女の一穴、男の破れ
前貼りの取れた翌日。
「あっ……ごめんなさい」
「いえ、大丈夫ですよ」
このやり取りの回数も、二十を超えた辺りで数えたのをやめた。
カチンコチンに硬くなったベリルは、もやしっ子な元男として思わず自信を失いそうなほど分厚い胸板に頬を押し付けながら、再び相手の足を踏んづける。
指導役の表情はと言えばあらあらうふふふである、実に楽しそうだった。
「それでは、また明日」
うへー。
一礼したジョルジュが部屋の窓から飛び去った直後、ベリルはへにゃりと机の上に突っ伏した。
地球と魔界、合計三十年以上における人生で、最初のダンスレッスンは散々だった。ダンスという代物を考えた人物が今目の前にいれば、即座にランスロットに叩き斬らせているとこである。
顔を上げ、やたらと楽しそうなアルケニーを、ベリルは恨めしげにみつめる。
「ご苦労様でした」
カチャリと、カップの置かれる音、飲み慣れた紅茶の匂い。
それを机に置いた当人は、よく見ると同じ側の眉毛と口端がヒクヒクしていた。
くそー、他人事だと思いやがって。
ベリルを責めないで欲しい。この体たらくは別に彼女が致命的な運動オンチだとか、パートナーが気に食わないから嫌がらせで踏んだとかそういう訳ではないのだ――フリフリのスカートから伸びる、紳士的な青年でさえ思わず目がやってしまうような螺旋階段製の美脚は素晴らしいレスポンスを誇っている。そして同性だろうが異性だろうが、紳士的な相手を嫌えるような人間は余程性格の悪いひねくれ者だけだ。
全く未知の体験なのだ。あれやこれやでガチガチに緊張して失敗が失敗を呼ぶ連鎖反応の果て。前彼女の買い物に付き合わされた時以上にベリルは疲れてしまった。外から見て神童と呼ばれる身でも、実は様々なアドバンテージを活用していた凡人である事が露見してしまったのを気付いているのは、まだ本人だけだった。冷や冷やもんである。
対称的に、ジョルジュは練習相手として満点とも言える行動を示した。終始笑顔を絶やさず、足を踏んづけても全く気にしない。果てにはお嬢様が羽根のように軽いので痛くなかったとフォローまで入れてきた。それが全て美少女と密着しているから出た本音だとしても、全く文句の付けようがない。
嫌味になるほど出来た青年であった。
ふと、ベリルは想像した。
ストーブの前で銀色の貴婦人が、クウクウと眠る赤ん坊を抱いている、黒い男が翼で二人を温めるように囲んでいた。
魔王の一人娘が、本来歩みべき人生とでも言うべきもの。
しかし夢見がちな少女と違い、それを幻の絵空事だと元青年が感じるのは、曲りなりとも恋の甘いも苦いも体験した身であるからに違いない。永遠と絶対など存在しない――そのような考えが流行している意味において、地球の現代文明というのは決して甘いだけの世界ではなかったのだ。
それでも、意識の端でもありかなと思ったのは余程疲れている証拠だ。
が、同時に引っかかるものもあった。
あまりにも完璧すぎるダンスパートナーに、元男が感じた違和感。
その正体は、ほどなく判明する事となった。
※
ベリルが疲労困憊の体でお昼ごはんを頂いている頃、魔王城の中で一際注目を浴びているものであった。
かつて魔界でも札付きの魔剣と呼ばれたものをリビングアーマーに転生させたもの――ソウルイーターが、一人の少女を先導して廊下をズンズンと歩いていた。
驚愕すべき事に、その少女は魔王城のお姫様ではなかった。
黒い子犬を肩に抱き上げた彼女は興味深げに城内を見渡し、通りかかる魔族と目が合ってはペコペコと頭を下げていた。
そして突然立ち止まった生ける鎧にぶつかって尻餅をつきかける。
少女を見て、芸の細かい事に驚いて見せる門番のスケルトン二体。
門番がどいた後に開かれる扉。
工房の中でふよふよと浮いていた黒いマントの首だけが180度回り、フードの中からしゃれこうべが覗くに至って、少女は思わずヒッと小さい悲鳴を上げてしまった。
魔界で宙に浮き、闇を凝縮したような髑髏と言えば一つしかない。
リッチ。魔法に長けた者が無念の末に化すというその魔物は、両の虚ろが捉えた相手を無差別に滅ぼすと言われている。
『おや、どなたですかな?』
死神の質問に答えはない。少女ただパクパクと口を開閉し、喉からは言葉にならない沈黙が漏れる。
説明を求めるように、リッチは獣の鎧へと視線を移した。
耳に聞こえる会話はなかった。しかし黒マントに包まれた髑髏は、まるで説明を受けたかのように頷く。
『なるほど』
生けるもの全てを憎むという目玉のない穴が、再び少女に向けられる。
『ああ、そこのお嬢さん、怖がらなくてよろしい、私はただのリッチではありませんので』
少女が反応するには、たっぷり三十秒かかる事となった。
「は……はい」
『して、魔王城に何か用事ですかな?』
「はい……あ、あの――このお城にジョルジュ=スパンハウゼンというお方はご滞在中でないでしょうか?」
女がジョルジュを訪ねてきた。
工房からの連絡を受けた時。これだ、とベリルは思った。
稲妻の如く走ったそれについて特に根拠はない、あえて言うなら恋した事がある者の経験則だった。
ただし女性でのそれは、俗に女の勘と言う。
工房の中で借りた猫のように座っていた少女を見た途端、元青年は思わずのけぞりそうになった。
おおう。可憐だ。
その少女は客観的に見てかなりの美少女だった。しかしその外見は決して姿見の中で見る王女に勝るものではない。
ただ一点、容姿以上に女を魅せるものをその少女は持っていた。
不安げにこちらを見ていてさえ、少女は誰かの事を一途に思っている。
ベリルとその少女を何も知らない男に選ばせば、十人中全員が前者を選ぶだろう。しかし彼女に思われているのを知っていれば、その一人は必ず少女に転ぶだろう、少なくとも元青年ならそうする。高嶺の薔薇よりも身近な百合だ。
自分は一体何を見ていたのだ、と元青年はかつての自分の目ん玉を繰り抜いてやりたくなった。少なくとも地球で付き合ってた彼女からはそんなもの、全く感じる事はなかったのだ。
が、それはそれ、これはこれである。
折角目の前に転がってきた肥えた羊を、逃す狩人はどこにもいない。
彼女の隣の席に座りながらベリルは自己紹介をした。
「こんにちは、ベリル=メル=タッカートと申します」
少女が目を見開く。
「あなたが――」
そのの後ろに続く言葉は"あの"か、"あの人の"、果たしてどちらだ。
その答えを持つ者を、ベリルは既に呼びに行かせている。
そして工房の扉がバーンと開かれた勢いを見れば、答えは自明だ。
「フィレス!」
「ジョルジュ様!」
想い人の顔を見たフィレスの顔は、一気に蕾が開いたかのようだった。
「ど、どうしてここに」
二人の少女が同じ場所にいるのを目撃して、ベリルの前では猫を被りっぱなしだった天狗の青年は見るも無残に狼狽した。
トコトコと足元に寄ってきた子犬を抱き上げ、ベリルは我関せずという顔で二人に横顔を向ける。
フィレスよりも発達しているベリルの双丘に前足を引っ掛けた小動物は、気持ちよさそうに顔面を柔らかい胸の中に埋めた。
可愛いというのは実に得である、女の胸に体を埋めても、むさ苦しい野郎とは違ってお咎めなしなのだから。
そんな女体の神秘で国を崩したという周の幽王、商の紂王、呉の夫差、唐の玄宗――そんな駄目男共の話がやたらと中国に集中しているのは、紛れもなく彼の国が何でもかんでも男のミスを女に押し付けたがる男尊女卑の地である証明そのものだ。そしてそれは女が男最大の弱点である、不変の真理の裏付けでもあるのだ。
千丈の堤も蟻の穴より崩れる。
そんな言葉がベリルの脳裏を過ぎった。