天界へ
――私はこの短い間にどれだけランタナを頼っていたんだろう……。
思えば、彼女に魂を救われたのは一度や二度ではない。私の知識や技術がほとんど役に立たず、何度も迷惑を掛けてしまった。習った槍術でさえ生かすことが出来なかった。見捨てられてもおかしくなかったと言うのに、彼女は幾度となく身体を張り私を守ってくれた。
いつの間にか一緒にいるのが当たり前になりつつあった。既に死んでいる私が生きていると錯覚するほど楽しい時を過ごせたのも、ランタナやティフィーがいたから。
ランタナを救うにしろ、地上を守るにしろ、天界に戻る必要があるのは確かだ。ランタナは私をかばったばかりに深傷を負い、ミューラの手の内に……。何としても彼女を救い出さなければ。いや、救いたいと強く願うのはそれだけではない。理由などない。ただ、彼女を思えば思うほど、脳裏に彼女の様々な仕草や怒った表情が浮かぶ。そしてこの胸の痛みは……。
――ランタナ……。君に会いたい……。
彼女は届かぬところへ去ってしまった。どれだけ叫んでも、あがいても、この場に彼女が現れることはないのだ。胸の痛みがより強くなる。締め付けられたように苦しい。
なぜ一言、好きだと言えなかったのだ? たったそれだけで分かり合えたはずなのに。私は何を気取っていたのだ……! 私は馬鹿だった。ランタナの言う通りだった……!
恥もプライドも意地も捨て、私はようやく立ち上がった。
私自身がどうなろうと、今は関係ない。とにかくランタナのもとへ行かなければ。行って伝えなければ。そんな衝動にも似た思いに突き動かされる。
その時、前方から一つの影がやってくるのが見えた。敵か、味方か……。じっと目を凝らす。
「ボルト様……?」
よろよろとやってきたのはティフィーだった。彼女もずいぶん負傷しているようだったが、私の姿を見つけるなり小走りで駆け寄ってきた。
「あぁ、よかった! ボルト様までいなくなってしまったのかと思って……」
「私を、捜してくれていたのですか?」
「はい。ランタナ様がミューラにさらわれたと知って、すぐにでも追いかけたかったのですが、ボルト様の安否も確かめずわたしだけ飛び立つことは出来ませんでした」
「ありがとう。あなたと再会できただけでも心強いです」
彼女の顔を見て少しだけ、冷え切った心が温まった気がした。私の部下でも僕で(しもべ)もないのに、ティフィーは私を見捨てなかったのだ。だが、直後にその理由が明かされる。
「イフェイオン様から言われていますから。ボルト様を導くように、と」
「イフェイオン……」
「はい」
ティフィーはにっこりと笑った。だが、すっかり見慣れたはずのそれが不安を生む。今置かれている状況に対し、その笑顔があまりにも不釣り合いだからだろうか。私を捜していたのがイフェイオンとの約束だったから? 違う。もっと他の何かが不安をかき立てている。
――もしかして……。
考えを巡らせた結果、私はある事実に気づいた。
ティフィーはこの街のことに詳しい。降り立ったのが冬至祭と重なったのは偶然だったにしろ、過去の経験から祭りの最終日、街や人がどうなるかは承知していた。つまりは、ランタナに酒を飲ませて酔わせ、その間にミューラ率いるクリーガーを呼び寄せて街を攻撃させることは十分に可能だったということ……。
思えばティフィーは最初から私に嘘をついていた。街での生活で気が抜けたせいか、ここ最近では疑うことを忘れかけていたが……。信じるか、あるいは更に疑うか。思いが交錯する。
――天界へ戻るには、ティフィーを頼るより他にない……。ならば今しばらく、彼女の側にいるしか……。
悩んでいる時間はなかった。複雑に絡み合った状況を思うと、尚更ランタナの身が心配だ。
「ボルト様。天界へ参りますか?」
その顔には相変わらず笑顔の仮面が張りついていた。表情からは思惑を読み取ることが出来ない。
「その前に一つだけお願いがあります。あなたにしか、頼めないことなのです」
私は言って、すぐ側の路上で無残な姿をさらす母に視線を送った。ティフィーは初めて驚きの表情を見せた。そしてその場で手を組み、祈りを捧げた。
ティフィーの手によって母の肉体は葬られた。自宅の庭。スイセンの花が密集している前にしようと言い出したのはティフィーだった。敵か味方かはともかく、彼女の行為に対し素直に礼を言う。
「ありがとう。感謝します」
「いいえ。わたしもお世話になりましたから」
そう言ってまた手を組んで祈った。私もその脇で祈る。
――母さんはきっと、仇を取ることを許してはくれないだろう。けれど、ミューラだけは必ずこの手で葬り去る。この魂を賭けて……!
「ティフィーさん。お願いします。私を天界へ導いてください。出来るだけ早く」
祈りを終え、私は決意を込めて言った。ティフィーは黙ったままうなずき、天馬になった。膝を折ってくれたティフィーの背に飛び乗る。彼女はすぐに立ち上がった。
「もう地上へは戻れません。いいですね?」
「はい。お願いします」
もう地上に未練はない。いや、この世の人ではない私に出来ることは地上にはない。
「では、参ります!」
ティフィーはいつもより長い助走をし、宙へ舞った。それから幾度か街の上空を旋回した後高く駆け上がっていった。
不気味なほどに静まりかえった空。太陽の光が遠くの雲間から微かに差し込んだが、すぐに厚い雲の後ろに隠れてしまった。
私が手にしているのはランタナの槍。これから女王と対峙しようと言うのに、直接対決でまったく歯が立たなかった武器で挑まなければならないと言うのは、正直辛い。ミューラと出くわし、魂を差し向けられた場合も同様だ。だが、やるしかない。私に残された武器はこれしかないのだから。
「ランタナ様はご無事なのでしょうか……。とても心配しております」
沈黙に耐えかねてか、ティフィーが口を開いた。
「実は私も気懸かりなのです。ミューラはランタナを人質にすると言ってさらっていきましたが、私が辿り着くまで生かしておくとも思えないのです」
「絶対に助け出しましょう。ランタナ様を失うようなことになれば、フェーエンラントは……」
まるで、ランタナが一つの駒であるかのような言い方だった。彼女の首がクイーンに取られたらゲームセット。ティフィーにとってランタナの存在はその程度でしかないのかと思わずにはいられない。
思いの丈をぶつけるのは簡単だった。しかし、私は喉まで出掛かった言葉を飲み込んだ。ここまで来て地上に逆戻りする訳にはいかない。
その後、互いに言葉を発することはなかった。それぞれが相手の出方を窺っている、そんな気がした。眼下に広がる街が小さく見える。天界はもうすぐだろうか。
その時、ティフィーが唐突に向きを変えた。あまりにも急だったので振り落とされそうになる。
「一体どうしたと言うのです?」
「申し訳ありません。あちらの方角にイフェイオン様の気配が……」
「えっ?」
悪い予感が的中したと思った。このまま敵の只中に誘われ、これまでの苦労も水の泡と化す。そんなイメージが頭の中を駆け巡る。
ティフィーはそのまま速度を上げながらどこかへ向かって飛んでいく。果たしてその先には何が待っているのだろうか。思わず身を固くし、戦うことさえ覚悟して待つ。すると前方に金色に輝く鳥の姿が見え始めた。太陽を彷彿とさせる程に眩しい鳥の背にティフィーは降り立つ。
「イフェイオン様! ティフィーです! ボルト様もご一緒です!」
私を下ろすなり彼女はすぐさま人型になり、鳥の背に乗っていたイフェイオンと抱擁を交わした。そして見つめ合うなり真剣な表情を浮かべる。
「ランタナ様がミューラに……」
「えぇ。何とか助け出さないと、せっかくこれだけの魂を集めた意味もなくなってしまうわ」
イフェイオンの口ぶりもまた、ランタナを道具としてしか見ていないような感じだった。感情が伴わなければ真の救出とは言えない。今の私にはその意味が痛いほどに分かる。自分の医術にうぬぼれ、仲間を仲間とも思わないろくでなしは私一人で十分だ。
「武器を下ろして、ヴォルクト。わたくしたちはあなたの味方よ」
敵意をむき出しにしている私を見て、イフェイオンがそう言った。だが、そう言われて気を許す私ではない。
「私をどこへ連れて行くつもりなのです? 女王のところですか?」
「確かに、向かう先は女王の待つシュロス・ラーベよ。でも、あくまでも女王を打ち倒すため。お願い。信じて」
「信じるべき証拠は?」
「証拠……。それは……」
言い淀むイフェイオン。私はその顔色をじっと窺った。
『何を言っても信じてはもらえぬだろう。だが、お前の見ているもの、聞いたことはすべて真実なのだ。賢しき人間、ヴォルクト・ファーベルよ』
乗っていた黄金の鳥から声がした。どこかで聞いたことのある声。思い出してはっとする。
「まさか、アルゲランダー王……? 馬鹿な。だって王は確かに私の腕の中で……」
『肉体は滅びた。だが、魂はまだ残っていたのだよ。お前と同じようにな』
「そんな……」
たとえそれが王の言葉だったとしても、それが事実だったとしても、急に受け入れられるはずがない。今ごろ現れるなんて卑怯ではないか? 魂が残っていたのなら、なぜ地上が窮地に陥った時、駆けつけてくれなかった? 様々な思いが交錯する頭で、まとまらない考えを言葉にする。
「これが……これが王の望みだとでもおっしゃるのですか? 私には、肉体を失い、魂だけの存在になることが意味のあることだとは思えません。だって、もともと女王に対抗する力をお持ちだったはずなのに、あえて肉体を放棄するなんて」
『人間のお前にとってはそうだろう。だが、フィンスターゼと一体になり、一人の王となるためには肉体があってはならないのだよ。光と闇、善と悪に別れたフェーエンラントは異常なのだ。我が輩はその過ちに千年経ってようやく気づいた。故に、封印していた老いや死を受け入れ、魂だけとなったのだ』
そうまでして自らの犯した罪を償おうとするのは、王が王たる所以か。ずっと気になっていた疑問が解消されるにつれ、語る声の主がアルゲランダー王であるという思いが沸き上がってくる。王は続ける。
『しかし、フィンスターゼの思惑と、この地をあるべき姿に戻そうとする我が輩の計画が一致したのは皮肉なことであった。ヴォルクトとランタナには本当に辛い思いをさせてしまった。許して欲しい』
その言葉から真意を理解するには少々の時間を要した。長い熟考の末、
「……もしや、私がランタナに導かれて天界へやってくることも、女王の使者として差し向けられることもご存じだったのですか?」
女王は私が闇の力に支配されない人間だと知っていたから、あえて殺さずランタナと共に光の国へ行くよう命じた。そして王も、それに気づいたからこそランタナの攻撃を受けた……。
「……ひょっとして、私は導かれるべくして導かれた……?」
言いながら全身が震えるのを感じた。推測が正しければ、はじめから何もかもが仕組まれていたことになる。
「そうよ」
答えたのはイフェイオンだった。
「王の肉体から魂を解放する鍵。それが闇の力に支配されない人間とワルキューレだったの。それに該当するのが分かってからずっと、あなたのことは監視させてもらっていたわ。あなたの死と同時に、わたくしたちの計画を始めるためにね」
「…………」
「ランタナはミスをしたと思い込んでいたけれどそうじゃないの。一時的にあの子の視力を奪ったのはわたくし。その間にあなたの魂を回収し、天界へ連れてきた。それが、あなたの知りたがっていた真実よ」
いつまでも信じようとしない私への当てつけか、イフェイオンは真顔のまま淡々と語った。奇しくもその態度はランタナを思い起こさせた。だが、似ていても二人はまったくの別人。私たちが相容れることはない。
「あなた方が私たちを利用してきたと言うのなら、私もあなたたちを利用させてもらいます。文句は言わせませんよ」
利用されていると分かっていながら従うのは納得がいかない。だったら、それを逆手に取るまでだ。じっと見つめ返すイフェイオンは無言を貫いている。
『よかろう』
私の言葉に応答したのは王だった。
『いかにも人間らしい考えだ。お前にはまだ役に立ってもらわねばならぬ。互いの目的のため、今は協力し合おうではないか』
「さすがは王。話が早い」
そう。敵とか味方とか、信じるとか信じないとか、そんなのは関係ない。私は天界へ行くために彼らを利用する。そして、彼らもまた私を利用する。両者の関係はそれで成立するのだ。
『……イフェイオンよ。お前ならヴォルクトの気持ちも分かるであろう? 今は我が輩の言葉に従い、魂の回収に専念して欲しい。地上に留まる魂がフィンスターゼの手に渡る前に、闇に染まる前に取り込んでおかねばならぬ。我が力を強化するためにも』
「……承知いたしました」
腑に落ちない様子のイフェイオンに王はそう指示を出した。指示を受けた彼女は状況を理解したのかすぐに従い、後方へと飛んでいった。
『さて、ヴォルクトよ』
イフェイオンの姿を見届ける間もなく、王が私に声を掛けた。
『来る戦いに備え、我が輩から授けたいものがある。背中から一本、羽根を抜くがよい。遠慮はいらぬ』
その戦いが想像を絶するものになるであろうことを予感させた。私は、とりわけ長く美しく見えた羽根を抜いた。するとそれはみるみるうちに形を変え、やがて一本の槍となった。
「これは……」
『希望。(ホフヌング)どんな攻撃にも耐え、また鋭い閃光があらゆるものを貫く。今のお前にならその槍も扱えよう。無論、我が輩も力となる』
槍から放たれる眩い光は、死の直前、王の身体から放出したそれを思い起こさせた。それにかき消されるように、私が持ってきたランタナの槍は消滅した。戸惑う私に王が言う。
『ホフヌングの放つ強力な光の前では、いかなる闇も居場所を失うものだ。そして、お前に闇の武器は必要ない』
「……ご自身が闇を恐れているから、ランタナの槍を消滅させたのでは?」
王にとっては闇の武器でも、私にとってはランタナの存在を感じられる唯一の品だった。それが瞬時に消えてしまったのだから、皮肉の一つも言いたくなる。だが王は静かに返答する。
『そう思っても構わぬ。だが、フィンスターゼを討ち、ランタナを救えるのはその武器を持ったお前だけだ。更なる力を手にしたあやつと対峙した時、その槍の力も実感できるだろう』
王の自信に満ちた言い方に、それ以上は言えなかった。内に秘めた思いは、王も私も同じであるような気がしたからだ。
「ボルト様……。あの……」
私たちの会話を黙って聞いていたティフィーが遠慮がちに寄ってきた。
「どうかイフェイオン様をお嫌いにならないでください。すべてを知りながら情報を提供してこなかったのはわたしも同じです。責めるならどうかわたしを……」
「責めるだなんてそんな。互いの考えは分かったのですから、もういいじゃありませんか」
「ですがわたしは、ボルト様とイフェイオン様には仲良くしていただきたいのです」
必死に頼み込む様は、彼女がイフェイオンを慕っているからという単純な理由では説明できない何かを秘めているように思えた。しかし、これ以上問題をこじれさせるのは嫌だった。私は無難な回答をする。
「まぁ、あなたに免じて仲良くやることにしましょうか。これまで何度も助けられましたしね」
「ありがとうございます!」
そして再び笑顔。それが偽りでないことを切に願った。
ふとランタナの顔が思い浮かんだ。こうしている間にも、彼女は笑顔どころか、苦しみの表情をしているに違いない。にわかに焦りを感じる。
クリーガーが地上を襲ってきたと言うことは、フランツが復活したか、ミューラが指揮を執って彼らを操っているかのどちらかだ。フランツとの一戦から地上ではずいぶん日が経っている。連中が再び天界で暴れ回っている恐れは十分にある。私たちがこうしている間にも、天界人たちは戦いの渦に飲まれているかもしれない。
「今、天界はどのような状況なのでしょうか……」
私の問いに、王は落ち着いた様子で答える。
『天界の守りはリューグたちに任せている。しかし、そう長くは持つまい。何せ、一度はクリーガーが地上へ行くのを許してしまったのだから』
「やはり。ではすぐにでも戻らないと」
『出来るだけ多くの魂を集めたいが、どこかで区切りをつけねばなるまいな。そろそろ潮時かもしれぬ』
そう言うと王は鷹のような声で鳴き、イフェイオンを呼び寄せた。彼女はすぐにやってきた。
「お呼びでしょうか、陛下」
『そろそろ天界へ向かうとしようか。ヴォルクトが気に病んでいる』
「分かりました。仰せのままに」
『では、参ろう』
これまでも少しずつ上昇してはいたが、王の言葉の後は一気に高度が増した。あっという間に雲を貫き、天界へ続くあの穴へ飛び込む。渦巻く風に乗ると、風当たりが更に強くなった。
『しっかり掴まっていなさい』
王に言われるまでもなく、私はその背中にしっかりと掴まっていた。その時、イフェイオンが私の手をそっと握った。その手はランタナと同じ温もりを持っていた。
「ラ……」
思わず、ランタナの名を呼びそうになって口を紡ぐ。私の隣にいるのはランタナではない。イフェイオンだ。
おそらく、彼女は王をも利用しているはず。天界で意志を持つ数少ない人物である彼女が、天界を救うという大義のために動いているとはどうしても思えなかった。
じっと見つめていると、イフェイオンが静かに言う。
「何があっても自分の使命を全うするの。ランタナを助け出すのよ、ヴォルクト。これまで医者としてその知識と技術を駆使し、多くの人命を救ってきたように、あなたにはあなたにしか出来ない役目があるはずよ。女王のことはわたくしとアルゲランダー王に任せて。クリーガーたちはリューグたちが必ず止めてくれるわ」
それはほんの少し前まで私が貫いてきた信念だった。しかし今は彼女の言葉を否定しなければならない。
持っている能力を発揮できればそれでいい、と言う考えはもうやめたのだ。たとえどんな壁が立ちふさがろうとも、私は決して諦めず、格好もつけずによじ登り、壁の向こう側へ辿り着く。卑怯と言われても構わない。それでランタナを救えるのなら、私はどんなことでもやってみせる。
ザウバーブルン山の頂から一気に飛び出した私たちの目に飛び込んできたのは漆黒の空。そして、闇に染まった死者の魂たちだった。光という光は一切失われ、王の放つそれだけが異質な存在だった。
「闇がこんなにも深く……」
それ以上の言葉が出ない。
「陛下、急ぎましょう」
イフェイオンが私の心を代弁するかのように言った。
『分かっている。……感じるぞ、フィンスターゼのやつがどんどん強大になっていくのを……』
「…………」
私は思わず、手にした槍を強く握りしめる。ランタナの身が安全かどうか、それだけが気懸かりだった。
王は山頂から急降下し、雲の下へ降りた。一面に広がる、黒と白のうごめく何かが見える。
「両国のクリーガーたちが戦っているんですね……」
ティフィーがつぶやく。ついにクリーガー同士がぶつかったのか。それにしても戦士の数が半端じゃない。今までどこにいたのかと思うほど、後から後からやってくる。
『クリーガーを永遠の眠りにつかせるためにはそれぞれ対極にあるもの、闇なら光、光なら闇で作りし武器を用い、尚かつ核を一突きにせねばならぬ。心して掛かることだ』
戦いや争いを嫌うはずの王からそのような言葉が飛び出したことに驚きを感じる。にわかに緊張と重圧がのしかかる。だが、王はすぐに言葉を補う。
『なに、お前は前だけを見ていればよい。行く手を阻む者がいればその時は、己が信念に従い、武器を向けるかどうか決めればよいのだ』
まるで私の心情が分かっているかのような口ぶりだった。私の中の迷いを、王は見抜いているのだろうか。私自身が恐れている「魂の消滅」をこの手で相手に与えることに、心のどこかで躊躇っている、と……。だが、ランタナを助けるためにはいかなる壁も困難も越えていかなければならないのだ。
顔を上げ、遠く前方の闇を睨む。すると。
「どうやら、早速試練が訪れたようですね……」
私が最も傷つけるのを躊躇う敵が立ちふさがっていた。
「フランツ……」
天馬を乗りこなし、待っていたとばかりの表情を浮かべている。嫌な顔だ。周りに仲間らしき者の姿は見えない。一人で乗り込んで来たのだろうか。王はフランツの側まで飛ぶと、その前で旋回し、その場に留まった。
「ここから先へは行かせないぜ、ボルト」
フランツはこちらをじっと見据えて言った。私もその目を見つめ返す。
「あくまでも私の前に立ちはだかると言うのなら、私も容赦はしません。今度こそ、君を討つ!」
「この前はちっと油断したが、今度はそうはいかないぜ。それに、今の俺は少しばかり気が立ってるんだ。手加減は出来ない」
「手加減など必要ありません。勝負はいつだって全力! 君がいつも言っていた言葉、忘れた訳ではありませんよ」
「けっ。その言葉、あの男に聞かせてやりたかったよ」
そう言うとフランツは、腰から下げていた剣を構えた。前回戦った時は新しい剣を実装していたはずだが、彼の手にあるのは見慣れたディサローノ国製の大剣だ。
「新しい剣はどうしたのですか? 破壊力の面から言えば、あちらの方が遙かに勝っているはずです」
「馬鹿を言え。あんな重たい剣で空中戦が出来るか。それに、あの男の作った剣など信用できん。お前相手ならこの剣で十分だ」
「そうでしょうか? 私とて、地上にいる間何もしていなかった訳ではありませんよ」
私は王から受け取った希望の槍の穂先をフランツに向けた。さすがのフランツも表情を曇らせる。
「物騒なもんを持ってるなぁ。すげぇ輝きだ。とんでもない力を秘めているのが伝わってくるぜ。なるほど。こいつぁ面白い!」
そう言うなり、フランツはこちらへ向かってきた。
「ボルト様、わたしの背にお乗りください! 戦いましょう!」
ティフィーはすぐに天馬の姿となり、出陣を促した。隣にいるイフェイオンは既に翼を羽ばたかせて宙を舞う。
「わたくしも戦うわ。ヴォルクト」
「気持ちはありがたいですが、この勝負だけは私一人でやります。手を出さないでください。王と先を急いでくれても結構です」
一対一の勝負。先の戦いでもそうだった。彼の気持ちが変わっていたのなら、きっと一人で乗り込んで来てはいないだろう。
彼女は少し悩んだ後で言う。
「わたくしは残るわ。あなたにもしものことがあったら、その時はわたくしが仇を取る」
「縁起でもないことを言うのですね。大丈夫ですよ。槍の扱い方なら、ランタナからみっちり指導を受けましたから」
「…………」
彼女はまだ何か言いたげだったが、私に対してはそれ以上のことは言わなかった。代わりに王に向かって言う。
「陛下。先をお急ぎください。一刻も早く女王を……!」
『うむ。ここは頼んだぞ。決して、命を粗末にするな』
「御意にございます」
イフェイオンとティフィーは王の背から飛び降りた。王は数度旋回をすると、速度を上げながら闇の城、女王のいる場所へと飛んでいった。
「さぁて、戦闘開始と行こうぜ!」
かけ声と同時に、フランツが天馬ごと突っ込んで来た。ティフィーがそれを躱して難を逃れる。
「相変わらず、逃げ足だけは達者な野郎だ」
勝負をしろと言わんばかりにフランツは言った。まだ少年だったころ、フランツと剣を交えた時もこんな会話を交わした気がする。
「フランツ。君こそ変わらないのですね」
「なにっ?」
「一時は、女王に心を支配されてしまったと肩を落としていましたが、今の君は地上にいたころと変わらぬ闘志に溢れている。それに、敵と相対する時は必ず一対一。その精神を持っているクリーガーは、おそらく君しかいません」
「何が言いたいんだ」
「……改めて、君のことも救いたいと思ったまでです!」
目的はどうであれ、女王がフランツにかつての記憶を戻してくれたことに私は感謝していた。こうして互いの名を呼び、思い出を共有できる。同じ戦うならこちらの方がいい。
「下らないことをほざくな! 消えて後悔しろっ! であぁぁぁっ!」
私の発言を切り捨てるようにフランツは剣を振り抜く。私は槍の柄で攻撃を防いだ。
「そう簡単にはやられませんよ!」
フランツの剣を押し返し、反撃する。が、フランツも刀身でそれを受け止め、しばらくの間攻防が続く。
「ほう。少しはやるようになったか。それとも、その槍の力か?」
「私の力、と思いたいところですが……!」
近づいては離れ、離れては近づき武器を交える状態が続いている。
剣と槍とでは、柄のリーチが長い分、槍が有利。しかしここは空中。ティフィーはずいぶん私の意志を反映して動いてはくれるが、百パーセントという訳にもいかない。動きも制限される。それはフランツも同じらしく、決め手を欠いているようだ。
「このままでは互いに動きにくい。地上で戦うという選択もありますが」
私はあえて、フランツに有利と思われる戦場での戦いを提案した。彼は騎士団の一員だったが、本来は騎馬戦より白兵戦を得意とする戦士だ。全力で戦うことを信念として掲げる彼にとって、このまま力を出し切れずに勝ったとしても満足はしないはずだ。
しかしフランツは苦々しい表情で言う。
「そうしたいのは山々だがな。こっちにもいろいろ事情があるんだよ。地上では他の連中が戦っているが、やつらはもう俺の命令を聞かなくなっちまってる。一対一の戦いを邪魔されたくはないんでな。不本意だが、このまま戦うしかねぇんだよ」
「それはどういう……?」
「お前に言う必要はない!」
フランツは吐き捨てるように言った。先ほどから彼の様子がおかしいのは、この戦い以前に何かあったからに違いない。繰り出す技にも雑さが目立つ。彼を倒すなら今しかない。
「ティフィーさん。フランツの右手に抜けてください。一気に勝負を仕掛けます」
「はい」
私は小声でつぶやいた。ティフィーも同じ声量で答えた。
「フランツ! 覚悟っ!」
私は槍を力強く握りしめ、ティフィーの走る勢いのままフランツのもとへ突っ込む。
「望むところだぁっ!」
迎え撃つ彼もまた、天馬を走らせる。
――この一撃、傷を受けた方が負ける……。
槍を持つ手に力が入る。
「だぁぁぁっ!」
「でぇぇぇぇいっ!」
互いに渾身の一撃。躱す余裕はない。
槍を突き、確かな手応えを感じて向き直る。だが。
「くぅっ……!」
脇腹を激しい痛みが襲う。フランツの攻撃が先に決まっていたのか……?
「俺の勝ちだな、ボルト」
そう言う彼の腕からは鮮血が流れている。だが、まったく痛みを感じている様子はない。やはり、にわか仕込みの槍術では無理だったのか……。
その時、フランツが空いている左手で傷を押さえた。
「槍のやの字も知らなかったお前にしては、上出来だったよ。さすがの俺も少々応えた。だが、傷を負ったお前を仕留めるくらいの余力は残ってる。かつての友に敬意を表して、魂の核を一撃で貫いてやろう」
痛みをこらえるようにぐっと剣を握り直すフランツの目つきは真剣そのものだった。
「ボルト様……」
ティフィーが心配そうに名前を呼んだ。
「大丈夫ですよ、ティフィーさん。これしきの傷で負けを認める訳にはいきません。もう一度正面から勝負します」
「よろしいのですか……?」
「えぇ。お願いします」
そう言って再び槍を構える。フランツは嬉しそうに笑った。
「そうだ。戦場に降り立った者は誰しもが戦士。最後の最後まで戦う姿勢を持つ者が勝利する。お前にも分かってきたようだなぁ」
「戦う相手の心情を察する能力くらいはありますよ。さぁ、掛かってきなさい!」
「ならば、遠慮なく行くぜ!」
フランツが天馬を走らせる。私は向かい来るフランツを待ち構えた。脇腹の傷が痛み、槍を構える腕が下がる。フランツがすぐ目の前にまで迫る。
――くっ……。もう少しだけ、持ち堪えてくれ……!
だが、集中力を欠いた私の攻撃は一瞬遅れた。
「もらったぁ!」
その隙をフランツが突く。狙いは胸の中心。身体をひねっても躱しきれない……! 思わず身を固くする。
「なにっ?!」
だがその瞬間、フランツと私の攻撃は止まった。戦いを阻む者が現れたからである。
「何者だっ?!」
とどめの一撃を阻止されたフランツは叫ぶように言い、辺りを見回した。そこへ嫌らしい声と共にその人物が姿を現す。
「クヒヒヒ。せっかくの戦いの最中で悪いがね。その男を消すのは女王陛下と決まっているんだ。勝手なことをされちゃあ困るんだよね」
「ミューラ! 貴様、またしても俺の邪魔をするつもりか!!」
「また、とは何のことかな?」
「とぼけるな! 俺が負傷している間にクリーガーを従えて地上を襲ったのはお前だろう!」
「勘違いするな、リーヴァイ君。オレ様は女王陛下の命を受けて事を実行したに過ぎないんだぜ。クリーガーの指揮権を与えてくださったのもな」
「ふざけるな!」
フランツがミューラを攻撃しようとすると、先ほど戦いに水を差したものがミューラをかばうように立ちはだかった。いくつもの黒い塊。それは死者の魂だった。
「クヒヒヒ。これこそ、オレ様の最強の武器にして最強の盾! さぁ、どんどん攻撃してこい。こいつらが全部受けてくれる! その身体でな!」
周りを見ると、数え切れないほどの魂が私たちを取り巻いていた。さすがのフランツもその手口に怒りを感じているようだ。
「自分に力がねぇからって、弱い者を盾にしようなんざ、外道のすることだぞ!」
「外道でも何でも構うもんか。これがオレ様のやり方なんだからな! もしてめぇもオレ様相手に戦おうって気を起こしてるんなら、容赦はしないぜ? 何なら、てめぇら二人の知り合いの魂を盾にしてやろうか?」
「くっ……。馬鹿にするのも大概にしろ!」
「いいねぇ、その顔。クリーガーの怒りのエネルギーってのも悪くないよ。でも、火に油を注いだらもっと旨くなるかもしれねぇな。面白そうだからいっちょ、やってみるか」
そう言うと、ミューラはローブの下からほっそりとした腕を覗かせ、人差し指を手前に曲げた。どこからともなく魂が飛んできてミューラの側で止まる。程なくして、ただの塊だった魂が、徐々に人の形を取り始めた。
「なっ……!」
「くっ……!」
私とフランツは同時に声を上げた。私の母と、フランツの親兄弟の姿。
身体の中で理性を抑制する糸がぷつりと切れる音がした。途端に言葉が溢れ出る。
「……人の命を、存在を何だと思っている!! 私たちはお前の道具じゃない! 命令も支配もされない! それぞれに意志を持っているんだ!」
「クヒャヒャヒャ! 最高だぁ! こうしたらもっと怒りをぶつけてくれるか? あぁ?」
母の肉体を切り裂いた時と同じく、ミューラはローブの下から二本の剣を取り出し、人の形を取った魂の首もとにそれを当てた。もう我慢の限界だった。
「ティフィーさん。あの男のもとへ走ってください。早く!!」
「ですが……」
「お願いします。私はこの感情を直接あの男にぶつけなければ気が済まないのです。でなければ私は……」
――自分が自分でなくなってしまいそうだ……。
「ヴォルクト。駄目よ。あの男の挑発に乗っては。落ち着くのよ」
一人冷静なのはイフェイオンだった。今にも飛び出そうとする私の隣にすっとやってきて、左手でティフィーの進路をふさぐ。
「イフェイオン。察してください。私の気持ちを」
「分かるからこそ言っているのよ。ミューラはあなたの負のエネルギーを貪ろうとしているだけ。それこそやつの思うつぼよ」
「では、どうすれば!」
「お前が行かないのなら、俺が行くまでだ!!」
飛び出したのはフランツだった。彼を止める者は誰もいない。
「無駄なことを! 死霊たちよ! 壁となれ!」
ミューラは手元に引き寄せたフランツの家族を壁にする。
「クヒヒヒ! これで攻撃は出来ねぇ!」
豪快に笑うミューラ。フランツは既に剣を振り上げている。このままでは自分の家族を……! 私は思わず目を伏せた。
「俺を舐めるなあぁぁぁっ!」
フランツは一気に剣を振り抜き、ミューラの脇を駆け抜けた。
「な、何でだっ?! 魂の壁が……効かない、だと?」
恐る恐る顔を上げると、ミューラは右腕をばっさりと切り落とされていた。フランツの家族諸共に。
「なんてことを……」
悲惨な光景をまたも目撃してしまった。母が殺される場面を思い出し、吐き気を催す。
ミューラは喘ぎながらフランツを凝視していた。
「な、なぜ躊躇わなかったんだ……! てめぇの家族だぞ?! それとも、殺したいほどの恨みを持っていたのか……?!」
「馬鹿か、お前は。死んじまった家族の思い出にしがみついてたって何にもならねぇだろうが。俺にも、家族にも、もう共に歩む未来はねぇんだよ。だったらそこにいるのは、ただの死霊だ。俺がこれまで斬り殺してきた人間よりももろい、壁と呼ぶにはお粗末な存在でしかない」
「……クヘヘ。ど、どうやらオレ様は、敵にする相手を間違えちまったらしいな。クリーガーは感情を忘れた兵器。情に訴えても、そりゃあ意味がない訳だ。ならば……」
ミューラは残された方の手で私の母をたぐり寄せた。身を乗り出す私を、再びイフェイオンが制する。
「やっぱりこの魂を使うしかねぇな。ファーベル君の絶叫はたまらなく旨かったからな。もう一度じっくりと味わわせてもらおう」
「使う、だと……?」
嫌な予感がした。ミューラの選んだ言葉がやけに引っかかった。
「これぞ、最低の悪行さ! せいぜい苦しめ! ……行け、てめぇの息子を食らうのだ!!」
「なっ……?!」
身じろいだ瞬間、魂となった母は仮初めの肉体を与えられたまま私のもとへすっと飛んでくるや、自在に形を変えられる身体で私を締め上げた。そして凶暴な魂が持つ鋭い歯で私の全身をかじり始めた。
「うあぁっ!!」
「ヴォルクト! 今助けるわ!」
「おっと、そうはさせねぇ!」
母の魂を引きはがそうとするイフェイオンの背後から、音もなくミューラが迫ってくる。
「だ、駄目だ! イフェイオン、私に構うな!」
「でも!」
「クヘヘヘ! みんなまとめてくたばれぇ!」
ミューラが剣を突き出した。私は苦痛と申し訳なさとでいっぱいだった。こんな時に情けなくも涙が溢れ、目の前がかすんでいる。
「これで、終わりだぁ!」
ミューラの声が耳に届いた。直後。瞬く間にイフェイオンの顔がゆがみ、身体を絞める力が緩み、痛みが肩を貫いた。
「ぐあぁぁぁぁぁっ!!」
悲痛な叫びを上げたのは、私でもイフェイオンでも、母でもなく、ミューラだった。
「き、君がやったのか……?」
ミューラを貫いた剣はフランツのものだった。目の前の獲物に集中していたミューラはフランツの攻撃に気づかなかったのだ。
だが彼の攻撃は、同時にイフェイオン、そして私をも傷つけた。フランツが剣を抜くとイフェイオンは私にもたれ、ミューラは力なく落ちていった。母の魂は、影も形もなくなっていた。
「イフェイオン! しっかりしてください……!」
「わたくしは大丈夫……。ヴォルクトの魂が、無事でよかった」
私にしがみついていた彼女は、何とか再び翼を動かし始めた。
「フランツ……」
イフェイオンが自力で飛べることを確認した私は、目の前の男を睨み付けた。フランツも私をじっと見ている。
「失望しただろう? お前はさっき、俺は昔と変わらねぇとほざいたが、とんだ誤解だよ。俺はフェーエンラントで最強のクリーガーになったんだ。血も涙もねぇ、戦士にな」
「…………」
何も言い返せなかった。彼自身が、私の言いたいことを言ってしまった。
「俺を消すか、ボルト。恨みに任せてその槍で」
「…………」
「ふっ、その様子じゃ駄目だ。俺の方がやり甲斐がない」
そう言うと、フランツは天馬を操り、私たちに背を向けた。思わず声を掛ける。
「とどめを刺さないのですか、フランツ」
「はっ、そんなに消えてぇのかよ? 言ったろう? やり甲斐がない。それよりも、俺は女王陛下のお役に立たなければならない。側近だったミューラは殺しちまったからな」
「フランツ……!」
私の呼びかけに振り返ることなく、フランツは天馬を走らせ、シュロス・ラーベの方角へ去っていった。
救えるものならそうしたいと思った。その男が、自らの手で家族、そして私の母の魂を切り裂いた……。ミューラと同じように、何の躊躇いもなく……。あれが、真のクリーガーの姿なのか……。
「あっ……」
「イフェイオン!」
フランツが去ると、イフェイオンがぐらりとその身を揺らした。私はすぐさま身体を支えた。
「ありがとう、ヴォルクト……。ちょっと目眩がしただけ」
「イフェイオン様! わたしの背にお乗りください! これ以上飛び続けるのは無理です!」
「えぇ、そうさせてもらうわ」
ティフィーが叫ぶように言い、イフェイオンがそれに従った。横座りで腰掛けた彼女は、私の背に身体を寄せた。
貫かれた傷口をずっと押さえている。私の方は幸いにして傷が浅かったが、彼女は私のために深く傷ついてしまった。
果たして敵である彼女が、危険も顧みずに私をかばうだろうか。ランタナに通ずるものさえ感じたその行為を、まだ疑う余地があるだろうか。
「すみません。今、治療を……」
道具袋から傷薬を取り出して塗ろうとすると、彼女はそれを拒んだ。
「わたくしは大丈夫。それよりも先を急ぎましょう。ランタナを助けたいんでしょう?」
「それはそうですが……」
「ティフィー。前へ進んで。王と合流しなくちゃ」
イフェイオンはそう言うなり、ティフィーの背から降りて自力で飛び始めた。
――なぜ君はそんなにも強くいられるのですか……。
喉の手前まで出掛かった言葉を辛うじて飲み込む。こんな情けない言葉、口が裂けても言えない。
「ティフィーさん、行きましょう」
かつての主人を気遣う彼女に出発を促す。イフェイオンの気持ちを無駄にしないために、私も気丈に振る舞うしかなかった。