お漏らしの逆襲
元成人男子です、漏らしました。
死にてえ。
これが絶望の味か、布団に篭りながらベリルは久々に感じた羞恥を噛み締めていた。
それにしても怖かった、あれは反則である。
うっすらと伸ばされた暗闇に沈む武器庫。室内のあちこちから聞こえる物音や怪しい声。
一際派手な音に反応して見上げると、無機物である剣の上に今にも飛び出てきそうなギョロつく巨大な目玉――それが食い入るように自分の瞳を覗き込んでいたのだ。
サブカルチャーに溢れた世界生まれで想像した事はあるのだが、無機物の上に血走った生き物のパーツが載っかった実物はCG以上に来るものがあった。
リアリティが違う、ディティールが違う、何より滴るような悪意が違う。それは想像でもCGでも再現不可能な、数十年の記憶の中で全く未体験の代物だった。
警戒しながら暗がりから這い出てみたら、いきなりトラックが目の前を横切ったようなものだった。
これに比べれば、蜘蛛女だの動く髑髏だのはぬるま湯だった、少なくとも彼らは自分の味方である。
今自分の生きている場所が、地球とは全く違う世界と実感してしまった。
そして漏らした。
誰か殺してください。
とまあ、本人は実に深刻そうであるが、少なくとも周囲の反応は慣れたものである。
何せ中身はともかく、外見は正真正銘の5歳児である――ベッドの上でおねしょされたのと何が違うの、てなものだ。むしろ漏らしたのがシーツの上でない分、後始末が楽なのであった。
何事もなかったかのように世話役は夕御飯の支度に入り、スケルトンナイトは門番に戻っている。新しい剣を地面に突き立てている立ち姿は心なしか満足そうですらあった。
彼らにとっては雁字搦めに封印された魔剣のおいたなど、正真正銘の子供騙しという事なのかもしれない。
しかしながら本当の事件は数日後、当事者達がそれを忘れ始めた頃にやってきたのである。
※
その時、ベリルはシラから魔術の授業を受けていた。
魔族に目の赤い者が多いのには理由がある、闇目が効くのだ。
とは言ってもいわゆる元地球人が知っている夜目というのと意味が若干違う。
魔界にはびこる闇は魔族と彼らに準ずる生き物にとって、人族にとっての光に等しい。その闇素とでも言うべきものが充満した空間を見通す視力、それが魔界においての闇目である。なお光がない状態は厳密には影と呼ばれ、その中を見通すのは影目と定義されている。
とまあ、実を言うと闇素の概念が広まっていない人族の間では、地球と同じように夜目=影目=闇目で通っている、なのでここは彼らの定義に準じ、十把一絡げに闇目と呼ぼう。
ベリルの瞳は部屋の絵に描かれた人物、即ち母親と同じように紫である。赤くない、つまりは闇目が効かない。魔界の夜道を歩いていて変なおじさんがマントを広げても気付かずスルーできる。
なので基本的な照明の魔術を使えるようになるために、闇に関しての概念を学ぶと共に魔力の流れを自覚する練習をしていた。
が、どうも上手く行かない、言葉の授業に反して魔力というもの感覚がわからず、悪戦苦闘していた。
教える方も心得たもので、むしろようやく歳相応の子供さを見つけたと内心ほっとしていたりする。
声が響いたのはその時だった。
『飲ませろ……!!!』
「え・・・何?」
耳を手で抑えてベリルは部屋の中を見渡した。
シラの方は険しい目をして主を宥めたあと、カサカサカサと素早く移動して窓を両手で開けた。窓の外には、遠くにある森まで一望できる程度の薄まった闇が広まっている。
「誰かある!」
アルケニーの呼びかけにすぐさまシャドウサーバントが近寄り、二、三語言葉を交わした後に飛び去って行った。
不安げな表情をした主にシラは安心させるように微笑む。
「大丈夫ですよ、例え勇者が襲撃してきたとしてもお嬢様には指一本触れさせません」
いるんだ、勇者。
元男とてサブカルチャーの世界、地球の出身である、そして同時にこうも考えていた。
(それは本当に俺の知っている関係での、勇者と魔王なのか?)
あまりにもステレオタイプの用語と関係性が出てきた所に、返って疑いが生じてしまったのは人情であろう――ましてや元地球人としての自我が目覚めたこの状態である、漏らしたし。
またちょっと死にたくなったのでベリルは考えるのを止めた。それでも赤くプルプル震えているのはご愛嬌
程なくしてシャドウサーバントが戻り、シラが溜息をついて状況を簡潔に話す。
「武器庫で騒ぎが起きているようです」
※
ウジャウジャであった。
パパンに会ったり初めて武器庫に行った時には全くの無人だと思っていた魔王城であったが――いるわいるわ、一体どこに隠れていたのかと思うほどの下っ端達。つまりスケルトンやらゾンビやらリビングアーマーやらが通勤ラッシュのようにぎゅうぎゅうとすし詰めになり、黒かったり白かったりする魔族達が遠巻きに騒いでいる。
目を丸くしたベリルの前で、控えめに見ても馬鹿の集団にしか見えない下っ端達が武器庫の扉を開けようと四苦八苦していた。
この数である、押し開くだけならなんとかなりそうなものだが、生憎と扉は外側に開くのだ。
一つしかない取手を全員で引っ張るような知恵も働かない。お嬢様お付きのスケルトンナイトが軽々と開けたはずの扉は、まるでコンクリートを流し込んだかのようにビクともしない。地面に転がる敗残者を踏みつけて殺到する様はまるで主婦の群がるバーゲンを彷彿とさせた。
「一体何の騒ぎですか」
呆れたような顔でシラが手近にいた顔なじみらしき魔族を掴まえて話を聞く、襟を立てた夜会服の青白い美形だ。
「おや、シラ殿――あなたがここにいるとなると、そちらのお嬢様が魔王様のご息女ですかな?」
開いた口から尖った牙が覗いていた、ステレオタイプのヴァンパイア。
「ええ」
――さあ、ベリル様。
促そうとしたアルケニーは開きかけた口を閉じる、その前にベリルが彼女の前に出たからである。
「初めまして、ベリル=メル=タッカートです、」
シラに厳しく繰り返させられたお陰か、スカートをちょこんと持ち上げ、ちょっと虚しくなった。
なお目上の者に自分から挨拶するのは地球でも魔界でも同じだが、それが初めてでちゃんと出来たのは元社会人として生きてきた癖のお陰である。
案の定、おお、と感心した声を上げたヴァンパイアが髑髏の騎士がかつてやったのより数段洗礼された一礼をする
「ご丁寧に痛み入ります、私はベラ=アーヴィング、魔王様に支える塵芥の一人、お会い出来て光栄でございます、レディ」
手を取られて手の甲にキスをされた。
ぎゃー。
内心で悲鳴をあげてしまう、全身に鳥肌が立つが、辛うじて顔に出さずに済んだ。
しかし表面上は平然としているベリルにヴァンパイアを感銘を覚えたようだ。よく考えるとこれほどの美形にキザったらしく挨拶されて悪く思う女性はいない――5歳の幼女に平然と流されたのが意外だったのだろう。
「流石はシラ殿ですな、恐れ入りました」
「当然です」
一連の流れを見守っていた老婆はすまし顔だがどこか得意げだ、どこかの世界のサブカルチャーで言うドヤ顔になっていないのは流石である。
その時だった、再びあの声が脳裏に響いたのは。
『飲ませろおおおお……!!!』
慌ただしく扉を開こうと群がっていた使い魔達が止まる。
次の瞬間。
そいつらが一斉に後方を振り向いた。
ベリルはギョッとした。
単なる馬鹿だと思っていた集団――感情の無い空洞、腐り落ちた目玉、中身のないバイザーの奥、それらの全てが自分の方を向いているように感じたのだ。
そう思ったのは彼女だけではなかったらしく、シラと髑髏の騎士が前に出る。
直後、
バッカーン!
扉が爆発したかと思った。
いきなり全開きになったそれにふっとばされたモンスター達がまるで木の葉のように宙を舞い、そいつらは後ろにいたベリル達にも降りかかった。
「きゃっ……!?」
「お嬢様!」
ベリルを庇うシラの声、二人の前に出てセイブザクイーンを構えた髑髏の騎士にゴツゴツと音を立てて骨やら鎧やら腐肉その他諸々がぶつかる音。
見覚えのある魔力鎖の断片が横切ったのが見えた途端――
『おおおおおおおおおおお!』
これまでにない大音量の雄叫びと共に、ソウルイーターが武器庫を飛び出してきた――ベリル達の方に。
しかし剣を構え直すスケルトンナイトに表情があったら訝しげに歪められたに違いない。
突き出すのは柄の方が先だった、ギョロつく目玉はひたすら一点を見つめている――恐らく、スケルトンの背後にいる主に。
魔剣を止めようとする髑髏の全身が撓み――!
ぺしっ。
軽い音を立てて、猛る魔剣が地面にはたき落とされた。
アッサリと。
えーと。
どこか拍子ぬけた顔を取り繕い、恐らくは張り巡らせた糸で魔剣を止めようとした老婆が何かを誤魔化すようにメガネをクイッと押し上げる。
「どうやら力尽きたようですね」
すっげえ気まずい。
そもそも魔剣というのは持ち主があって初めて力を発揮でき、単独で動けるようになってないのだ。
ズリッ、ズリッ、ズリッ。
しかし魔剣はなおも地面を這いずるように動いていた。
まるで瀕死の人間がなおも両手で地面を掻きむしる様を想像させるような執念。
一体何がこいつをそこまでさせるのだ。
衆目の中、やがて魔剣が目的地で止まる。
魔王のご息女、そのスカートの間に。
柄の上の目玉が何か渇望するように上を見上げていた。
ところで皆様は覚えているだろうか。
武器庫の天井にぶら下がったまま泣き寝入りをしたソウルイーター、その下の地面にあるもの。
それはかつてホカホカと湯気を、そしてある層のマニアが体液を撒き散らして喜ぶような匂いを放っていた。
それは今や微かな匂いを地面に残し、そのほとんどが上に散じていた――真上にぶら下がっていた魔剣とかに。
あれは実に甘美であった。
魔剣は最後に残った力を振り絞って、囁いた
『飲ませ……ろ』
いたたまれない空気。
フタを開けみれば、渇望するような眼差しはどう見ても帰宅する女子高生に声をかけるエロ親父。
ばふっ。
そんな音が聞こえるような感じでベリルの顔が一瞬で真っ赤に染まり、じわりと目尻に涙が溜まる、それが恐怖のせいではないのは明らかであった。
うっわー……。
誰も彼もが、かける言葉を持たなかった。
以上が、魔王城を揺るがした忌々しい事件(当事者談)の一部終始である。
封印されていた百年ものの間、半ば伝説と化していた魔剣ソウルイーターは禍々しくも異色のエピソードを一つ増やし、その唯一無二の悪名を不動とした。
幸か不幸か、当事者の名は魔王自らが敷いた緘口令により、後世に伝わる事はなかった。
いっそ殺せ。