学び舎の中の泉
「おはようございます、若奥様」
そんな声と共にカーテンが開かれ、人界の朝日が部屋の中に差しこんできた。
部屋の中で寝ていたベリルは眉を数回しかめながら瞼を開けた。霞がかったアメジストのような瞳でボンヤリと視界の中に映った天蓋を見つめる。
「おはよ……」
「お召ものの用意ができております」
「……うん、ありがと」
常闇の世界に住んでいた元青年にとって、朝起きれば陽の光が拝めるというのは懐かしくも新鮮であった。眠気まなこをこすりながら、メイドはネグリジェ姿のベリルを化粧台の前に座らせ、その腰まで届くプラチナブロンドを梳かし始める。
一つ言っておかねばならない事があった。
「その若奥様っての、止めてください」
まだ年若いメイドは悪戯っぽい笑みを浮かべて、申し訳ありませんと答えた。
堪えてねえ。
そもそもベリルは奥様ですらない。
処女である、生娘なのだ。婚前交渉ゴートゥヘル。
メイドを伴って向かった食堂、予想していた人物はそこにいなかった。
「……旦那様は?」
ベリルは自然とそう言ってしまってから、その言葉が意味する忌々しさに眉をひそめる――いかん、使用人達に毒されている。
「はい、昨日は実家の方にお泊りしたと伺っております、今朝はそちらからとの事で」
長い食卓の傍に控えていた執事が恭しく少女へと頭を下げる。
彼はベリルの態度を、愛する婚約者の顔を見れないが故のそれと解釈したらしい――ムスッとした少女が席に着いた後、慰めるように余計な一言を付け加えた。
「学園に行けばお会いできますよ」
いや、別に会いたくはないのだが。
そもそもとして、今更学校に行って何を学べというのか、という話だった。
我らが主人公ベリル=メル=タッカートは、魔界の頂点であった魔王タッカートの一人娘である。彼女は生まれ持った美貌を磨くかたわら、貴人に長年仕えていたアルケニーの教育を受けている。
幼少より子供特有の覚えの良さと大人の思考ルーチンという、地味ながらもインチキ臭いスペックを備えた彼女は独学で学問を納めた。周囲の予想をぶっちぎって魔界初の魔導具を創り出しながら大魔導師の薫陶を受け、果てには千年もの間、無敵を誇っていた勇者を撃退してしまった。
地球で例えれば古来より続く、由緒正しい貴族の容姿端麗なお嬢様で礼儀作法は勿論完璧、スキップホップステップジャンプでハーバードを第二性徴前にアッサリ踏み越え、乳尻太ももが発達し始める頃には学問名を聞くだけで頭が痛くなるような領域で博士号を納め、学会でその道五十年の権威者を完全論破して満場拍手。んでもっておしゃれとスタイルにも気と金を使ったゴージャスバリバリな、垢抜けてて夜の方もお上手でエロい超絶美少女という、書いてる方が今時設定の適当なエロゲでもここまでやらねえよとツッコミを入れそうな、宇宙人もどきなのである。
その最初の魔導具とやらは勇者の出現で怪しくなってきているのだが――本人にとってはともかく、第三者から見てありえないスペックの持ち主だという事は間違いない。
いや、ベリルほど極端ではなくとも、それは別に彼女だけに限った事ではない。
人界魔界の区別なく、王族や貴族は幼い頃から家庭教師を雇って知識を教えこむのが当たり前である。そして学校機能で最も重要な社会化――つまり他人と付き合う能力を養うという意味でも、貴族には社交界という舞台がキチンと用意されている。
よって主に読み書きを教えて、掛け算割り算ができれば天才、という程度の学校に、ベリルが通う必要などどこにもないように見える。
となるとベリルが放り込まれた王立ベオヴーフ学園に何の意味があるかというと――いや、それは実際に中身を見てもらった方が早いだろう。
うんこまみれの街道での歩行か、揺れまくって三半規管の機能を鍛える馬車か――究極の選択は、ベリルの前に提示されなかった。この国で最も有名なカップルの片割れである本人が歩いて登校するつもりでも、周りが許してくれないのは自明の理なのだ。
扉を開けた御者に礼を告げてベリルが馬車を告げると、御者は誇らしい表情で行ってらっしゃいませ若奥様と彼女を見送った。もはや訂正する気力も湧いてこない。
こっちを見た少年の一人から溜息が出ている。おや、今朝のお姫様はお一人なのだろうか、この機会を利用してお近付きに、と考えてるのが見え見えである。有象無象に声をかけられる前に、早足で学園のやたらと立派な門をくぐろうとすると、そこには見覚えのある先客がいた。
「おはよう、ベリル」
爛熟した文化の貴族にありがちなフリルなど一切付けていない、スマートな服装の少年が門に寄りかかっていた。その者こそ今王都ユグドラシルで最もホットな人物であり、魔王の一人娘であるベリルを人界に拉致した勇者ヴォルグである。
前代が性犯罪者なら今代は誘拐犯、一般人が抱く勇者像とは180度違った現実。勇者が他人の家に上がり込んで箪笥を漁るというゲーム的解釈は、あながち間違っていないかもしれないと元青年は思った。
「おはようございます、だ……ヴォルグ様」
あぶね、ここで間違ったらあっちの柱に頭をぶつけて自殺する所だった。
ビンタの一発をかました後に無視してやりたいのは山々だが、衆目があるしそもそも隷属の魔導式があるので逆らえない。
肘を差し出してきたので両手を絡ませてエスコートさせると、遠巻きに見ていた女子生徒達からキャーという黄色い悲鳴が上がった。姦しい声を抑えようともしていないのは彼女達が体面を重んじる有力貴族ではなく、木っ端貴族や金持ち商家の出身だからであろう。
人前では恋する乙女、心はブリザード。気分は正に仮面夫だった。
そして退屈な一限目の授業を終えたベリルが周りを見渡すと、ヴォルグはいつの間にかいなくなっていた。
※
勇者とその恋人が入学するというニュースが広まってからわずか一週間で、王立ベオヴーフ学園への入学希望者は、それまでの百倍以上に膨れ上がったらしい。
殺到した者の中には、家庭教師から教えを受け、社交界というエスカレーターを登っている大貴族のせがれがいた。出世を狙うために軍事学校に通おうとしていた少年もいた。普段は花よ蝶よと大事に育てられていた深窓の令嬢もいた。ユグドラシルに出現した途端、人界でも屈指の美姫という座に収まってしまった亡国の王女を、時の人である勇者から奪い取ろうとする身の程知らずな大馬鹿野郎までいたりする。
まあ、最後のは論外だとしても――接触を図る者、妾になりたい者、取り入ろうとする者。目標は違えども、その目当てが勇者ヴォルグとその婚約者である事である事は共通している。
それまでは貧乏貴族の子供や、富商のせがれ生徒のほとんどを占めるベオヴーフ学園は、たちまち王宮にも匹敵するような伏魔殿と化しつつあったのである。
当然ながらその原因である当の二人が無事で済むはずがない。
入学して一週間、ベリルは早くも授業に飽きつつあった。
ベリルのおつむは所詮凡人ではあるが、教養や知識は上述の通りのハイスペックぶりで外から見れば十分に神童レベルである。
ベオヴーフ学園で教えられているのは基本的な読み書きに足し算引き算ができれば上等な算数に、当局の修正バリバリな歴史である――王立という名を冠している割に、学問としての場としてみみっちい事この上ない。水が合わない、とは正にこの事だ。
ガランゴロンと授業終了の鐘が鳴るごとに、隙あらば言い寄る馬鹿に猫を被りながら応対し、勇者とのロマンスを聞きたがるキャピキャピしたミーハーどもに辟易したベリルは学園をさまよった挙句、やがては学園の一角で、ほとんど使われていない施設を発見する事となる。
そこは、もはや貧乏貴族と平民の社交場と化した王立ベオヴーフ学園に残された、最後の矜持であった。
学園の創始者である三代目ベオヴーフ王が、同校に込める願いを託したというその巨大な図書館の名は、立派な石碑の上にミーミルの泉と刻まれている。
学問に大した興味も持てない大半の生徒達が寄り付きもしないそこは、しかし逢瀬の場として利用される事でなけなしのプライドをへし折られつつあった。
ここだ、とベリルは直感した。安息の地は、ここにある。
内装は地球のそれとも遜色がないほどに立派だった。図書館のお約束として涼しい事も、人界の厳暑でバテつつあるベリルにはありがたい。
入り込んだ少女を、老眼のレンズを片手に持った司書がチラリと見る。
「おや、お嬢さん、何か用かね?」
「あ、はい、ミーミルの泉を、一口おこぼれにあずかりたいのですが」
アドリブの言い回しを司書は大層気に入ったらしく、いかつい顔をほころばせた。
「では出入りする際にはここにサインを」
禿げ上がった司書は机に広げてある羊皮紙を指さす――出入りの記録用だけだというのになかなか豪勢な事だ。
羽ペンでサインをする。ベリル=レイバック。
あれ。
既に書かれていた名前に、ベリルは目を瞬かせた。
羊皮紙を見て司書は眉を上げる。
「ほう、お嬢さんが噂の異国のお姫様かね。となるとヴォルグ様を探しに来たのかな?」
え。
「愛しの勇者様は多分あちらの奥の方にいらっしゃるよ。多少の事は大目に見るが、スカートをたくし上げる時にうるさくしたら即座につまみ出すので程々にな」
ジョークではあるが、前例のある事でもあるのだろう――多分その心配もない。ベリルははい、と苦笑して奥の方に消えて行く。
今学園で起こっている乱痴気騒ぎの元凶を飲み込み。
ミーミルの泉はただ、静かに佇んでいた。