。よし、許可は得た。
お嬢様、まずはこの魔法から覚えましょう。
「……デフューズ」
それは魔界に満ちる闇素を払い、相対的に視界を良くする魔法。
ベリルにとって全ての始まりである、最初にあれこれと苦慮した魔法は、しかしここで何の効果も及ばさなかった。
「ここは人界だよ」
紋章を捧げ持ったベリルに手を合わせたヴォルグが、ベッドサイドのロウソクを吹き消す。
真っ暗になった空間の中、呟く。
「ライティング」
それは元青年にとって、馴染みのある法則だった。
光のない空間を光で満たす、人界用の魔法が、少年と少女の間で、二人を照らしている。
ベリルはハッとした。
何故魔王の一人娘、ベリル=メル=タッカートは勇者ヴォルグに誘拐されたのか。何故それが魔導レコーダーとマジックチャージャーの流通を図った直後なのか。
双龍紋を渡された時、まず浮かんだのは勇者一族の機密を守るためという考えだった。しかしそれをベリルは振り払う。
こいつはそのついでに女をコマそうと考える甘っちょろい奴か――答えはノーだ。それをやってコケた性犯罪者を考えてみるといい。
唯一つ確定している、勇者の流儀とは、口封じを伴う、徹底的な隠蔽工作なのだ。
人族の希望、勇者ヴォルグはまるで生徒が自分で答えを導き出すのを見守る教師のように、優しそうに彼女を見つめている。
いや、違う、その視線の優しさの意味にも、ベリルは気付いてしまった。
答えは、それ自体がベリルを責めるものだった――だからヴォルグはそれ以上彼女を責め立てないのだ。
言葉が出ない――魔族のお姫様に代わって、勇者はあえて優しく言葉を紡ぐ。
「この光は人界みたいなものだ」
部屋全体を照らすにはあまりにもささやかな光が消える。
ベリルは思い出す――富が集中した、人界の魔都。そこに辿り着くまで目にした、貧乏と無知をこじらせた糞尿だらけの町並み。
暗闇の中、言葉だけがベリルの耳を打った。
「確かに魔導レコーダーとマジックチャージャーは偉大な発明だ――世界を変える劇薬だと言ってもいい。でもそれには一つの問題がある」
そう、今使ったライティングのように、魔導レコーダーは人族でも扱える――マジックチャージャーさえあれば。
本当の問題は、魔導レコーダーではなかった。
工房ではその他の物も一杯作っていた。電話すらない世界で作られた、遠隔通信ができる水晶も、技術の飛躍具合では魔導レコーダーと似たようなものである。それらの共通点はただ一つ――魔力源が必要だった。
「魔力は、誰が補充するんだい?」
それは自分の体質に苦慮した末に、それを解決した報酬として、ほとんど無尽蔵とも言っていい魔力源を持つベリルからは、死角と言ってもいい問題だった。
魔力を持ち、魔法を使えるのが魔族だ。魔法を使えない人族は魔力を持っていない。
では仮に魔道具が人界にまで普及したとして、それに必要な魔力はどこから来るのか、魔族だ――そして魔力をくださいと手のひらを差し出したとして、ホイホイもらえるほど世の中甘くはない。そこに発生するのは、魔族が住む、ただでさえ豊かな魔界への富の流動だ。
貧しい人界から。
魔導器がもたらす全体への恩恵というのは確かにあるだろう、長期的には利益になるのは間違いない――しかし物事には順序というものがある。世界が急速に変化する過程で割を食う人間は、無知をこじらせた貧民達だ。消費税が数パーセント上がって景気が悪くなるどころの騒ぎではない。
その結果を、ベリルは想像できる。
人が大量に死ぬ、奪い合う、ひょっとしなくても戦争が起きる。
ベリルの作った、世界を幸せにする薬は、この文明が発達していない異世界を狂わせてしまうものだったのだ。今しがたヴォルグが言った、文字通りの劇薬だった。
ベリルは二人で双龍紋を挟んだ手を、ぎゅっと握る。
わかったのだ。勇者一族に伝わるマジックチャージャー――それが少なくとも何百年、いや、下手すると何千年もの間秘匿されていた、その理由。
勇者とは人族の希望である、その真の意味。
人族の利益を代弁する者。
ここで気が付かなかった魔族のお姫様を責めるのは酷であろう――いくら地球で一般人として生活していた記憶があるとしても、ベリルは魔界に生まれ、魔界で育った生粋の魔族だ。貧しい人界の事情まで考えろという方に無理がある。
しかしあの日、ベリルは自分で口にしたのだ。
人は誰しも幸せになる権利がある。
ベリルのやっていた事は、ベリルが当然だと思っていた事を否定する物だったのだ。
頭が真っ白になった。
その朝、若いメイドは何時ものようにベリルを起こしに部屋に入った。天蓋の下で、勇者にしがみ付くように寝るお姫様の姿に顔を綻ばせる。
ベリルは、キスの一つもされなかった。