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髑髏の騎士

 その朝、シラ=セプテット=フォンデルは毎朝の日課として塔を登っていた。

 栄えある魔王の一人娘・ベリル様の世話役兼教育係に任命されてからはや五年、彼女は恐らく魔界で最もベリルの信頼を得ている魔族であろう――あるいは、父である魔王タッカートよりも。

 そういう自負が彼女にあるのは確かだ、何せお嬢様のおむつからおねしょした時のシーツの交換までこなしたのである。


 持参した朝食セットは音一つ立てず、重心の全くずらさない優雅な足取りで気が遠くなるほど長ったらしい階段を登って行くのは、ある意味年季の入った職人芸ですらある。

 飛ぶ者が窓から運ぶなど言語道断、両足で歩くお嬢様に対し、歩かない者がどうして教える事ができよう。

 とまあ、そういうポリシーの御仁なので麗人の塔の頂上に辿り着いた時、音もなく門の傍に佇む番人の横をすり抜けた時も、お嬢様の眠りを妨げないようそっとカギを挿し込んでドアを開けた。魔王タッカートが唯一愛した佳人、その落し子の寝相を独占できるのは世話役ならではの役得と言えよう。


 ベリルは起きていた。


 布団を背中に被ってボケーとしていた。ここは体育服とブルマ、いやいや、スパッツなどはどうだろう――という発想をする不埒な輩はここにはいないが、そう思いたくなるほどの見事な体育座りである。

 ネグリジェ姿の彼女は開けたドアに向けてノロノロと視線を上げて、シラを見てビクリと身を竦ませた。


「おはようございます、お嬢様」

「……おはよ、シラ」


 おや?


「どうかしましたか、お嬢様?」


 食卓で朝食の準備をしながらシラは心配気にベリルを見るが、返ってくるのは茫洋とした上目遣い。


「あ……うん」

「具合が悪いのなら朝食を食べた後にもう一度お休みなさいますか?」


 子育ての経験がある者は、大抵において子供を甘やかさない。しかしそんなシラでも休養を勧めてしまうほど、ベリルの様子はおかしかった――昨夜はあんなに父親との誕生日ディナーを楽しんで眠りについていたというのに。

 カチャリ。内心の疑問が表に出たのか、ティーカップを置く時に音を立ててしまった。

 不覚。

 その音にハッとした様子でベリルが顔を上げた。


「だ、大丈夫、ちょっと怖い夢を見ただけだから……」


 ホッとすると同時に、幼女を見るシラの視線が心配から同情に変わる。

 ここまで怯えるのは彼女が初めておねしょをした時以来だろうか、一体どれほどの悪夢だったのだろう。

 主の寝癖が付いた、しかし相変わらず流れる銀髪を世話役は優しく撫でる。


「眠れなかったのですね」

「……うん」

「では朝食を頂いた後にしばらくお休みなさいませ」

「うん――ありがとう、ばーば」


 何時もの呼び方でそう言い、ベリルはのろのろとした動きで食卓に着いた。



 百聞は一見にしかず。

 知っていて心の準備までして、それでも実際に目にすると凄く驚いた。

 部屋に入ってきたシラという名の老婆は世話役である。

 昨夜も塔を登り疲れた自分を抱っこして部屋に戻り、何時の間にか寝てしまった所をベッドに寝かされた。

 その記憶がベリルにはある。


 そこまではいい、問題は上品な貴婦人である彼女の下半身がどう見ても人間ではない事である。

 上半身よりも倍以上のボリュームがあった。


 硬そうな殻、斑色の模様、極めつけに八本の足。

「おはようございます、お嬢様」

「……おはよ、シラ」


 つい、何時もと違う呼び方で彼女を呼んでしまった。

 まずい、訝しがられた。

 冷や汗が一筋、背中を流れ落ちる。

 蜘蛛女(アルケニー)、魔界において貴人の世話役を担う事が多い種族。

 虫体にトレーを載せているのは如何にも不安定そうだが、食卓に移動してもカップやソーサーは微動だにもせず、音一つない。


 ベリルはその理由を知っていた。


 音もなく食器が老婆の背後で浮き上がる。

 それらは宙を舞いながら老婆の手に渡った後、優雅な手つきで食卓に並べられ、あっという間に朝食の用意が整う。


 ベリルはその理由を知っていた。


 動揺しながら咄嗟に口から出たごまかしの言葉にシラは納得したようだった。複数の糸を引っ掛け合わせて食器と部屋にひっついた糸を引っぺはがした後、八本の足を動かしながらベッドの横に近づいてくる。

 昨日まではまるで覚えなかった生理的嫌悪に身が竦んだ。


「眠れなかったのですね」


 優しく頭を撫でられる。


 謝罪の言葉を出すわけにいかなかった。いい年して泣きそうになる。

 それでもベリルは心の中でひたすらに謝った。


 ごめんなさい


     ※


 慣れとは恐ろしいもので、シラの蜘蛛蜘蛛しい下半身に元地球人が慣れるのに三日もかからなかった。

 何せ朝から晩までほとんど一緒にいるのである、ずっと同じ空間に閉じ込められていると相手が好きになるか嫌いになるしかないというのは誰の言葉だったか。

 自分のおむつを替えたのもこの世話役らしいが、この調子では嫁入り時のセッティングまで


 ベリルは再起動した。


 閑話休題。

 新しい環境に慣れた猫の行動と言えば、暗がりにある狭い所からおっかなびっくり出てくる事である。


 部屋の中身は三日間の生活で掴めた、ドレッサーに天蓋ベッド、食卓、羊皮紙のスクロールが所狭しと置かれた本棚。

 PC雑誌小説テレビデスクベッド箪笥諸々が小さい空間にギッシリと詰まった小宇宙とは密度で比べるまでもないが、それでも空間を持て余している気がしないのは、豪華なコーディネートのお陰だろう。


 驚いた事にトイレは形は元地球人の知ってる形と違えど座式だった、この世に生まれて五年間の知識にあった事とは言え、催してそれを見た時の安堵感は、見るもおぞましいアルケニーが味方である事を身を持って知った時の天国地獄に勝るとも劣らない。


 あとは外がどうなっているかだ。


 授業と自由時間と三食のトリオが指揮者シラのもとに織りなす規則正しい進軍マーチは、朝駆け夜討ち当たり前な社会人のメンタリティにとって、風邪すら引きそうなぬるま湯に等しい。

 それでもこの教育係が一日中引っ付いてるだけあって、あちこち探ると初日でボロを出した時のように訝しがられるかもしれない。

 何かをやるには夜しかなかった。


 という訳で世話役が晩食の食器を下半身に載せて塔を降りた後、ベリルは部屋のドアに手を伸ばした。

 部屋のドアにカギはかかってなかった。

 そこまでは知っていたーー過去に何度か部屋の外に出てきた記憶がある。

 音を立てないようにドアを内側に開き、頭だけを出して左右を探る。


「…………」


 全身鎧が立っていた、両手に持った剣を地面に突き立てて。


 少しの間様子を伺うが、微動だにしない。

 一瞬で考えが脳裏を走り抜ける。ドアにカギはかかっていなかった。門番がいると考えるべき。この全身鎧は門番かもしれない。

 幼女としての記憶では、生まれてこの方この全身鎧が動いた事を見た事がない。それでも塔の下に降りようとした事がないのは、それが子供の足ではとてもではないが完走できない長さだからだ。

 チョンチョンと、指でひんやりとした金属の腕をつついてみる。

 反応がない。

 飾りだろうか、と思い、真正面に回ってみた。


 全身フルプレートアーマーで唯一開いていた兜の奥、そこではドクロの虚ろな空洞が正面を見つめていた。


 心臓が止まるかと思った。


 それが序の口だったと思い知るのは次の瞬間である。

 キィィ、微かな音を立てて空洞が下に向けられる。


 目が合った。


 息を飲んで後ろに飛び退った直後に足が虚空を踏み抜く感覚。


「――あっ」


 背中から空中に投げ出される。

 ガツンッ!

 その瞬間、轟音と共に何が起きたのか、ベリルにはわからなかった。

 全身鎧の姿が一瞬霞む。次の瞬間、ベリルはその片手に抱きかかえられていた。まるで猫だましを食らった猫のように硬直していたベリルは、たっぷり5秒もかけて、そいつが壁に突き立てた剣で落下を止めたのだと理解した。

 よく見るとボロボロの剣だった、暗がりの中でも見てわかるほど錆だらけで刃こぼれが激しい。

 バキン。

 見るからに見事なフルプレートの重量を受けた剣は、一溜まりもなく折れた。


「……きゃっ!?」


 ベリルには全てがスローモーションに見えた、走馬灯すら見えそうなゆっくりとした世界の中、二人の姿勢が傾いて行く。

 そんな世界の中でも、鎧の騎士の動きは神速を極めた――剣が折れた瞬間、壁に刺さった断剣を蹴りつけたのだ。

 塔の内部に突き出た部分を更に短くするように蹴り砕き、ベリルを凄まじい斜め上へのGが襲う。次の瞬間には、ワープでもしたかのように踊り場の上に舞い戻っていた。

 全身鎧は、重厚な外見とは裏腹に練達した柔らかい動きで勢いを殺した。流れるような動きで片膝をつき、丁重な動きでベリルを地面に置く。


 呆気。


 思い出したかのように砕かれた断剣の欠片が、錆びた金属特有の軽い音を立てて転げ落ちて行く。


 頭蓋骨の上に開いた二つの空洞が目の前のあった、心なしかベリルと目が合うのを避けているように見える。驚いてしまったこちらを気遣っているのが、生物室の標本みたいな顔からでもわかった。


 今度の言葉は、自然と滑り出た。


「――ありがとう」


 髑髏の騎士が立ち上がり、ガチャリと鎧を響かせて紳士的に一礼する。


 ――マイプレジャー(どう致しまして)


 そう聞こえた気がした。


 翌日、塔の外まで突き刺さった断剣がシラに見つかり、ベリルはこっぴどく叱られた。

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