未知との対面
古に勇者あり。
其は人界の救世主なり。
人族存亡の危機に際してどことなく現れ、魔王を討ち、世界に平和をもたらす。
そしていずこかへと去っていた英雄の行く末を知る者はいない。
アホか、なんじゃそりゃ。
※
魔王の一人娘・ベリル=メル=タッカートの閨房に入り込んだ時、勇者ディークがまず感じたのは風だ。
部屋の中は真っ暗という訳ではなかった。
まず目に入ったのは天蓋付きの豪華なベッドで、ベッドサイドに備え付けられた丸いガラスに包まれた炎という形の光源が室内を微かに照らしている。
――あれがマジックランタンという奴か。
興味深いがメインディッシュは他にある――足首まで埋まりそうな絨毯の上を、音のない数歩を進んでディークは気付く。
ベッドの中は空だった。
一瞬、罠だと思った。
そうでないと気付いたのは次の瞬間、窓際に立つ人影を認めたからだ。
まず印象に残ったのは腰まで届くほどの銀髪だ、風に吹き荒らされないように束ねてはいる。それでもきめ細かい髪が風にたなびいて、まるでその人物を包む燐光に見える。
数歩間合いを詰めた勇者に気付いたのか、ネグリジェの上にガウンを羽織った彼女が振り向く。
聞きしに勝った。
「……どなたでしょうか」
深夜の寝室に男が忍び込んだというのに、物怖じもしない堂々とした物言いである。
「正統なる勇者の一族が末裔、ディーク=ブラウンと申します」
もう一歩進み、ディークは恭しく一礼した。
「魔王のご令嬢、ベリル=メル=タッカートよ、お目にかかれて光栄です」
彼女がその言葉に頷く。恐らくは襲い掛かられても自分で撃退できる自信があるからだろうが、この落ち着きは流石魔王の娘だろうとディークは思った。
しかし調べはついている、彼女は闇の巫女の一族だ、その膨大な魔力に裏付けられた魔法さえ封じれば、肉体能力は人族と変わりないのだ――ただの女子供と違いはなくなる。
「それで、その勇者様が何用ですか? 深夜に婦女子の部屋に忍び込んでまで」
「はい、あなたの身柄を受け貰いに」
「それを私が了承するとでも?」
「どうしても我が国へと一緒に来てもらいます、そして我が妻に」
うげー。
全身に鳥肌が立つのを、ベリルは辛うじて表に出さずに済んだ。
こいつ真症だ、マジもんのロリコンだ。
いやまあ、東洋だろうが西洋だろうが、子供にツバをつけていいなずけにするというのは昔よくある事ではあったのだが、目の前のこの自称正統なる勇者は違う――自分にはわかる。
わかってしまった。
うわー、性欲にギラギラしてる野郎ってこんなにキモいのか。
辛うじて取り繕ってはいるものの、血走った目は瞬きもせずにベリルを見つめ、息もちょっと荒く、ちょっとした拍子で飛びかかってきそうだ。
流石に自分が同じ生き物だったと思いたくはない。世の中の女はよくこんなの我慢できるなー、とそこまで考えてベリルは気付いた。
なるほど、これが性犯罪者という奴なのだ。
我慢できるはずがない、普通の男とはまた違う生き物なのである。
エロ本やらエロゲーやらで大人の顔をしたつるぺたがアレをしたりアレしたりするのを楽しむのは――理解を得られるかどうは別として、まだ個人の嗜好に留まる範囲であろう。しかしこれが切羽詰まって三次元に持ち出して実際に行動に移す奴等にはもっと恰好の形容方法がある。
万国共通の、人類の敵。
んでもって正にそのロリコンは、会話をしながらもわかりにくいようにベリルとの距離を詰めていた――それに彼女が気付けたのはまあ、キモい野郎に一ミリたりとも近寄って欲しくない本能と倫理観の賜物であろう。知らないおじさんのどこがヤバいのかわからない、いたいけな子供ではないのである。
それでわかった。この性犯罪者には、二つの顔がある――勇者と変態だ。
つまりはただの変質者ではない。確か地球の合気道でも相手に悟られず間合いを縮めるという概念がある事だし、同様の技術を駆使しているのは、どちらかというと勇者としての顔であろう。
剣を抜かないのも同様だ、それは変態自らの手でベリルを揉みしだこうと同じくらいに、他の目的を持っている。
害意だ、それを見せると反撃が来る可能性が大きくなるからである。
まるで手を変え品を変えしぶとく提出される児ポ法のようだ。子供を下衆共の手から守るという建前の下には、自分の子供がエロゲやエロ本を隠している事に我慢がならない、短気で無常識な親という下衆そのものの顔が隠れている。
そしてディークが勇者としての技術を駆使しているのは、一つの事実を示している――魔族であるベリルが魔法を使えない事は、こいつにはバレてない。そしてここまで慎重な奴が知らないという事は、一般的にも知られている訳ではない。
よし、次だ。
烈火の中でこそ本当の金属がわかり、疾風の中でこそ強靭な草がわかるように、苦難にある人間はその真価を示す。
ではその反対として、人間の底というものを見るにはどうすればいいのか。
「近寄らないでください」
ベリルはいかにも無力な婦女子のように、ネグリジェに包まれた体を両手で抱いて、窓枠に背中を貼り付ける。男としての尊厳が削れる音が派手にしたがまあ、自然にできたと思う。あ、ちょっと体が震えてる。理性では大丈夫だとわかってても、生理的嫌悪感という奴だ。
そして無力そうで、今まさに手中にある獲物を見て、ついに鉄面皮の聖人面が崩れた。
ある意味では元男としてよく知っている、万人共通のスケベ面。好きにいたぶっていいと考えているような優越感。
正統なる勇者の末裔を自称するディーク=ブラウン、その者の底であった。
潮どきだな。
そしてベリルはひょいっ、と窓から空中へとその身を踊らせた。
あまりにもその動作が自然かつ無造作だったので、ディークの反応が遅れた。
思わず窓に駆け寄ろうとして、その体が何かに引っ掛かる。
少しねばねばとした、暗闇で目立たない糸が織り成す蜘蛛の巣。ディークは瞬時にその名を思い至った。
アルケニー・シラ=セプテット=フォンデル。
「くっ!」
念のために対策は練ってあるのだ。この糸は強度を魔力で支えている――勇者が取り出したプレートを当てるとたちまち瓦解した。急いで窓際にかけよるが、上下左右を見渡しても魔界の夜空には妖精のような幼い姫の姿はどこにも見えない。
やはり罠か!
ベッドにあったマジックランタンに手を伸ばそうとして――止めた、取り出した松明に火を点けて扉を開ける。
扉の外には、誰もいなかった。
ただ図体のデカいハリボテがそこに突っ立っているだけだ。
いや、階段とは反対の奥、その闇の中から見覚えのあるグリーブがこちらに向けて突き出されている。
グリーブ履いた男は、地面に転がっていた。
カシャリ。
微かに甲冑のこすれる音。
背後に冒険者を転がせていたそいつは、闇の中に潜ませていた体を現した。
見るだけで唸り声が聞こえてくるような、狼のようなフォルムを持った全身鎧だった。重厚そうなハリボテとは違って、今にも素早く飛びかかってきそうな気配を感じる。
兜の中からは巨大な一つ目がディークを見据えていた。
どう見てもただのリビングアーマーではなかった。一時撤退だ。何枚も取り出したプレートを手に、ディークは螺旋階段に身を躍らせる。
ツルッ。
そして何時の間にか凍っていた階段を踏み外し、正統なる勇者は姫君の住む塔を転げ落ちて行った。