真の勇者
「……なるほどな」
注文の一つもせず、ただ自分の話を聞いていた男は腕を組みながら頷いた。
「ベリル=メル=タッカート……魔王の弱点になるかと思えばなかなかの傑物じゃないか。タダの王族ではないようだな」
「ええ」
男の言葉に同意し、若き商人はお茶をズズッと一口。
カップを置く。
「――ところでディーク様、例の物は?」
「反応も進展も全くない、既に諦めているらしい」
「半日間、毎日アレを輪に通した甲斐がありませんでしたね」
「全くだ、舐めたり齧ってみたりもしたらしい――ただの藁束をな」
男の鉄面皮が歪み、この店に入って初めてククッと嗤う――それに合わせて、少年は迎合するような笑みを浮かべた。
当の製作者が聞いたら悶絶するような話ではあるが、幸いにして彼女はこの場に不在だった。
「――動きますか?」
「いや、その秘密をお姫様と直結させるには、まだ情報が不足しているのでね、じっくり待つさ」
ほっ、とリベールは密かに胸を撫で下ろした。
ここで会話を終わらせれば、正にその――今一番知られたくない情報を渡さずに済む。
「――ところで、魔王城から何かを仕入れてきたのかね?」
一瞬、心臓が跳ねた。
リベールは内心で舌打ちした。バレている。恐らくはこの会話の前に情報源たる自分の事を調べたのだろう。とことん目ざとく、抜け目のない男だ。
「はい、魔力計なるものをいくらか」
「ほう、詳しく聞こうか?」
ここでごまかしても後でバレる――結果は多少延びるものの変わらず、少年の立場が悪くなるだけだった。
「なるほどな……いい話を聞けた。勘定は済ましておこう」
「ありがとうございます」
「気にするな――ではまた会おう、できれば王都で」
「ご武運をお祈りしております」
席を立つ男に向けて恭しく見送ったリベールは、両手の拳を握ってしまうのを辛うじて堪えた。
これで勇者ディークは動くだろう、そういう男だ。
奴の手腕は確かだ――魔王城に挑んでは消え去った数多の戦士や冒険者のようではなく、勇者として正統の血筋と代々伝わる技術を持っている。
しかし、
「ああ、そうそう、あの年にして魔界でも有数の美姫という噂は本当かね?」
「はい、聞きしに勝さる美しさでした」
「そうか、それは将来が楽しみだ」
頭を下げた姿勢のまま、リベールは誰にも知られずに奥歯を噛み締めた。
ディークが動くのは勇者としての技術――その根幹に関わるものが外界に知られる前に葬り去るためだ。
建前上は。
権力。
女。
今垣間見せたように、鉄面皮を一枚剥がした下では腐臭を放つ本性が潜んでいる。
あんなのが勇者でいてたまるか。
あれはただの、力に溺れた馬鹿野郎だ。
しかし今の少年にはその力がない、あまりにも無力だった。
(……いや)
これからディークはあの手この手でお姫様の行動を調べてから事を起こすのだろう。まだ時間はある。
あの性格だ、まだリベールに監視を貼り付かせている可能性は高く、直接動く訳にはいかない。
だがやりようはある。
疑われないように水面下で――とにかく静かに。
表面上は何事も無かったかのように振る舞う少年は、何時ものように、ゆっくりと夕食を片付けた。
『さて、少々休憩にするとしようかのぅ』
「はい」
うう、まだ頭がクラクラする。
お茶を淹れたメイドに礼を言った後、ベリルはケーキをフォークで掬い取った。
あー、癒される。
疲れた時の甘い生クリームはまるで直接脳みそに染み渡るような気がする。味はマロン、食感はナッツ的なスカピの実を砕いたチップも実に良い。そう言えばそろそろ藁束が無くなる頃だが、マジックチャージャーを使った発火装置を作って厨房にあげるべきかという事と技術の隠匿を、ベリルは頭の中で天秤に掛けた。
予め五年という人生を歩んでおり、体も別物なせいか、食生活の変化にも元青年が素早く適応できたのは幸いと言うべき事だった。そう言えば地球では今のように甘味に舌鼓を打つのではなく、もっと肉肉肉とやってた気がする。大食いメニューに挑戦していたのと比べれば、今の食生活は豪勢かつ健康的だと言えよう。
たまにご飯と味噌汁が恋しくならない訳ではないが、その辺りはもっと活動範囲が広がった後に考えるべき事なのだろう。
そう、そのためには当面の仕事に集中すべきだった――つまりはスケルトンナイトの再生、そしてそのための勉強である。
若干想定外とは言え、目の前の大魔導師はそのためにいるのだから。
しかしこれが想像以上に大変だった。
呪文というのは口に出す文字である。だからと言ってそれを丸暗記して魔力を流して唱えるだけで魔法が使えるようになる、というのとは違う。バイアン曰く、呪文というのはあくまで補助のために唱えるもので、本質的には編み上げるイメージが魔法の要らしい。
そのイメージが厄介だった。
例えると音楽に近い――呪文が楽譜で、イメージがニュアンスだ。
身軽に。悶えるように。雄大な。いい気になって。優しく。
だから魔法を唱える際に浮かべるイメージは同じ楽譜を元にしていても人それぞれで違う、それが魔族が魔法を行使する際の個性になるらしい。
バイアン曰く、魔法の駆使に慣れれば自然とわかるらしい。しかし魔法というもののキャリアが浅い元青年の幼女にとって、それを理解するのはなかなか骨の折れる作業だった。
彼女が休憩している間、机の向こうで椅子の上に浮いたリッチは羊皮紙の上に魔導式の互換表を埋めていた。
当面の転生に必要な魔導式は翻訳しきったものの、わかっているだけで何千年もある魔法の歴史は、それだけで埋めきれるほど浅くはない。疲れを知らない体を手に入れたバイアンがせっせっと書いてもめぼしい呪文だけでおよそ数ヶ月は必要だというのだから、出来上がった互換表がとんでもないボリュームになるのは間違いないだろう。
この世界の羊皮紙は地球の紙のように薄く軽くはないので、コストはかかる、分厚い、クソ重いの三重奏だ――ここが魔王城であり、このリッチが資源を自由に使える立場でなければ不可能だとも言える大工程なのである。
あ、そうか。
「バイアン様」
『はい、ベリル様、なんじゃろう?』
「魔法で文字や絵を空中で映す事は可能でしょうか?」
バイアンは首を捻る。
『可能じゃ』
それがなんだと――と、大魔導師はベリルの視線を追って気付く。
重くて厚くて高い羊皮紙の上に書かれた、膨大な呪文と魔導式。
『なるほど、なかなか面白い発想じゃな』
元青年にとって、その発想は地球上のタブレットコンピューターやスマートフォンに近い――文字や絵などの膨大な情報を、小さなデバイスで表示する概念だ。
しかし中世程度に留まった文明にとって、それは数百年後の産物だ――天まで聳え立つような建物だとか、軌道の上を高速で進む鋼鉄の箱だとか、異世界の住人に話すと与太話の類だと思われるというあれである。
図書館並の資料を宿し、指で触れれば文章を表示する板。
アホか、普通はそう思う。
しかしバイアンの反応は違った。
(おいおい……このジイさん、未来に生きてるのか?)
実物を知らないのに一を聞いて十を知り、打てば響く、と言ったバイアンの反応を、元青年は唖然とした様子で見つめる。
『魔導式の互換と並行して、サス=カガタに試作品を作らせてみようかの』
そう言えばこんな言葉を聞いた事がある。
充分に発達した科学技術は、魔法と見分けが付かない。
それは逆でも同じことが言えるのかもしれない。