人界の魔都
カッカッと、石路を叩いていた蹄が止まった。
たまたま、城壁の上であくびをしていた巡回兵の一人が、城門の方を眺めた時だ。
「おい、あれ……」
気付いた守備兵が指差すのを、近くにいた同僚が何事かと近づいてくる。
一匹の黒馬が外城の城門の前にいる。
それ自体は別に珍しくともなんともない。しかしまるでモーゼの海のように、近くで城門に並んでいた群衆が馬の行き先を譲るとなると、嫌でもその中心が目立つ。
守備兵の中で目のいい奴が呟いた。
――双龍紋だ。
それは人界では、至上の意味を持つ。
お互いの尻尾を食い合うウロボロスの紋章――それが描かれた鞍を載せた黒馬が関所に近付く。守備隊長は跨っていた少年に声をかけた。
「止まれたし、当方はユグドラシル外城城門守備隊長、ヘイムダル=ダ=サイレンである、貴公の身分を告げられよ」
黄金の鎧を着た少年は芝居がかった守備隊長の言葉を聞き、鷹揚に頷いた。
「ご苦労、私はヴォルグ=ブラウン。魔王を撃滅し、ただいまユグドラシルへと戻った」
ビシッと顔の前に拳を持って敬礼するヘイムダル。握りこぶしが微かに震えていた。
「はっ、ご苦労であります、失礼ながらご同行の方の身分を伺ってもよろしいでしょうか?」
ヴォルグの前に横座りで支えられている少女は、恥ずかしがるように俯いている。
「魔王城に囚われていた、異国の姫である、身分は私が保証しよう」
よー言うわ。
おお、と二人を目にした感嘆の声が、さざなみのように広がる。
美しい姫だった。
余計な装飾は邪魔と言わんばかりに、シンプルな純白のドレスを着た銀色の少女である。見る者の目を惹きつけざるを得ない美貌もさる事ながら、腰まで届く、流れ落ちるような髪は今にも陽の光に溶け込みそうなほど儚い。
まるで今にも天へと戻っていきそうな乙女を、少年がその懐に押しとどめているような一枚絵。周囲で見守っているざわめきが段々と大きくなる。
誰かが叫んだ。
ビ・ブラ・ヴォルグ!
近くにいる数人が真似をする。
ビ・ブラ・ヴォルグ!
ビ・ブラ・ヴォルグ!
訳のわかっていない奴も、群集が遠巻きに囲んでいる、一際高い黒馬を見ればただならぬ事が起きている事はわかる。周囲の空気に飲まれて旅人が、商人が、奴隷が、丁稚が、農民が、貴族が、口々に叫んで、やがてそれはリズムを揃えた震動と化した。
ビ・ブラ・ヴォルグ!
ビ・ブラ・ヴォルグ!
ビ・ブラ・ヴォルグ!
熱情に駆られた群衆の叫びが城門を轟かし、何事かと関所の中で屁こいて寝ていた監察貴族が何事かと顔を出してきた時点で、ヘイムダルは城兵に向けて叫んだ。
「開門!開門!勇者ヴォルグの凱旋である!勇者ヴォルグが魔王をぶちのめして帰ってきたイヤッハアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア!」
拳を頭上に突き出してジャンプしてはしゃぐ守備隊長。城兵が槍を放り出して同僚とダンスを踊っている。でっぷりと太った監察貴族は実は彼を蛇蝎の如く嫌っている従者と叫びながら抱き合っていた。ワアアアアアアアアアアというこれまで最大級の歓声が、内城の城門にまで響き渡る。
それは、英雄譚では語られる事のない凱旋の章。
歴史に残る一人の英雄が、今ここに誕生したのである。
その噂は城門での騒ぎを聞きつけた民衆によって、たちまちユグドラシルの隅から隅へと知られ渡った。時間にして一時間弱。噂の人物を一目でも見ようと、城中の者が大通りに殺到する。
すげぇお祭り騒ぎであった。昼寝をしていた店主が慌てて屋台を大通りに押すと、ハイエナの如く群がった民衆がたちまちソーセージを奪い取って行く。酒屋などはバッタの大群にたかれた後の如く、見るも無残の有様だった――酒屋の店主は金貨の詰まった袋を振り回しながら建物の上で嬉しそうに叫んでいる。袋が忍耐限界を超えれば悲劇なのだが果たして気付いているのだろうか。
慌てて家の中に飛び込んだのは、イマイチ売れていないが、大通りにある富商の家に生まれたお陰で生活に困ってないボンボンの絵描きであった――たった今、瞼の裏に焼き付けた光景が強烈に残っている内に、木炭を指で掴み、人生最大最速の勢いでキャンバスの上に渾身のラフ画を描き始める、これを逃せばうだつのあがらない三流画家で終わるという彼の直感は正しい。
騒ぎの中心は群衆が織り成すモーゼの海を進んで行った。黒馬に乗った一対の男女で、二人を目にした者は息を飲み、何が起こっているかを一目で理解した。
見るも見事な黄金の鎧に身を包んだ、凛々しい若武者だった。懐では花も恥じらうような美姫を支えている。飾り鞍に描かれるは双龍紋。
勇者の名は所々でモーゼの海が叫んでいた。
ビ・ブラ・ヴォルグ!
ビ・ブラ・ヴォルグ!
ビ・ブラ・ヴォルグ!
勇者ヴォルグが上半身を屈め、名も知らぬ姫の耳元に囁きかける。美しき少女は顎を逸らして少年を見上げ、胸を抱くように二の腕をさすりながら不安げに呟く。目を細めて勇者が何かを小声で言うと、姫君はさも愛おしそうにその胸に頭を預けて目を閉じるのだ。衆目もはばからずにイチャつく二人を見て、まるで我がごとのように喜ぶ群衆。
馬に乗っていた二人だけが、その場の雰囲気に取り残されていた。
※
ぐぬぬ。
「どう思う? この国を」
耳元で囁いたリベール改めヴォルグの質問に、ベリルはブルリと身を震わせる。二の腕に鳥肌が立つので正直止めて欲しい。しかし周囲がうるさいのでこうでもしないと会話ができないのは確かだ。
「貧しいですね」
「へえ」
まるで睦言の如く、耳元で囁き返したベリルの言葉に、ヴォルグは目を細める。
熱狂している群衆には悪いが――それがベリルの正直な感想だった。
二ヶ月以上にも及ぶ旅は後半になって様変わりする事となった――ある日まるで天井が開けたかのように、元青年には懐かしい、実に十年近くも拝んでいなかった日の光が目を焼いたのだ。そこから野営の日々から解放されたお嬢様は、ようやく久々のベッドで疲れた体を休ませる事ができた。
この世界に生を享けて以来初めて見る人界の太陽は、むしろ常闇の魔界よりも馴染めるものだった。
しかし一つの問題があった。
クソ暑かった。
巨大なエアコンを全開にしているような魔界のヌルい天候に浸かりきった箱入りお姫様の体は、長旅の疲労もあってついに辺境にある町でダウンしてしまったのである。
人族ながらも魔法を使えるという勇者がアイスコフィンを度々作り出していなければ、人界での旅は更に過酷で長遠なものになっていただろう。
国と国の間にある関所も何度か通った――身分の確かなヴォルグはともかく、なーんの保証もないベリルの麗しい外見に守備兵はヘイムダルとやらと同じようにコロリと騙されてくれた。度々地味な事を指摘されていた元青年としては、ちょっと嫌になるような現実である。
そして話に聞く中央国家同盟、その盟主の座を務めるベオヴーフ国の国境近くを跨いだ辺りでベリルは天国を実感した。その実、単に灼熱地獄であったのが普通になった程度ではあるが――巨大な氷を仕込んだ特注の馬車は長旅で疲れた二人を休ませるように、ゆっくりと、整備された道を可能な限り揺らさないように進んで行く。
そして首都ユグドラシルを間近に控えた所で、二人はそれっぽい服装に着替えた。そして城内に入り込んで群集の中を進んでいる。
こうして見るとユグドラシルでの生活水準は悪くないように見える――往来は活発で、人々の表情も悪くない、商店では若い働き手が所狭しと動き回り、屋台では色とりどりの果物が山を成していた。魔王城の城下町と比べても遜色がないくらいだ。文字通りの華やかで賑やかな大都市だ。
しかしベリルはこれまでの旅路で見てきた光景を思い出す。
魔界での旅は野営の連続で、町を拝む機会はそれほど無かった。目にする事はあった――アレが来て貪られて被害者面されたという理不尽な目に遭ったあの数日での生活である。そして魔界でのそれは、今ベリルが見ている光景と比べてもそこまで遜色はなかったと思う。
が、人界に入ってそれは一変した。
地球の中世ヨーロッパを調べた事のある御仁には当たり前の知識ではあるが、ここで人界の無惨な事実をお伝えしよう。
うんこやしょんべんが、町の所々で垂れ流しになっていた。
鼻が休まるのは宿と街路、もしくは土砂降りがあった時だけ。馬で大通りを通り過ぎる時に、そこらへんの窓から放り出されたナニのしぶきを浴びかけたのは一回や二回では効かない。トイレがくみ取り式のどぷんだったというのは、地球と魔界の座式便所に慣れていた身にはなかなか辛いものがあった。
人界の辺境は、貧しかった。
まず建物の高さが違った。昔の日本の裏長屋よろしく、一階建ての貧相な平屋が大通りにまで溢れている。見れてもせいぜいが石造の二階建てで、そのほとんどが現地で一番金持ちの持ち家だという事をヴォルグが言っていた。
流石にこういう町は中央国家同盟の勢力範囲内に入っていくごとに減っては行ったが――ユグドラシルのすぐ近くになってさえ、大通りにまで乞食やうんこが溢れ出す光景が無くなるという事はなかった。
魔界と人界、両者の差をまざまざと見せつけられた形だ。下水道の有無は魔法という便利技術の差だとして、この貧富の差は一体何なのだろうか。
魔法? それはある。
が、全てではないだろう――魔法とは程度や得意の差こそあるものの、ベリルのような例外を除いて魔族すべてが扱えるものなのだ。その効果は全体的な富の平均値を引き上げる事に偏っている。対して魔界と比べてこの極端にも見える人界の、専門用語で言えば経済不平等はどういう事なのだろうか。
ベリルの思索に、ヴォルグが水を差した。
「確かにね、この国は貧しい」
ベリルの答えに満足した様子だった――その意味が眼前の華やかな首都ではなく、全体的な国の状況をさしているのは明白だ。
「この国だけじゃない、人界の国は、総じてこんな調子だよ」
飄々とした語り口に、隠しようのない苦味が混じる。
ふと、ベリルはこの少年が、何年にも渡って人界と魔界を渡り歩いた、商人としての顔を持っている事を思い出す。
今二人がいるのは富を吸い上げる巨大な魔都だった――富める者は増々太り、貧しい者は無知と金欠をこじらせる、そうやって成り立っている。
それにしても暑い。
ベリルは目を閉じて、ヴォルグの胸に頭を預けて目を閉じる。
「少し休みます」
「ああ、城に着いたら起こすよ」
ユグドラシルに着くまでの一ヶ月s。地雷を踏んだあの日以来、ヴォルグはベリルに強引に迫るという事はしてこなかった――下手に刺激しなければ手を出すつもりはないのだろう、それくらいはわかるようになっている。
いまだに抵抗感が無いと言えば嘘になる。どちらかというと、マウント取って心ゆくまでフライパンでぶん殴りたい。
しかし現実の問題として、今の二人の関係は、ユグドラシルの群衆が見ている勇者とお姫様の構図そのままだ。
お父様も魔王城も魔法も取り上げられた今、ベリル=メル=タッカートはヴォルグ=ブラウンがいなければその内野垂れ死にしかねない、無力な小娘に過ぎない。
母親のように。
だからベリルは悔し紛れの皮肉を言うのがせいぜいだった。
「その鎧、趣味が悪いと思います」
少なくとも魔界や元青年の美意識では"無い"と言い切れる具合のキンキラ具合である――ベリルの言葉に、少年は、仕方なさそうに笑う。
凱旋した勇者ヴォルグ=ブラウンと、無力なお姫様として囚われた魔王の一人娘、ベリル=メル=タッカートは、群衆に囲まれながら、たったの二人っきりで人界の魔都を進んで行った。
お願い、死なないでベリル! あんたが今ここで倒れたら、父親やフィレスとの約束はどうなっちゃうの?
ライフはまだ残ってる。これを耐えれば、魔界に帰れるんだから!
次回、「伏魔殿の虐殺」。謁見スタンバイ!