地上へ(2)
港は多くの商船が出入りしていて一年中賑わっているが、そこからほど近い海岸は冬のこの時期、ほとんど人影がない。集中して練習に励むには絶好の場所だった。
槍術の稽古は毎日行われた。もちろん終日という訳ではなく、午前と午後のどちらかに一回、数時間だけと定め、空いた方は私がランタナの教育をする時間に充てた。時々母の買い物に付き合って日中の稽古のない時もあったが、そんな日は夜の稽古が待っていた。
「ほら、そうじゃないだろっ! あたしがこっちから攻撃したら、お前はあたしの槍を払う! 基本中の基本だよ?」
「分かってはいるのですが……」
「隙だらけなんだよ。こうして話してる間にも……。てあぁっ!」
「うっ……!」
槍に見立てた長い棒が私の胸を突く。勢いよく後ろに倒れ込む。
「まったくっ……」
ランタナが近づいてきて、私の顔をのぞき込む。
「いい? 何度も言うけど、槍術ってのは突くだけじゃないんだよ。攻める気持ちが大事なの! あたしが声を出しながら突進して行っただけで迫力があるだろ? でもお前にはそれがない。もし攻めの姿勢で臨んでいれば、あたしの気迫にも負けることはないはずなんだよ」
「そうでしょうか……」
「そうだよ! 強い精神力こそ力の源だ。弱気でいたら、いつまで経っても強くはなれないぞっ! さぁ、立って。もう一度!」
ランタナの差し出した手を取り、立ち上がる。我ながら情けない。だが、ここでやめる訳にはいかない。私は気合いを入れ直し、教わった通りに槍を動かした。しかし。
「甘いっ!」
突っ込んでいった長棒が躱され、逆に彼女の棒に身体を巻き取られて動きを封じられる。
「言われた通りにしろって誰が言った?! もう一度だ!」
「はい……」
この日も、日が暮れるまでみっちり稽古は続けられたのだった。
「だいぶコツが掴めてきたみたいだね。今日はここまでにしようか」
へとへとになって突っ伏している私を見下ろしてランタナは言った。
「大丈夫? ちょっとやりすぎたかな」
彼女は手を差し出し、私を引き起こしてくれた。その手はいつものように温かかった。
水平線に夕日が沈もうとしていた。地面に長く伸びる影はランタナ一人分しかない。それを見て、私の実体はないのだと言うことを痛感させられる。
「ねぇ、ボルト。もっとあたしに、心をちょうだい」
ランタナは海風に吹かれながらそう言った。
「心、ですか? どうしたのです、突然」
思いがけない発言に少し戸惑う。ランタナは続ける。
「ボルトはただ優しくて、知識を教えてくれるだけ。それじゃあ街やお店の人たちと同じだよ。ずっと一緒にいるのに、お前の心はいつも遠いところに行ったきり。もっとあたしを見てよ。あたしはボルトからいろんな心を……。表情や感情を教わりたいんだから」
はっとさせられた。私は初めて彼女をじっと見据えた。
すっと通った鼻。綺麗な二重まぶたに透き通った青い瞳。ふっくらとしたピンク色の唇。肉付きはよいが、女性らしい丸みを帯びた身体。その容姿さえ私はちゃんと見ていなかった。恥じらいがあったから? いや、違う。私こそ、彼女のことを異性として見ていなかったのだ。それに気づいた途端、彼女が急にしおらしく見え、仕草の一つひとつが気になり始める。
ランタナは大きな瞳でまっすぐに私を見つめた後、視線を逸らした。
「ボルト、こんな状況になっても、まだ転生を諦めきれてないんでしょ。言わなくても分かるよ。出来れば、あたしがその願いを叶えてやりたいと思う。でもね。側にいればいるほど、もっと一緒にいたいって思うの。変だよね、あたし……」
その表情は戸惑いのようでもあり、不安を感じている風でもあった。彼女自身、まだ胸の内の感情を理解できていないに違いなかった。
彼女の戸惑いは、私の心を大きく揺さぶった。誰かからこんな風に、心の開示を求められたことはなかった。同じ時間を共有したいと言われたことも。嬉しくないはずがない。
ランタナに新たな感情を植え付けるだけなら、本能の赴くままに動けばいい。だが私の揺れる気持ちがそうさせてくれない。そして、こんな時どう言えばいいのかも分からなかった。
私はしばらく考え込んで、ようやく当たり障りのない言葉を口にする。
「……感情とは常に人の心を悩ますものです。それを言葉にすれば、時に相手を傷つけ、永遠に失うことだってある」
「でも、黙ってたら何も伝わらないよ! ……あたしはボルトのこと、もっと知りたいの! 側にいて役に立ちたいの!」
「ありがとう。君の気持ちは素直に嬉しい。でも……」
――私の魂は近い将来必ず消える。君が知ろうと知るまいと……。でも、知ればきっと別れが辛くなる。だからこれ以上私に干渉しないでくれ……。でないと私は君のことを……。
気づけば日が落ち、辺りは暗くなっていた。私のどうしようもなく情けない顔は、奇しくも暗闇で隠された。
「……帰りましょう。母とティフィーさんが待っていますから」
無理やり話題を変える。
「ボルトの馬鹿!」
ランタナはそう吐き捨てると、私に背を向けてさっさと歩き出してしまった。
「……すみません。こんなことしか言えなくて」
聞こえないようつぶやき、彼女の後を追った。
翌日。冬至祭は最終日を迎えた。街は朝から大騒ぎだ。神の使いに扮した男女の若者がペアを組んで夜まで踊る習わしで、最後まで踊りきると相手の頬にキスをすることが出来る。繁栄を祈願する祭りならではの儀式と言えよう。その瞬間、祭りは最高潮を迎え、多くの人々は疲れ果てるまで騒ぎまくる。ちなみにこの街では九月、十月に誕生日を迎える者が多い。理由はあえて言う必要はないだろう。
私たちも昼は疲れ果てるまで踊り、夜は夜で新たなカップルが誕生する瞬間を目の当たりにした。この街には長くいたものの、夜まで参加した経験がなかった私は人々の興奮具合に圧倒されていた。人混み自体が初めてのランタナに至っては、人数の多さに酔い始める有様だ。ティフィーだけが祭りに慣れていて、他の人と一緒に歌ったり踊ったりして楽しんでいる。
「夜の冬至祭には何回参加を?」
半ば叫ぶように言う。でないと声が通らない。ティフィーはにっこりと微笑んで言う。
「正確には覚えていませんが、ざっと三十回ほどでしょうか。ボルト様の年齢よりは多いかと」
「おや。年齢を教えたことはなかったはずですが?」
「そうでしたっけ?」
彼女は祭りの雰囲気そのままに、戯けて舌を出した。それで誤魔化したつもりだろうか。
「この際、あなたのことをいろいろ聞かせてもらいたいものですね。機嫌がいいうちに」
「構いませんよ。では、場所を変えましょうか。話をするにはここは騒がしすぎますから」
儀式が執り行われた王宮前広場を離れた私たちは、細い路地へと逃れた。
「やれやれ。さすがに疲れましたね」
思わずそんな言葉が飛び出す。肉体を持たない私が疲労を感じるというのも変な話だが、どうやら魂がその感じを覚えているらしい。案の定、ランタナが指摘する。
「魂の癖に、よく言うよ」
「言われると思っていましたよ。けれど、疲れるものは仕方がありません」
ランタナの言うこともずいぶんと分かってきたような気がする。前もって予想していれば、受けるダメージは少なくて済む。反論のしようもあるというものだ。
「ボルト様。あそこのお店に入りませんか? ゆっくりお話が出来るかもしれませんよ」
唐突に、ティフィーが一軒の寂れたバーを指さした。こんな通りにバーがあったとは知らなかった。
「私よりこの街に詳しいのですね」
「いいえ。そんなことはありませんよ」
「あなたが飲みたいのなら構いませんよ。魂の私は飲めませんから」
「では、参りましょう!」
率先して店へ向かうティフィー。天界では補佐役に徹していた彼女が、今ではランタナを従えている。その光景が何ともおかしかった。
店内は比較的静かで、落ち着いた様子だった。ティフィーは迷わず一番奥の席を選んだ。飲み物も適当に選んで注文する。実に手際がいい。
「『グランツ』……。国産ウィスキーのロックですか。なかなか通ですね」
「よいものは薄めずに飲むのがよいと店のマスターに教わって以来、これの味にはまってしまって」
「なるほど。それをランタナにも勧めようという訳ですね?」
「はい」
オールドグラスに、おそらくはこだわりなのであろう氷が入れられ、琥珀色のウィスキーが注がれる。二つのグラスはすぐにウエーターが運んできて二人の前に差し出された。
ティフィーはほおづえを突いてランタナと向き合い、グラスを掲げて乾杯をする。その様子を見ていると、彼女が天界の人間であることをつかの間忘れてしまう。
「それで、ボルト様。わたしに聞きたいことって?」
ランタナに酒の飲み方すら説明せず、ティフィーは早速本題に入る。彼女の手にするグラスの酒がみるみるうちに減っていく。こんなペースで飲まれて
は聞けるものも聞けなくなってしまう。私は慌てて質問する。
「この街にはどのくらい滞在していたんですか? いえ、そもそもなぜアルディアーナに? イフェイオンがそうしたいと?」
「少なくとも五十年ほどはいたように思いますが。イフェイオン様がこの地で一人の男性と結ばれ、その方が亡くなるまでという長い期間でしたから」
「イフェイオンが人間の伴侶を……?!」
「別に珍しいことではありません。この地に降り立ったワルキューレが人間と結ばれた例は数知れず。ただ、イフェイオン様のように相手が亡くなるまで連れ添うのは珍しいようです。ちなみにわたしは、そこでメイドのようなことをしておりました」
「しかし、五十年も地上にいて、女王への報告はどうするのです?」
「地上での五十年は、天界での二か月に過ぎません。それに、イフェイオン様は定期的に報告に上がっていましたから、咎められることはありませんでした」
そこまで語ると、いつの間に頼んだのか、ウィスキーがなみなみと注がれた新しいグラスが運ばれてきた。彼女はそれを一口飲み、笑みを浮かべる。
「今から百数十年ほど前のお話です。ご主人様が亡き後も、イフェイオン様はお墓参りがしたいと言って頻繁にこの街へ戻っておられました。わたしはあのお方のおつきですから、その都度ここへも立ち寄り、自ずと精通していったという訳です。……ふあぁ。何だか眠くなってきましたわ」
まさかこんな話を聞くことになるとは思ってもみなかった。驚きに目を見開いている私とは対照的に、ティフィーはうつろな目で私を見つめ、グラスに残った酒を飲み干した。そしてつぶやくように言う。
「地上へ降りてから、ティフィーもずいぶん変わった……とイフェイオン様はよくおっしゃっていました。人間は愚かな行為を繰り返す生き物だけど、愚か者はわずかで、それ以外の者たちは、わたしたちをごく自然に受け入れ、成長させてくれるのだと……」
「イフェイオンが、そんなことを?」
「はい……」
新たにもう一杯酒を頼んだティフィー。だが、既に船をこぎ始めている。これ以上話を聞き出すのは難しいだろう。私は彼女との話を諦め、これまでずっと静かにしていたランタナの相手をようやくする。
「ティフィーさんお勧めの酒は飲みましたか? 全然減っていないようですが……」
「イフェイオンの次はティフィーに興味を示したって訳? あたしに恨みでもあるの?」
先日意見を違わせてから、ランタナはずっと不機嫌だった。口を開けばこの調子だ。さすがの私も口調が荒くなる。
「……ならば聞きます。君は私に何と言って欲しいのですか? その言葉を聞けば満足するとでも? もしそうだと言うのなら、それが君の望みなら何でも言いましょう。ただし、それで傷ついても私は知りませんよ」
本当はこんなことを言いたくはなかった。ランタナの苛立ちが私をも苛立たせている。
彼女は何も言わず、手にしたグラスを一気に飲み干した。
「そんな飲み方をしたら酔いが一気に……」
「うっ……。まずっ……。ぺっぺっ……!」
飲み方も知らない酒を一気に煽るからだ、と忠告しようとしたが、この状況では火に油を注ぐことになりかねない。側にあった水を飲むよう勧めてはみたが、結局邪険にされただけだった。
「ん……。あっ、ランタナさまぁ! グラスが空じゃないですか! マスター、もう一杯くださぁい!」
つかの間の居眠りから目覚めたティフィーが起きて早々に騒ぎ出す。
「あの、お二人ともどうかされました? お酒の席だと言うのに、全然盛り上がっていませんね」
険悪な雰囲気を察知したのか、ティフィーが私たちを交互に見て言った。ランタナが私を睨み付ける。
「ボルトのせいだ。ボルトの……」
「まぁ、お気の毒に……。そう言う時は、お酒を飲んで嫌なことはみんな忘れましょう、ね? ささ、一気にくーっと!」
「うぅ……! こうなったら自棄だ!」
「ちょっ……! ランタナ! ……ティフィーさん!」
私が止める間もなく一気に飲み干す。まずいと言っていたものをもう一杯飲んだのだ。ますます具合が悪そうにしている。
「私は何も、ランタナをいじめていた訳じゃありません。完全なる誤解です」
弁解してみるも、私の声はもはや二人の耳には届いていなかった。結局、最後までティフィーの口車に乗せられたランタナは相当飲まされてしまい、眠りこけてようやく酒から解放されたのだった。
寂れていると思った店は、時間が遅くなるにつれ混み始めた。何だかんだでずいぶん席を温めていたようだ。既に日付は変わっているだろう。これ以上遅くなると母が心配するかもしれない。
「ティフィーさん、ランタナ。もう帰りましょう」
すっかり酔いつぶれた二人を揺り起こす。
「はっ……!」
ティフィーはがばっと起き上がったかと思うと、おもむろに財布を取り出し、マスターのところへ勘定を支払いに向かった。酔っていても、こういうところはしっかりしている。
「ランタナ。起きてください」
起きる気配のないランタナをもう一度揺する。ランタナは口を開けたまま眠りこけている。そのうちにティフィーが戻ってきた。
「ティフィーさん。まだランタナが眠って……」
「ランタナ様! 行きますよっ!」
揺すっても起きないことを伝えようとするより早く、ティフィーは実力行使に出た。ランタナの腕を取って自身の肩に回すと、男顔負けに担いで店を出て行ったのである。
「やれやれ。さすがは天馬。力強い……」
彼女たちの後を追って店の外に出た途端、冷気で一気に身体が冷やされる。いや、冷える身体はないが、寒いと感じる。
「ボルト様! ランタナ様が目を覚ましました!」
冷気に当たったせいか、ランタナが覚醒したようだ。しかし、意識がはっきりしないのか、ぼけっと突っ立っている。なぜここにいるのか分かっていない様子だ。気の抜けたランタナが素直で純粋な子供のように見えた。
「……それにしても、ティフィーさんはずいぶん飲んだ割に元気そうですね」
あまりにも対照的な二人を見て思わずつぶやく。だが、ティフィーはにっこり微笑んだだけで、さっさと先を歩き出してしまった。
「ちょ……、ティフィーさん! ランタナをどうするつもりです?!」
「ボルト様にお預けします! わたし、ちょっと走ってきますので」
「えっ?!」
そう言ったかと思うと、ティフィーは天馬の姿となってぴょんぴょんと、階段を上るように空を駆けて行ってしまった。取り残された私たちは為す術もない。
「……ランタナ。歩けますか?」
「……うーん」
起きたとはいえ、歩かせたら間違いなくどこかに頭をぶつけそうな程ふらついている。
「やれやれ……」
私はランタナの前に立ち、彼女を背負った。力の抜けた身体が重くのしかかる。だが、ランタナの体温が背中を通して伝わってくる。それだけで体重のことなど気にならなくなった。私は一歩ずつ足もとを確かめながら家路に向かう。
「君のことを嫌いになれたらどんなによかったか……」
そうつぶやく。ランタナに聞かれたら激しく怒られそうだが、相当に酔っているようだし、明日になれば私の言ったことなど忘れてしまうだろう。私は構わず胸の内をはき出す。
「口は悪いし、すぐに癇癪を起こすし、微笑むことすら知らない。そんな君とは友人にすらなれそうにないと思っていました。私とは馬が合わないと。でも君には人を気遣う優しさがありました。そしてこんな私の、消えゆく運命にある私の側にいたいと言ってくれました。何の見返りも求めずに……」
私は何も与えられない。与えられたとしても、限りなく短期的だ。それがもどかしい。ならば心など通わない方がいい……。
「嫌いに……なんないでよ」
耳元でランタナがささやいた。その言葉が胸に突き刺さった。
私は何も変わっていない。昔のままの冷血な男だ。相手を思いやる言葉の一つも掛けることが出来ない。
「私の本心を知ったらきっと……失望します」
「どうしてそんなこと言うの……?」
「……私のことは私が一番よく知っていますから」
「それでも、知りたいの……」
彼女は本気だ。私がどんな人間でも受け入れる覚悟をしている。私よりもずっと成長している……。それが彼女の決断なら、尊重しなければならない。
立ち止まって深呼吸。そして、まだ自分の中でもはっきりと答えの出ていない思いを言葉にする。
「私は君のことを……」
その時。明るく街を照らしていた二十日月がにわかに消えた。雲間に入ったのだろうか。それにしては暗い。思わず空を仰ぐ。
「まさか……」
私は目を疑った。空にうごめく黒い影。
「ボルト様! ランタナ様っ!」
それが何かを知らせるかのように、ティフィーが猛スピードで舞い降りてくる。
「ティフィーさん。あれは……」
「クリーガーです! 天馬に乗って、しかも数え切れないほどたくさん……!」
「やはり……。ランタナ、立てますか?」
私は背中から彼女を下ろした。彼女はふらつきながらも踏ん張り、同じく空を見上げた。
「やつら、どうやって地上へ……?!」
「ランタナ様、背中へ!」
ティフィーは既に正気を取り戻していた。ランタナが乗りやすいよう膝を折る。彼女は何とかその背に乗った。
「うぅっ……。酒とか言うやつのせいか、身体が思うように動かないよ……」
言いながら彼女は何度か両手で顔を叩く。よりによってこのタイミングでクリーガーの襲撃とは。誰かが私たちの行動を見ていたとしか思えない。いや、今はそんなことを考えている暇はない。
「ランタナ。武器はどうするつもりです? まさかそのままやつらの相手をするつもりじゃないでしょう?」
酔っているからか、武器を持っていないことにすら気づかないランタナに忠告する。祭りを見物するだけだからと、あえて自宅に置いてきたのだ。ランタナは少し考えてから言う。
「……済まないけど、お前の家まで槍を取りに行ってくれないかな。それまではお前の剣を貸して。時間稼ぎくらいは出来ると思う」
「この剣で……」
クリーガー相手にレイピアが役立つとは思えなかった。が、躊躇っている時間もない。
「……分かりました。すぐに取りに行ってきます。それまでは持ち堪えてください」
「うん、助かる。頼んだよ、ボルト」
私のレイピアとダガーを受け取ると、彼女はさっとティフィーを走らせ、空へ駆けていった。
クリーガーの一団はすぐ側にまで迫っていた。私は一路、自宅を目指し走った。
祭りの後、しかも真夜中ともなると、道端で座り込む人は酒におぼれて眠りこけているし、家で家族と過ごした者でさえ、今は誰にも邪魔されない安らかな眠りについているころだ。こんな至福の時を壊そうとする者がいるとすれば、女王以外にはいないだろう。女王は地上をこの街から攻め滅ぼそうとしているのか……。
自宅への道のりが長く感じられた。ようやく辿り着いた時、ものすごい地響きに街全体が揺れた。巨大な何かが落下したような音。いや、蹄の(ひづめ)音か。クリーガーたちの乗る天馬が街に降り立ったに違いない。急がなければ。私は玄関扉をすり抜け、二階へ上がった。
「あぁ……。何が起きたの?!」
母の驚き困惑する声が聞こえた。二階から駆け下りてくる母とすれ違う。
「駄目だ! 外へ出ちゃいけない!」
必死に叫び腕を取ろうとしたが、声は届かず、手も空を掴んだだけだった。私には肉体がないことを改めて思い知らされる。思わず舌打ちする。
私が母を直接守ることは出来ない。ならばここはランタナに任せるしかない。そのためにも今は武器が必要だ。私は自室に飛び込みランタナの槍を掴むと、すぐに階下へ降りた。
が、そこに母の姿はなかった。玄関扉が開け放たれたままになっている。もう既に外へ飛び出してしまったのか……! 外へ出ればクリーガーたちに殺られてしまう。私は母の後を追うように玄関を飛び出した。
部屋へ戻っているほんのわずかな間に、街は惨状と化していた。天馬に乗ったクリーガーたちが縦横無尽に街を駆け抜け、人々を惨殺していたのである。容赦の欠片もない。ようやく軍部から出てきた兵たちでさえ赤子のようにあしらわれ、命を奪われていく。やつらは生きている人間を残らず殺そうとしているように見えた。
「母さん! 母さん、どこだっ?!」
近くを見回してみるが、母の姿はない。しかし、捜そうにもクリーガーが次から次へと目の前を駆け巡り、うかつに動くことさえ出来ない。
その時だった。
「捜し物はこれかな? ファーベル君」
不気味な声が私の名を呼んだ。振り返るとそこには宙に浮かぶミューラの姿があった。そしてその傍らには……。
「母さん……」
死者の魂で幾重にも縛り上げられた母は、ぐったりと頭を垂れていた。怒りが込み上げる。
「母を放せ! その薄汚い手から今すぐに!」
「残念だけど、オレ様も後がないんだよ。やるからには徹底的にやらせてもらう」
「ふざけるなっ! 降りてこい! 正々堂々と勝負をしろ!」
「正々堂々! オレ様が最も嫌いな言葉だ。てめぇには分からないのかよ? 恐れおののく人々の声や顔色がオレ様や女王陛下を喜ばせる力となることを。こんな面白いゲームから手を引けという方が無理な話さ」
「外道が!」
「クヒャヒャヒャ! もっと怒れ。もっと叫べ! てめぇが感情をむき出しにすればするほど、この女を締め上げる力は強まる!」
はっとした時には手遅れだった。母の身体に更なる魂が巻き付き、頭部を残して全身が魂で覆われてしまった。既に意識がないのか、母は声を上げない。あるいはもう……。嫌な考えがよぎる。
攻撃を仕掛けたいが、母を人質に取られた状態では手を出せない。睨み合いが続く。
――ランタナなら、こんな時どうするだろうか……。攻撃? それとも……。
私の頭ではこの状況を打開する案が思いつかない。ランタナの助力は欲しい。だが、そんな理由で呼び戻す訳にもいかない。ただ、この槍を渡すためには一旦ここへ来てもらわなければならない。ミューラをじっと睨みながら思慮する。と、遙か頭上で刃の擦れ合う音。上空を見遣る。そこにはランタナらしき姿があった。
「ランタナ! 槍はここです! ランタナ!」
半ば叫ぶように声を張り上げる。直後、取り囲むクリーガーの群れが彼女を容赦なく襲った。
「あぁっ……!!」
彼女が勢いよく落下する。私は何とか身体を張って受け止めた。
「大丈夫ですか、ランタナ」
「くぅっ……。ティフィーがやられた……。あたしがちゃんとしていれば、こんなやつら、一捻りなんだけど」
彼女の手に握られたレイピアがあらぬ方向に折れ曲がっている。全身にもかなりの傷を負っている。劣勢なのは明らかだ。
ミューラが私たちを見て気味悪く笑う。
「ふん。ちょうどいい。今から面白いものを見せてやろう! とくと見るがいい!」
「何をするつもりだ、あいつ……!」
ランタナがやつを睨んだ次の瞬間。
ミューラが懐から剣を取り出し、残された母の首を切り落とした。声が出ないどころじゃない。数秒の間呼吸が止まった。
「……ミューラッ!!」
呼吸を再開した時、私の意識は半分どこか遠いところへ失われていた。無我夢中で叫び、手に持っていた槍を思わず投げつける。だがミューラはひらりと躱した。そして歓喜の声を上げた。
「クヒヒヒ! いいねぇ。おいしいところだけ食えるというのは! でもって、てめぇの怒りのエネルギーは最高だ! もっと食わせてくれよ、なぁ!」
そう言うと、やつは他の魂ごと母の身体を切り裂いた。一瞬の、出来事。
「かあ……さ……ん……」
今にも意識が吹き飛びそうだった。息が出来ない。苦しい。だが、無情にも落下する母を地に打ち付ける訳にはいかない。母はもっと苦しい思いを……。ほとんど無意識のまま落下点に走り込む。
「クヒヒヒ! 馬鹿め! てめぇもここで消えちまえっ!」
死者の魂が私を襲う。その速度はあまりにも速く、避けられそうにない。思わず腕で顔を覆った。だが。
「……馬鹿。こんなの食らったら、お前の魂、消えちゃうじゃないか……」
「……ラン、タナ? ランタナ! なぜ……! なぜ……!」
なぜ私をかばったのだ! そう言いたかったが言葉が続かない。力なく倒れるランタナが私の身体にもたれかかる。
「馬鹿なのは……馬鹿なのは君の方だ! 私を守ろうとするなんて……! 私が一人残ったって何も……何も出来ないと言うのに!!」
辛うじてかすれた声が出た。だが、反応はない。いくら揺すっても、彼女は返事をしなかった。思わずその身体を抱きしめる。そして少し先の地面には母の姿。ただただ唇を噛みしめる。
――私がふがいないばかりに、大切な人を目の前で二人も……。
「あーあ。ファーベル君はし損じたか。まぁいいや。街も適当に破壊できたし、何よりうまいご馳走にもありつけた! クヒヒヒ!」
怒りと悲しみに暮れる私を見下ろすミューラが、私の気を逆なでするような発言をした。
「ふざけるなっ! どこまで人を馬鹿にすれば気が済む!?」
「どこまでも。それがオレ様さ。せっかくだから、もうちょっと楽しませてもらうよ。……あらよっと」
ミューラが指を上に向けると、母の身体に巻き付いていた魂が今度はランタナに巻き付き、私の腕からもぎ取ろうとする。
「何をするっ! やめろっ!! ぐあぁっ……!」
ほんの数個の魂にすら私の力は及ばなかった。地面に押しつけられている間にランタナはもぎ取られ、ミューラの傍らに届けられた。
「くそっ! ランタナをどうするつもりだっ?!」
「人質だよ。返して欲しけりゃ、天界に戻ってくるんだね。もっとも、その手段があればの話だけど。クヒヒヒ!」
そう言い放つと、ミューラはあっという間に宵闇に紛れ、去っていった。
ミューラが立ち去ると、周りにいたクリーガーたちも奴に続いていなくなってしまった。急に静寂が訪れた。
「うあぁぁぁぁぁっ……!!」
耐え難いほどの悔しさと敗北感が胸を締め付けた。この場で誰かにこの思いをぶつけられたらどんなにいいだろう。意識が途切れ、つかの間でもこの感情を忘れられたら……。しかし、私の前には誰一人として現れず、意識を失うことも出来なかった。
私はしばらくの間、母や大勢の死体が横たわる道端でうずくまっていた。どのくらいの時が経ったか分からないほど長い間……。