ある狼の一日
小さい影が黒いバターになっていた。
体重の軽い傾きだけで体の向きを変え、目にも止まらない勢いで木々の間をすり抜ける。
ザザー、黒いのが音を立てて、四本のブレーキ痕を地面に残した。そのまま首だけで背後を伺う。
すぐ背後に、金属で型どったぶっとい足があった。
全身の黒い毛並みが逆立った。
脱兎の如く駆け出した黒い子狼は森の中をまた黒いバターで以下略。
二本の短いブレーキ痕を地面に残した、ぶっとい足があった。
黒いバター以下略、息が上がった。
ぶっとい足が。
小さいフェンリルは、ついに地面にへたり込んでしまった。
ちっこい体がガントレットに掬い上げられた。もうどうにでもしてくれと言わんばかりに、金属の手のひらの上で四本足が垂れ下がる。
はふーー。だらーんとした体から、一際大きな息がひとつ漏れたその時――ピクリと、とんがった耳があらぬ方向を向く。
ガントレットの主――獣の鎧も気付いていたらしい、歩き始めた。
普通に歩いているように見えるのに、子狼の耳には足音はおろか、金属がぶつかり合う音一つすら聞こえない。
そして空き地の中で、火を起こしている不埒な人間達がいた。
厳密には人族と魔族の区別があるらしいという事を、子狼はつい昨日知った。二本の足で歩ける猿みたいなのは、子狼にとって例外なく人間扱いだったのだ――ただしご主人は除く、あれは甘くて優しい別の何かである。
しー、やたらと人間臭い動きで鎧が人差し指を兜の前に持って行く。思わず冒険者達に吠えてしまった最初の頃からもう一週間だ、また同じ間違いをおかすと思われるのは心外だった。
フェンリルは賢いのである。
人族達は四人いた。
そっと、音を立てないように子狼の体を地面に置いた直後、全身鎧が無造作に踏み出した一歩目。そこから魔法のように両の腕が人族達の首から生えるまで、その過程を意識に登らせた者はゼロだった。
力んだ風でもなく、地面に首を押し付けられた人間の手足から力が抜ける――これで二人。
残った一人は突如一同の間に現れた全身鎧に反応できずボケーとしていた。切り株から立ち上がろうとした所に顔面を掴まれて綺麗に体が半回転――
哀切の篭った悲鳴が森の中に響った。
ん?
獣の鎧は悲鳴が目の前の男から出たものではないと気付く――投げただけでは、こんな声は出ない。
なんだ今のは。
声もなく気絶した冒険者をほっぽいて、全身鎧は振り返る。
四人目は、前のめりに座り込んで、股間を押さえつけながらビクンビクンと痙攣していた。
おおおおおおおおおおという悲鳴をBGMに悠然と座った黒い子狼は、へっ、大した事のない奴だったぜ、と言わんばかりにペッペッペッ、何度か地面に唾をはく。
忍びなくなって気絶させた男の丈夫そうなズボン、そこには歯の並びがハッキリとわかるほど、いくつもの穴が開いている。
見事な半殺しであった。
いい運動のついでに不届き物を退治した後。
工房の中、土で固められた地面の上。
子狼は尻尾を振りながら、自分の体ほどもある生肉の塊に挑みかかっていた。
狼の魔物であるフェンリルは母乳から離れた直後に肉を齧り始め、呆れるくらいに早く大きく成長する。十分な食事にほどよい運動が成長に一番いいのは、人間だろうが魔物だろうが変わらない。
肉を片付けて満足そうなゲップを一つした後は定位置に寝そべる。
工房のドアが開いた直後も小さいフェンリルは寝そべっていた。ぶんぶんと千切れんばかりに振られるフサフサ尻尾。
ドアを開けた人物はクスリと笑みを一つ。よしよし、と子狼の頭を撫でる。
頭を上げると、白くて銀色で優しいのがそこにいた。ご主人である。
泥だらけの体で飛びかかる、という真似は初日にやって、主共々こっぴどく叱られて懲りているので自重する。それでも尚うずうずと小さな体を揺らすフェンリルの前に、細長い棒状の物が置かれる。
骨のように練り固めた獣の皮であるおやつを喜んで何度かガジガジしていたが、見ている内にまるで剥製のように動かなくなる。
だらしなく四肢を伸ばしたうつ伏せは野生の片鱗も見えない。まるでヤクでもやっているかのような有様だった。
尻尾だけが箒のように地面を往復していた。
上からご主人――ベリル=メル=タッカートの声が聞こえる。
「凄いですね、ここまで効くとは」
『ほっほっ、ベリル様の魔力の賜物ですかのぅ』
この工房で主以外に喋れるのと言えば、ふよふよ浮いた黒いのと相場が決まっている。
ため息が聞こえた。
「悪影響がないといいのですけど」
『大丈夫でしょう、数代前の魔王さまも魔物を複数飼って魔力を与えておりましたが、特に何事もなかったので』
そーだそーだ、これを取り上げるなんてとんでもない。
言っている事はよくわからないが、今口でふがふがしているものがご主人が作った物である。尻尾を振るべき相手がわかれば子狼には十分だった。
そしてしばらくは頭上で、彼には理解できない会話が繰り広げられる。
わざわざ人をやるのは効率が悪いから通信に使うのがレコーダーの原理を糸電話の魔力効率であーだこーだ。
なるほど、わからん。
そして黒いのは何時ものように机の前でぶつぶつと自分の世界に篭り始めた。立ち上がったご主人は用事は済んだと言わんばかりに子狼に声をかける。
「おいで、ロキ」
ロキと呼ばれた子狼の耳がピーンと真上に尖った。
経験上、皮で作った骨みたいなのは上に刻まれた紋様が消えるとイマイチな味になる。そうなる前にまるで飴玉のように素早く噛み砕いて飲み込んだ後、ロキは素早く立ち上がった。
バリバリとした豪快な音が工房に満ちるが、最初は目玉を丸くしていたご主人も今では何事もなかったかのように工房を出て行き、ロキもその後をついていく。
庭園に置かれたテーブルの上にはティーセットが置かれていた、その前に座った少女に向けて、ご主人が声をかけた。
「お待たせしました、フィレス」
「いえ、こんにちは、ベリル様」
子狼はとりあえずフィレスの足元に歩き寄った。
ロキ、と彼女が自分の名前を呼ぶので、尻尾を振って見せる。サービスとして普段は出さないクーンというただの子犬っぽい鳴き声も忘れない。
案の定、フィレスは胸を打たれた表情で彼を抱き上げようとするが、子狼が一歩下がると情けなさそうな顔をする。
悪く思わないで欲しい、この少女は自分を拾い、ご主人に引きあわせてくれた恩人である、どろんこの体で彼女に迷惑をかける訳にはいかない。
そこらへんのただの獣と違って、フェンリルは賢くて義理難いのだ。
「服を汚さないように気を遣っているので……いるのよ、一度私にそれをやってしまったから」
テーブルの籠からケーキを取り出している主はちゃんとこちらの意図がわかっているようだ。
そうなの、と呟いたフィレスはいい子ね、と優しくロキの両耳を撫でた。
尻尾が振れているのはサービスだ、サービスなのである。
「ところで、ジョルジュ様はどうでしたか?」
「ええ、『何か入れ知恵でもしました?』と聞かれました」
「あ、はい、ごまかしてましたけど、視線が髪の上を……」
ふふっ、と笑みを浮かべる二人。傍目から見ると実に麗しいが、実体は共犯者のそれであった。魔族の雌は少し怖い。ロキは少し尻尾を丸める。
確か昨日はフィレスの髪型を獣耳の形に整えるとか、そういう事を話していたような気がする。
「その調子よ」
「今日はどんな手で行きましょうか?」
「うーん――」
ノってきた主の言葉にフィレスが頬に手を当て、キャーと黄色い叫びをあげる。
寝そべったままのロキは耳を伏せた――天狗の凛々しい青年には悪いが、獣である自分に出来る事は何もないのだ。
※
夜の事である。
ジョルジュは一風呂を浴びた後だった。
魔王城の生活は豪勢だった、午前中に姫君のダンスのレッスンに付き合うだけ以外は三食昼寝付きのいいご身分である。毎晩温かい風呂があるというだけで冬に水を被って汗を流すような故郷の生活とは雲泥の差だった。生憎と長老達の思惑通りに姫君を虜にするのは望み薄のように見えるが、それが逆に社交パーティでのエスコート役の地位を固める事となり、今のようないい友人というポジションもなかなか悪くはなかった。
バスローブに身を包み、柔らかいタオルで水気を取った髪に、風の魔法をかけながら浴室を出る。
目の前の天蓋付きベッドに、女が正座していた。
遂に幻覚を見るようになったか。
ジョルジュは目を閉じて首を振る。
幼馴染が女官に召し上げられて彼のお付きにされた後、警戒しながらもこの一週間は何事もなかった――表面上は。
彼女は午後はお姫様とお茶をしているらしく、昼飯と夕飯を一緒にする以外はジョルジュにべったりと言うほどでもなかった。偶然どっかの貴族がやっていた事を耳にしたように、同じベッドで寝かせられるという事態も無い。
しかし例えば昨日の髪型は獣の耳みたいな形になっていて、それが何故かやたらと彼の目を惹きつけた。この一週間では毎日、彼女の外見に何らかの手が加えられている。
目を開く。
頭を平伏とさせた彼女の幻覚はまだそこにいた。別に真っ裸という訳ではないし、服装も整っている。しかし真ん中の三本の指をベッドについているのを見ると、背筋がゾクッとした。
多分幻覚ではない。
意味はよくわからんが、激しくまずい気がする。
幼馴染が顔を上げる。
何も言わない、彼女はただ彼の目を真っ直ぐに見ているだけだ。
彼女の手足はここまで長くてほっそりとしていただろうか? 風呂上がりの湿ったうなじに、寝間着の下から覗く足首につい目が行ってしまう。
天狗族の青年は何故か今は麗人の塔に戻っているであろう姫君を連想し、同時に湧いてきた凄まじい後ろめたさに思わず目を泳がせる。
洒落にならん事態に、汗を流したばかりのこめかみに脂汗が一筋流れ落ちる。
夜は長い。
あおーん、と、どこからから、狼の遠吠えが響く。
ざっぱーん。
泡だらけになった所に頭からぬるま湯を浴びて、子狼はブルブルッと頭を振って水気を払った。
よし。
「あっ、待ちなさい」
だが断る。
半袖素足になったメイドの声を尻目に、全身の毛皮を濡らしたロキは髪を纏めあげた主人の元に歩き、そのうなじにフンフンと鼻を近づける。
大きな湯船に浸かって足を伸ばしていた主は、彼を太ももの上に抱き上げ、お湯の中に入れる。首だけ水面の上に出した子狼の両耳の間に、何故か畳んだタオルを載せたりする。
最初の頃は酷い目に遭った、お湯をぶっかけられてビックリして走りだした後、大理石の上を滑って熱い湯船の中に頭から突っ込んでしまったのだ。
しかし今は慣れたものだ。お湯の中で器用に向きを変え、主の柔らかい胸に前足と顎を載せてクーンと甘える。彼女は男には向けた事のない蕩けた笑顔で、ロキの目の端をぐしぐしとしてくる。
あまり浸かっていると舌が出しっぱなしになるが、ほどほどのお湯に浸かるのもなかなか悪くない。しかも汚い体を洗った後は主と好きなように触れ合えるのだ。
が、その後に風の魔法で体を乾かされるのはあまりよろしくない――特に何が面白いのか、メイドが鼻先に風を当ててくるのには辟易する。
我慢する、フェンリルは物分かりがいいのだ。
寝間着に着替えた主の、太ももの間に頭を突っ込むとめっと鼻先を弾かれた。何が悪いのかはよくわからない。が、毎日与えられるおやつよりも遥かにいい匂いがするのでついついやってしまう。
抜け毛でベッドを汚さないように、子狼の定位置はベッドの下だ。ベッドの足元にある藁束で編まれたベッドの中、フェンリルの子供は身を丸めて満足した息を吐く。
おやすみなさい、という主の声に尻尾を一振りする。
全てが寝静まった頃、約一名には長すぎる夜が始まった。