女の修行は世界征服
走れ、走れ。
あくまでスカートは翻させずに、しかし可能な限り迅速に。
息を上がらせながら、無限とも思える螺旋の階段、その先へ。
6歳のベリルは、階段の途中で力尽きて髑髏の騎士に頂上へ担ぎ込まれた。
絨毯の上でへばって座り込んだ彼女に、アルケニーの教育係はあくまで厳格であった。
「お嬢様、20分の遅刻です」
「……ごめんなさぁい」
「では明日は20分のペナルティという事で」
ガクリと、まるで悲劇のヒロインのように幼女の肩が落ちた。
何の話かというと教育の話である。
我らが元青年であるベリルは工房と名工を得て、異世界における技術開発の基盤を整えた。
さあ、巡るめくチートの時間だ。火薬を作れ、銃を作れ。資源を掘り出しては金に替え、人材集めて秘術を開発。魔王を蹴落とし魔族を統一。厄介な男は殺せ、女はハーレムガールズラブ。炎上する人族の都市の上空でオーホッホッホッ。その逆でヤマなしオチなしイミなしのスローライフもお好みで。
そうはならなかった。
そうするためには、天よりも高い幾つかのハードルが立ち塞がっていたのである。
そしてそのハードルの一つ、言わば鬼畜難易度なシューティングゲームの一面ボスであるアルケニーは、朝に飛び起きて工房に駆け込もうとするベリルの首根っこを捕まえたのである。
「お嬢様、お遊びは午後の約束ですよ」
遊びじゃないもん!
そう言いかけて、ベリルは言葉を飲み込んだ。
あれぇ、なんかデジャヴである。
それは元青年がありし日にプログラミングにのめり込み、パソコンを親に没収されて所属サークルに謝り倒した夏の一幕。
例えばお絵描き、例えばサッカー、はたまた例えば同人誌。
俺は漫画家になる、Jリーグに入る、エロ同人でマンションが立つ――いやま、最後のを堂々と胸張って言うのはマルサ的な意味でどうかと思うが。税金対策はご計画的に。
しかし両親――つまり大人の世界ではまた別の論理が働くのである。
趣味の延長で飯を食えるようになる――実に結構な事だ、嫌々とやらされる仕事よりは人生が楽しくなるだろう。
人はパンのみにて生きるにあらず、ワインの一杯もあればいい。
ワインのみで生きるも良いだろう、どこかが壊れるかもしれないが楽しく生きられれば本望だ。
しかしワインのみの生き方とは誰にでも出来る事ではない――誰もがやりたいから倍率が高いのである。ワインが手からこぼれ落ちた時はどうする。その時には生きるためのパンが必要になる。パンの代金は自分で稼ぐのか、それとも親から強請るのか。
ドライな言い方をすると、子供が脛かじりになるのはお互いの人生が灰色になるので、絶対に避けたいのが親としての本音である。
勿論他の全てを投げ打って、全身全霊で打ち込んで初めて到達できる境地というものは、ある。しかし自分や子供がそうであるかというと、そうでない確率の方が大きいのである。誰もがプロ野球選手になれれば世話はない、才能が残酷というのはそういう事だ。
言わば宝くじにも似たハイリスク・ハイリターンの考え方である。しかしその莫大なリターンに憧れてはいても、リスクを自分だけで甘受できる人間というのはそうそういない。大抵はクソを自分の両親や親戚になすりつけたりする――自分のケツを自分で拭かないダメ人間の一丁上がりである。
だから親としては本当に食っていけるかわからない趣味より手に職を持って欲しいものであり、勉強勉強とうるさいのもそのためである――少なくとも地球の制度というのは、勉強が出来た人間には一定の待遇を保証しているのだから。
となると勉強を趣味としている奴はさぞかし幸せであろうと思うだろうが――人生は勉強のみで罷り通れるほど甘くはない。ある日突然自分に疑問を覚えて人生を踏み外したりもする。人間の悲しくも面白い性である。
誰しにも耳の痛い話だし書いててトラウマが蘇ってアレなのだが――この場合、どれかの考えが正しいという事ではない。そもそも人生に唯一の正解などないし、しかし自分のクソは自分で何とかできた方がいい、という事なのだろう。
ケツを拭けるためにトイレットペーパーを予め用意できればそれで結構、拭けなかった場合にも親になすり付けるのではなく、潔く自分だけが全力疾走のクソまみれになる覚悟があれば、それはそれで道が開ける事もある。何より覚悟を決めた人間というのは少なくともダサくない人生を送れるのだ。
以上の事を踏まえた上で、それを我らが主人公に当て嵌めてみよう。
工房を手に入れるその遙か前、ベリルが資料庫での調べ物を始めた時。シラは方針として、彼女に一つの約束事を打ち出した。
午前中はちゃんと授業を受ける。お昼の後は何をしてもいいが夕食までには麗人の塔に戻る。門限に遅刻したらペナルティとして翌日の授業時間を伸ばす。
言っている事は至極真っ当である、というか単なる子供への言いつけだ。
しかし子供とは違い、ベリルにはシラの言う事が理解できていた。
何せ元・手に職を持つ社会人である。大人なのだ。俺はプロのレーサーになるぜぇ、ただしレースでは万年下位のカート乗りが越えようとしない諦めの壁の先に、元青年は立っている。
この世界でベリルが工房に没頭するのは、地球で言う子供が趣味にのめり込む事に等しい――遊びなのである。少なくともシラの目にはそう映っている。
ではベリルの場合、"手に職を持つ"とはどういう事なのか。
それは即ち一人前のレディになって、一流の魔族の元にお嫁に行く事であった。
魔法は使えない。腕っ節は弱い。しかし外見は期待大、加えておつむの出来は神童級。しかも引く手数多な良家のお嬢様、というかお姫様である。
どう考えても男を転がして生きた方が確実で楽だった。
わーい、嫌だ。
しかし弱肉強食の世界で男女平等と叫ぶような空気の読めなさや、元男としての感覚を抜けば正論ではある――何せ亡きお母様という実例がある事のだ。
王族としての身分を鑑みればシラの言い分には全く反論の余地がない、やれ読み書きだの礼儀作法だの、成人すれば実は地球の貴族も受けたというオホホウフフという授業はそのための物だ。
ただしそれは即ちベリルが"お遊び"で成果を挙げる能力がないという事と同義ではない。子供ならではの覚えの良さと大人のモチベーションは地味ながらもインチキ臭い能力を発揮しているし、秘匿している秘術という手札はその気になれば世界をひっくり返す事すら出来る――元青年にはその確信すらあった。
だが授業時間を減らして自由な時間を増やしたければ、まずは何らかの成果を挙げてシラを説得する必要がある。
工房にしてもそうである――八つ裂き魔王もが慄くような手管で手に入れたのはいいものの、流石に鍛冶に使う材料などにはレアな代物などなかった。安価な素材ばかりだったのである。子供のお遊びに与えるのは最低限でいいという事だ。
サス=カガタというゴーレム自身に限っては、むしろお姫様に振り回されて製作環境が悪化したとさえ言えるのだ――外見が外見なので忘れそうになるが、こいつにも感情はあるはずだ。喋れれば不満の一つや二つも漏らしていた所かもしれない。
これ以上は子供として駄々をこねても手には入らない。
更なる作業時間、更なる資源の獲得のために、ベリルは成果を挙げて周囲に示す必要があった。
そして麗人の塔の半ばで力尽きた日の翌日。
午前における礼儀作法の授業プラス20分を終えて遅めのお昼を頂いた後、ベリルは長ったらしい螺旋階段を腹ごなしとしてゆっくりと、しかし根気よく完走し、工房のドアを開けた。
ゴーレムは何時ものようにそこにかしずいていたが、工房の中では前日と違う点が一つあった。
机の上に、一つの物体が鎮座している。
それは前日において、ベリルが20分も遅刻した理由。
サス=カガタが文字通り夜なべして作り上げた金属製の装置はトランプのスペードマークみたいな形をしていた。カラフルである。
そして今のベリルの、前に進むための武器だった。