魔王が滅びる日
13歳の誕生日だった。
『ベリル様、大変でございます!』
その朝、いきなり水晶玉の真上に映し出された魔族の映像と大声に、メイドに髪を梳かさせていたベリルは思わず仰け反ってしまった。
それは水晶玉を起動させていたシラも同じだったようで、お世辞にも美男とは言えないオークに向けて、辟易しながら返事をする。
「警備長、落ち着きなさい、一体何があったのです?」
それでも取り乱したようなオークはベリルにとって致命的な一言を吐き出した。
『魔王様が……!』
「プレア、お嬢様を止めなさい!」
はっとしたシラが叫んだ。
父親のただならぬ事態に、ベリルはマシンと化した。急激に立ち上がった主にプレアは慌てて手を伸ばすが、間一髪でその両腕をすり抜けてベリルは扉に駆け寄って叫ぶ。
「ランスロット!」
オープン・セサミ。
その瞬間、数百年もの間、麗人の塔にいる住人をあるいは閉じ込め、あるいは守った重厚な木製の扉が横に裂けた――もはや木の板と化した扉の隙間を穿つガントレットは、ベリルに当たらないように扉を外側にふっ飛ばし、そこから滅びの鎧が姿を現す。リビングアーマーを止めようとシラは慌てて扉の横に張り巡らせていた糸を操る。
それが唐突に断ち切られた。
もう片方のリビングアーマーが、見覚えのある大剣を構えていた――剣の柄には、あるべき目玉がない。代わりに緊急事態で開いた兜の中にあったそれが、ギョロリと室内をひと睨みする。
ここ一年で成人男性にも勝る巨体に成長したフェンリルがその視線を受けた途端、やはり俊敏な動きで、音の一つを立てる事なく扉の外に消えて行く。
銀色の尾を引いて、滅びの鎧に抱えられた少女が二体と一匹と共に扉の外に消えた。
あっという間の出来事だった、本気を出した主がもはや自分の手に負えないと嫌でも思い知らされた老婆は、事態について行けずにボケーとしているメイドを叱咤する。
「プレア、警備長から詳しい話を聞きなさい!」
「――は、はい! シラ様は!?」
プレアの叫び声に返事はなかった。ボリュームのありそうな蜘蛛の下半身に似合わない素早さで動いたアルケニーは、既に窓の外から飛び降りておりていたのだ。勢いの余韻でカーテンが大きく室外に巻き上げられている。
あ、あのー。
しばらくして、水晶玉の上で呆気に取られたオークの映像が、誰に向かって出したのかわからないような声を出した。
心の中で、薄々とこういう日が来るとは予感していた。
資料庫で魔族の歴史を読みあさっても――存命中にその地位を無事に終えた魔王は数えるほどしかいなかったのだ。
絶望の谷に消えて行った前代の例を挙げるまでもなく、魔王は全て何らかの要因で命を散らしている――二人を例外として。
初代のワイルドデーモン、二代目のマジックマスタ以降、円満に退位を成せた魔王はいない。
その要因とは下克上、もしくはどこからともなく現れる勇者のどちらかだ。
後者が来た。
しかし早すぎた。
ベリルはまだそれに対しての準備ができなかったのだ。物理的にも、心構え的にも。
全力で走るリビングアーマーの肩の上で乱れがちになる髪を髪で抑え、目を回しそうになりながら玉座に辿り着いたベリルは見た。
見るも無惨に無傷でない箇所を探す方が難しい玉座の間、その向こう。
まるで英雄譚の一幕のように。
「お父様!」
縮んだ体の上にブカブカの服とマントを被り、ボロボロになった玉座の上に座っているその男を、ベリルは一瞬でも見間違えなかった。
胸元に剣を突きつけられた魔王ベルセルク=フォン=タッカートは、娘の姿を見て目を見開く。
「ベリル、来るな!」
その言葉を聞いて、ゆっくりと、剣の持ち主が振り返る。
引き締まった長身の上に紋様の入った鎧を着込んだその人物は、まだ少年とも言っていい若さだった。
まさか、と思った。
やっぱり、と心の中のどこかで、予感が的中した事を告げていた。
「リベール……」
ランスロットの腕の中から降りたベリルの口から漏れたつぶやきは、自分でもそう思ってしまうほど弱々しい。
「やあ、お姫様、お待ちしていましたよ」
普段の慇懃な態度などどこ吹く風と言った様子の少年の声が、玉座の間に通る。
現場に到着したシラは、即座に指示して人払いをした。
料理長やその部下の少年、大厨房のおかみ、その他の魔族や人族達は不安そうにその場を離れるが、それでも遠巻きに廊下の中をぎゅうぎゅう詰めにした。
唯一その場に立ち止まった天狗族の少女が、泣きそうな顔をシラに向けている。
「シラ様……」
彼女に頷いて見せるが、シラとてマシな策がある訳でもない。
見ろ、目の前の光景を。
長大な両手の爪は見る陰もない――どう見ても魔力を失った魔王に、くしゃみ一つでその命を奪いかねない長剣を握る少年。それが見知った顔なのはこの場において何の慰めにすらなりはしない。二体の規格外なリビングアーマーとフェンリルを従えた魔王の娘は、身動き一つ取れずに立ち尽くしている。
文字通りのチェックメイト。
甘かった。シラはそれだけで人を殺せそうな眼光で、少年を睨みつける。
しかしその一方で。こんな少年が魔王をどうやって、と思う自分もいた。
ベリルを狙う者は多い、だからこそ彼女に近付く者達には調査が行われる。平民出身だと思われる、年若き商人のその身辺調査はシラ自らが念入りに行った――どうやら人界からやってきたという所まではわかっている。そしてたかが魔力を持たない人族の少年なのだ、万全の体勢で身辺を固めたお姫様をどうこうできるはずもない。
事実、彼はベリルに手を出してこなかった。
しかし正体を現した少年は、あろうことか魔王その者を無力化して平然と立っている――魔王の娘そのものに手を出さない者が、頭越しにその父親を倒せるとは誰が思うのだろうか。そういう意味で魔王はノーマークだったのである。
何故少年が魔王を倒せるのか、わからない。その彼が何故ベリルに近づいた、わからない。謎だらけのこの状況が指し示すのはただ一つ――この場で、全てを理解できているのがこの年若き勇者その者だという事だ。
魔王とそのしもべ達は、完全に上を行かれていたのだ。
そしてそれは、前の勇者を死地に追いやった事がある、魔王の一人娘とて例外ではなかったのである。
「そうだね、お姫様、とりあえず怖いお供に命令してもらえるかな?」
「……二人とも、リベールに攻撃しないで、ソウルイーター、ロキを抑えなさい」
剣を抜きかけていたランスロットがセイブザクイーンを納めた。何時の間にか魂喰らいをいずこへとしまっていたソウルイーターが、今にも少年に跳びかかりそうなフェンリルの首根っこをガシッと抑える。
だが、例えロキが襲いかかっても、リベールをどうにかできるとは思えなかった。
「お父様、大丈夫?」
「――ああ」
父親の絞り出したような声は案外しっかりとしている。
漆黒に染まった筋骨隆々な体は見る影もないが、それでも一般的な魔族ぐらいの体格は保っていた。ワインのグラスを摘んでいた両手の爪は今や干からびて、玉座の傍に転がっていた。
ベリルは実感した――恐らくは、これが母親と交じり合う前のベルセルク=フォン=タッカートなのだ。
考えろ考えろ考えろ。本来ならリベールは父をそのまま屠った後、誰にも知られずに魔王城を去れたはずだ。
その彼がわかりやすく、人質としてベルセルクを玉座の上に縫い止めている理由。
「……リベール、何がお望みですか?」
おっ、と感心したような少年の声。
「うん、相変わらず察しがいいね」
ちょいちょい、リベールはベリルに向けて手招きする。視線が油断なく背後に注がれているのを見れば、その意図は明白だった。
「二人とも、動かないで」
使い魔は、主の命令を拡大解釈しない。
いくら魔王の一閃に耐えうると言っても、いくらその身に無数の技を染み込ませていても――そこまでが限界と言わんばかりに、二体のリビングアーマーは微かに軋みの音を立てながらその動きを止める。
まるでバージンロードだな、ベリルは赤い絨毯の上を歩きながら皮肉げに思う。
ただし、元青年は待っている新郎ではない。ベリルは付き添いのない新婦の方だ。そして神父役は、剣を突きつけられた実の父親である。
そう考えるとリベールがとんでもない外道に見えてくるから不思議だ。
結果だけを見ると、こいつが人界の希望とも呼ばれている勇者だという事に間違いはないだろう。
ベリルがその傍に立った後、彼女の首筋を抱き寄せるように片手を回し、少年は口の中で何かを唱える。
大魔導師の薫陶を長年受けている元青年は、その正体を知っていた。
ただの人族が魔王を屠れた理由。その一端。
「――ま、」
魔法!? という言葉は半ばで途切れた。
ビクンッ、と何かに打たれたようにベリルの体が跳ね、首筋に当てた手のひらから赤い魔導式が広がった。それが白い素肌に定着したのを、目ではなく感覚で理解する。
――デュアルスペリング!?
魔導式を展開させるためだけの魔である法、工房のホワイトボードの一隅に書かれたそのアイディアの優先順序は低かった。いまだリッチが研究すら着手していないはずのそれを、少年が実践で使って見せた事に驚く間もなく、
次の瞬間、本当の衝撃が元青年を、魔王の一人娘から叩き出した。
それは、英雄譚の一幕のようであった。
少女の柔らかい唇に、少年のそれが覆いかぶさっている。
それを認識するまで、永遠だと思えるタイムラグがベリルを襲った。反射的に体を離そうとして指一本動かせない自分にベリルは気付く。
刻み込まれた魔導式のせいか、はたまた他の要因か――放心したように脱力する魔王の一人娘を片手で抱き止め、勇者は呟く。
「捕まえた、お姫様」
恋の囁きにも似たその言葉は、目の前の少女にしか聞こえない。
あれから4年。
万感の思いだった。