オープン・セサミ
恋人同士の睦事と言うには、あまりに殺伐とした至近距離の見つめ合い。
沈黙に耐え切れず、口を開いたのは少年が先だった。視線を微かに下に移し、微笑みながら。
「どうしたんだい?」
違う。ベリルは目をそらさなかった。
「……さっきのは、どういう意味ですか?」
「意味って?」
勇者は、この期に及んでもしらばっくれやがった。
そうかそうか、婦女暴行に不法家宅侵入、器物損害とついでに傷害罪で訴えてやろうかこの野郎。
舐めるな、と元青年は思った。
ある意味では、この世界にベリル=メル=タッカートほど男の事を熟知している女は存在しないのである。
白魚のような両手で、勇者の顔をベリルは優しく挟み込む――今ならわかる。女にとっての男は卵と同じだ。力を入れすぎると中身はべちゃりとこちらにかかる。人は間違いから学ぶ動物である。
リベールという商人が勇者としてベリル前に現れた日。一度目のキスは女として大切にするというポーズだった――恐らくは、追っ手の勢いを削ぐためだろう。
――そして地雷を踏んだ二度目のキスを思い出す。
「さっきのは、全く本気ではありませんでした」
そう、違うのだ。
かつてこの身で思い知らされた勇者の本気とは程遠い。
先ほどヴォルグがベリルにやりやがったのは、一度目と同じポーズだ――その証拠に女生徒がこの場から消えると、すぐさまベリルを開放していた。
それがどういう意味を持つのだろうか――図書館で二人を目撃した女生徒。真っ赤になって走り去る。そしてこの婚約者はその接近がわかっていた、
ベリルは考える――それがどういう結果になるのか。
何せ渦中の二人だ、噂はすぐさま広まる。これで余程の物好き以外は、図書館にいる二人に寄り付かないだろう。自分で言ってて嫌になるが、どんな濡れ場に遭遇するかわかったものではないからだ。
馬鹿とミーハーどもに追い回されたこの一週間をベリルは思い出す――彼女にとっては博士号を取った教授に九九を覚えさせようとするような、くだらない授業の数々だった。そしてそれはヴォルグにとっても同じ事だろう。
そうだ、これが犯行動機だ――ミーミルの泉に浸かる二人の周囲から人払いをしようとしているのだ。
ベリルが入学させられた理由は、ここだった。
「この図書館に、何があるのです?」
婚約者殿が軽く仰け反って逃げようとしたのでベリルはその優しく頬を撫でてやり、
カウンターを食らった。
「ところで……どうして本気じゃないってわかったのかな」
撫でる手が止まり、真っ赤になる。
うっ。
言えない。
本気のは糸を引くなんて。
「勉強の邪魔をするなら、そっちに関してご教授願うけど?」
地雷を踏んだ後の舌と舌を伝う、宙に光っていた糸を思い出してしまった。ベリルは両手で口を隠しながらそそくさと少年の膝から――しかし机にぶつからないように気をつけて――降りる。
くっそー。
攻め方は間違ってなかった。今のは経験値の問題だった――あまり積みたくもないが。
本棚の陰に逃げ出すベリルは、ヴォルグの読んでいた羊皮紙をチラリと盗み見る。
勇者が広げているのは、何かの年鑑のように見えた。
そうだ。ベリルは思い出した。
5歳の誕生日を迎えた後、魔法の使えない厄介な体質が判明して、自分は何をした――あのままボケーとしていたら、今頃はリビングアーマーズもバイアンもこの世に存在せず、黒い毛皮でモフモフもできず、ジョルジュの健気な幼馴染を蔑ろにしたまま、ただの魔王の一人娘として、嫌々ながらも花嫁になる用意でもしているのかもしれない。
魔王城を出てからというもの、受け身受け身受け身の連続だった。だから流されるままに王国に入り、何もできない内に今、勇者の嫁にされそうになっている。
この一ヶ月と少しの間、少々らしくなかったかもしれない。
とりあえずは現状の分析だ。謎が開封したパズルのようにてんこ盛りではある。それでも一つづつ並べて行けば嵌まり合うパーツがあるだろう。
そして折角の人界なのだ――拉致されてなかったとしても、いずれは好奇心に駆られて、家出でもしていたかもしれない。人界は貧しく、弱い。そして弱い犬ほどよく吠える。魔界よりも比べ物にならないほど詳しい、人界で記録された歴史を、洗いざらい調べ上げよう。
こういうのは勢いが肝心だ――クソ暑いので服はノースリーブではあるが、ベリルは腕まくりするように腕をこすり上げ、整然と並ぶ巻物の山に挑みかかった。
ベリルが本棚の間に消えるのを見送った後。
蛇に睨まれた蛙の上半身がゆっくりと机の上に倒れこみ、フーと深いため息を一つ吐いた。
――洒落にならん。
そして地平線に沈む日の光が赤く霞み、終業の鐘が鳴った。
※
夜、おでんから使用人から家具までセットで下賜された屋敷。
夕食の味も会話も記憶に残らない――脳みそをある方向にフル回転させたベリルは上の空でメイドに体を洗わせていた。
そもそもの話として、今いる屋敷の状況がおかしかった。
屋敷に文句がある訳ではない。厳選された使用人は教育の行き届いた一流揃いだし、新調したばかりだという建物と家具はどこを見てもピッカピカだった。むしろ麗人の塔に住んでた時より豪勢なくらいだ。これでトイレがおまるじゃなかったらパーフェクトなくらいだ。
しかしヴォルグはいくら魔王を討滅した勇者とは言え、まだ十六歳である。いくら異世界的には大人扱いだと言え、それでも半分子供と言ってもいい年なのだ。
そしてベリルはブラウン家の長とでも言うべき人物の顔を見た事がない――ヴォルグが数日置きに実家へと帰ったりしているのでいる事はいるらしい。そんなブラウン家当主と、仮にも婚約者という身分である自分が顔合わせもしていないというのは、幾らなんでも異常である。
勇者の一族とは何だ――それは血族の名なのか、それとも技術を伝える組織なのか。
そもそも勇者とは何か。
一体何の因縁があってこうもしつこく魔王を張り倒すのか、というかどうやってあの魔力の権化である化物親父を張り倒したのか。
無数の疑問が絡み合いながら、ベリルの頭の中でラインダンスを踊っていた。
「若奥様、終わりました」
メイドの声で我に返る――何時の間にかお風呂の後のクリームも着替えも髪へのタオルぱふぱふも終わった事に、ベリルは気付く。
「ありがとう」
そう言えば。一週間世話してもらっているというのに、彼女の名前を覚える余裕すらなかった事に気付く――名も知らぬ年若きメイドはベリルを頭から爪先まで眺め、自分の作品に満足した職人のように頷いた。
「頑張ってください」
握り拳でファイッとガッツポーズして退出する。
え?
直後、メイドと入れ違いで部屋のドアがノックされるに至って、ベリルはようやく、自分の置かれている状況に気付く事となる。
スケスケの乳尻太ももだった。