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優しい化物と黒い子猫のお話

作者: なゆ

――それはとても優しくて、とても哀しい御話。

――優しくて哀しい化物と、化物を探して旅立った黒い子猫の物語。

――この長くて短い御話があなたの旅の慰みになりますように。


 それは昔々、人々がまだ、月や太陽と語り合うことが出来た頃のこと。人も獣も互いに言葉を交わすことが出来た頃のこと。

 暗い暗い森の中、空を見上げた一人の旅人に大きな御月様がそう語りかけました。黒尽くめの旅人は服の色と同じ耳と尾を揺らしながら御月様の話に耳を傾けておりました。そんな旅人の姿を見つめながら、御月様はとても懐かしそうに温かな声音で優しく冷たい光を旅人に与えながら昔語りを始めたのでした――。



 暗い森の奥の、奥の、そのまた奥の、奥深く。

 光も射さぬその場所に、一匹の化物が静かに暮らしておりました。

 醜い顔で誰かを怯えさせぬ様に。

 鋭い爪で、牙で、誰かを疵付けぬ様に。

 顔も、指も、怯えて投げられた石に付けられた数多の傷跡も、幾重にも幾重にも覆い隠し、独りきりでひっそりと暮らしておりました。

 たくさんのぼろ布に覆われた滑稽な姿の化物を遠い木の影から嘲笑う者こそあれど、近付く者などありません。森を駆ける獣も、空を飛ぶ鳥も、森の木々も、地を覆う草花も、化物を遠巻きに眺めるて忌み嫌うだけです。

 森の奥深く、ぽっかりと空いた狭い荒れ地が化物の家でした。晴れの日も、雨の日も、風の日も、化物はずっと独りぼっちで未だ見ぬ友を待ち続けているのです。

 彼はただ一人、ずっと、ずっと待っていました。

 怯えないで、と泣きたくなるほどに願いながら。

 怖がらないで、と骨を軋ませ祈りながら。

 嗤わないで、と声なき声で叫びながら。

 未だ見ぬ友を、ずっと、ずっと、それはそれは長い間待っていたのでした。


 幾千の夜と幾千の昼が巡り巡ったある夜の事。

 小さくて真っ黒な子猫が一匹、大きな屋敷の大きな窓から高い夜空の遠くに瞬く真っ青な月に向かって眠る前のお話をねだりました。可愛らしいおねだりに冷たい光を放つ御月様もにっこりと微笑んで、子猫が眠るまで一つと言わずいくらでもお話をしてあげましょう、と約束してくれたのでした。

 冷たくて優しい光を浴びせながら青い御月様が形の良い薄い唇で語って聞かせたのは、遠い森にずっと独りきりで棲んでいる一匹の優しい化物のお話。そのお話はとても短くて、とても長いものでした。眠かったはずの子猫は食い入るように御月様を見上げ、一言も聞き漏らすまいと窓枠に爪を立てたままそのお話を聞いていました。そして誰にも顧みられることのない、哀しくて、優しい、独りぼっちの化物を想って黒い子猫は真っ赤なまあるい眸から、ひとしずく、透き通ったまあるい涙を零したのでした。

「待っていて。私が行くから。きっと、そこまで行くから」

 子猫はそう呟くと大きな旅行鞄を取り出して荷造りを始めました。優しい化物が、ただひとりきりで、寂しい想いをしている姿を想像した子猫はいてもたってもいられなかったのです。

 そして、夜が明けるのを待たずに大きな鞄を抱えた子猫は旅に出ました。

 いくつもの山を、谷を越え、通り過ぎていった街のあちこちで不吉な黒猫だと罵られ、石を投げられても、それでも子猫は歩き続けました。ただただ、ひたすらに歩き続けたのでした。御月様が寝物語に、と聞かせてくれた大きな暗い森を目指して、子猫は休むことなく歩き続けました。理由もなく嘲笑う笑い声も、口汚く乱暴に罵る言葉も、力いっぱいに投げられた石も、子猫はちっとも痛いと思いませんでした。言葉の刃よりも、投げられる石よりも、この世界には、もっと、もっと、痛いものがあるのだと屋敷の中から出たことのない小さな子猫は知っていたのです。


 歩いて、歩いて、どれほどの時が経ったのでしょう。冴え冴えと青かった御月様が柔らかな黄色に染まってしまう頃、町並みは遥か彼方に消え暗い森の入口が見えてきた、その時でした。

「小さな可愛い子猫さん、そんなに急いでどうしたの?」

 空の上からそんな声が子猫に向かって投げかけられました。

 声がした方を見上げると大きな赤い月を背に闇色の鴉が一羽、眼を閉じたまま、けたりと一つ笑いました。後ろから来ていたはずの御月様が何時の間に前に回って赤く染まったのか不思議に思った子猫が振り返ると、子猫の後ろには柔らかな光を放つ黄色いお月様がいました。けれども真正面の鴉の後ろには滴り落ちる血の様な光を放つ真っ赤な御月様がいるのです。二つの御月様にどうしたことかと首を傾げる子猫のことなどどうでも良さそうに鴉は艶やかな黒髪が零れ落ちる細い肩を竦め、笑みの形に唇の端を吊り上げてひどく優しげな、砂糖菓子の様に甘ったるい声音で囁いたのでした。

「この森にはおぞましい化物がいるの。悪いことは言わないわ。さあ、御帰りなさいな」

「でも、私はその化物さんに逢いに来たの」

 黒い子猫の言葉を聞いた鴉はやっぱり眼を瞑ったまま、形の良い細い眉を顰めると真っ黒な翼をばさりばさりと広げました。唇の笑みは柔らかく声音は優しいはずなのに、どうにも嫌な感じがして子猫はそっと目を伏せて溜息を吐きました。

「嗚呼、なんて穢らわしくて不吉なことを言うのかしら。あんな、おぞましくて生きる価値すら見つからない化物に惹かれるなんて、やっぱり黒猫は駄目なのね。嗚呼、おぞましいったらないわ」

 鴉の言葉にまあるい眸を見開いて見上げる子猫の顔の上、後ろも振り返らずに飛び立った鴉の背から、けたけたという笑い声と一緒に黒い羽根がひらりと一枚降ってきました。子猫の頬を撫でるように滑り落ちた黒い羽根はそのまま地面に落ちて、拾い上げようとした子猫の手の中でざらりと砂の様に崩れてしまいました。

 不思議なことに鴉が飛び去ってしまった後、真っ赤な御月様は何処かへ消えて姿が見えなくなりました。共に旅をしてきた黄色い御月様と、鴉の背を赤く照らしていた御月様。二つの御月様は子猫に何を見せようとしているのか、それは子猫にはわかりません。けれど、胸がざわざわと落ち着かなくなりました。そして、飛び去った鴉の言葉を思い出しながら、子猫はとても急いた気持ちで暗い森の中へと歩き始めたのでした。

 森の中はとても暗かったのですが、猫にとっては暗闇も敵ではありません。大きな瞳で見回せば、はっきりと森の様子が窺えました。森の奥へと繋がっている細い道を辿りながら、子猫は傷付いた身体を引きずる様に歩いておりました。もうすぐ逢えると思うと大きな荷物も傷付いた身体も重いとは思えず、引きずる様な足音もどこか軽いものでした。とくとくと小さな心臓が跳ねる音まで聞こえそうな程に静かな森の中、唐突に聞き慣れない音が響きました。

 ぺたり、ぺたり。

 その奇妙な音はすぐ後ろから聞こえてきました。吃驚した子猫が立ち止まると子猫の後ろから真っ白な子兎が黙ったままゆっくりと子猫を追い抜いて行きました。

「あなたはだあれ? 何をしているの?」

 我に返った子猫が慌てて問いかけても子兎は何も答えずに背中を向けたまま、真っ白い包帯でぐるぐると目を塞ぎ、遠くの物音も良く聞こえるはずの耳を伏せて、跳ねもせずぺたりぺたりと歩いているだけ。どうしてそんなことをしているのか、子猫には全然わからなかったのですけれど、なんだかとても嫌な気持ちになりました。何度問いかけても子兎はただ歩くだけです。どんなに声を張り上げてみても、その言葉さえ、届いているのかわかりません。

 ぺたり、ぺたり。

 子兎は誰の姿も見ようとせず、誰の声も聞こうとしていませんでした。ただ、ひたすらに歩いて、歩いて。何処へ辿り着くのかさえわからないまま、自分しかいない世界を彷徨っているのです。もしかしてこの森に住む獣たちは同じようにして過ごしているのかもしれません。そういえば森の入り口で出会った鴉も子兎と同じように目を瞑っていたことを子猫は思い出しました。

 なんて寂しい場所なんだろう。

 子猫はそう思って赤い眼を一つ瞬かせました。この暗い森の奥深くにいるはずの化物は、その優しい姿を見られることもなく、その哀しい声を聞かれることもなかったのですから。

 暗い森は見上げてみても御月様の姿はありません。冷たくて優しい月の光が届かない森の中、子猫はぶるりとひとつ身震いをして、ふたたび歩き始めたのでした。


 どれだけ歩いたのかわからなくなる頃、子猫は森の奥のそのまた奥の奥にある、ぽっかりと空が開けた場所へ辿り着きました。開けた空から覗く御月様が柔らかく冷たい光で子猫を照らし、子猫はその光で探し求めていた姿を見つけることが出来たのです。

 古びた布を幾重にも身に纏い、寂しそうな眼差しで冷たくて優しい御月様を見上げる一つの影。ぼろ布と長く伸びた髪の隙間から垣間見える金色の眼が真っ黒い子猫の姿を捕えると、御月様の様にまあるく見開かれました。子猫は旅の途中で傷付いた身体で懸命に駆け寄ると、大事に抱えてきた鞄の中から、長い永い時をかけて見つけた新しい友達に、長い永い時を共に過ごした古い友達である人形を一つ取り出して手渡しました。

「はじめまして、新しいお友達」

 確かに古びてはいるけれど大切に手入れされて愛された小さな人形です。なぜだかそれは黒くて小さな子猫に、とても、とても、よく似ていました。

 差し出された人形に驚いた化物が思わずそれを受け取って、子猫と見比べて不思議そうに一つ瞬きました。それを見た子猫はにこりと満足そうに笑って、ゆっくりとその場に崩れ落ちていきました。

「やっと、逢えた」

 ぽつりと呟いたのは笑う前だったのか、笑いながらだったのか。

 零れ落ちる掠れた言葉だけが、やけに静かな森にひどく不自然に響き渡りました。

 黒い子猫は知っていたのです。

 あたたかで優しいだけの御屋敷から飛び出して、たった一人きり、見知らぬ街と見知らぬ国へ旅に出た自分がどんな扱いを受けるのかを。そして、それがどんな結果をもたらすのかを。もちろん、旅に出ないことだってできました。あたたかで優しい場所から一歩も動かずに、御月様の話に涙するだけだって良かったのです。

 けれど、子猫は旅に出ることを選びました。

 いいえ、結果を知っていたからこそ、子猫は旅に出たのです。幾つもの山と、幾つもの川と、幾つもの街を越えて。そしてようやく、子猫は化物と出逢うことが出来たのです。

 目の前で崩れ落ちた子猫を抱えて化物は泣きました。小さな細い身体と可愛らしい顔に出来たたくさんの傷跡を抱き締めて、どんな思いをして子猫が自分に逢いに来てくれたのかを化物は知りました。

「泣かないで」

 子猫は小さな声で呟きました。にこりと笑った表情のまま、子猫は化物に頬を摺り寄せてもう一度、泣かないで、と囁きます。

 ほとりと頬に降ってくるあたたかな雫は、傷を癒す薬にはなりません。けれども、まばらに降り注ぐあたたかなそれを、子猫はとても、とても愛おしく感じていました。

 やがて、月がゆっくりと姿を消し、小さくて黒い子猫の赤い瞳が開かれることはもうありませんでした。化物は自分が化物であることを生まれて初めて呪いました。

 自分が化物でなければ。

 またほとりと雫が一つ落ちていきました。

 やっと出逢えた友達だったのに。

 やっと見つけた友達だったのに。

 ほとり。ほとり。

 どれだけ泣いても、どれだけ祈っても、物語のような奇跡が起きるはことなく、子猫の小さな身体は化物の腕の中でゆっくりと冷たくなっていったのでした。


 今日も化物は一人きり、冷たくて優しい御月様を眺めます。

 けれど、化物は独りではありません。小さな人形と共に黒い子猫が遺した心は、化物と一緒に大きな御月様を見つめているのですから。

 ほら、見て御覧なさい。ぼろ布に覆われた化物の隣を。綺麗な布をくるりと巻かれた黒くて小さい人形があなたにも見えることでしょう。暗い森の奥の奥の、そのまた奥の、ずっと奥、化物は子猫の帰りを待っています。未だ見ぬ友達ではなく、大切なものをくれた大切な友達の帰りを、ずっと、ずっと待っているのです。

 そしていつか、長い、永い時が過ぎた森で黒い子猫と優しい化物が一緒に大きなまあるい御月様を眺める、そんな日が訪れる事ももしかしたらあるのかもしれません。

 全てを知るのは優しくて冷たい、大きな大きなまあるい御月様だけです。


 もしも、あなたが黒くて小さな子猫なら暗くて静かな森の奥の奥の、そのまた奥にある空が開けた小さな広場に行ってみて下さい。

 優しい化物が小さな友達と一緒に、ずっと、あなたを待っていますよ。

 そしてあなたが『ただいま』を言ったなら、あの心優しい化物はきっと、心底嬉しそうににこにこ笑って大きな声でこう答えることでしょう。


「おかえり」


 とね。



――それはとても優しくて、とても哀しい御話。

――優しくて哀しい化物と、化物を探して旅立った黒い子猫の物語。

――この長くて短い御話があなたの旅の慰みになりますように。


 話を聞き終えた黒尽くめの旅人はふわりと小さく笑って御月様におやすみを言いました。

 ぴんと耳を立ててはたはたと長い尻尾を揺らし、夜が明けたら旅人は再び歩き出すことでしょう。暗い暗い森の中、旅人を待つ、優しい誰かの許へ。


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