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ワルキューレとお医者様  作者: 春風いぶき
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地上へ(1)

 地上へ行く、と何度も口にしてはいたものの、その方法について私はまったく考えていなかった。遙か足もとが地上であるという認識さえ、ひょっとしたら間違っているかもしれないとも思い始める。

「地上へはザウバーブルン山の頂からしか行けないんだ」

 ランタナが声を張って言う。

「つまり、あの山頂へ行く手段を持つワルキューレ(あたしたち)だけが地上へ行けるってこと。すごいだろ?」

「なるほど。君たちは選ばれし種族という訳ですね」

「そう言うこと」

 リューグたちと別れた私たちは、そのザウバーブルン山を目指している。初めてそこへ向かった時、私は気を失っていて山の全貌を見ることが出来なかった。しかし今、目の前に見えてきたそれは私の知るどの山よりも高く、美しい形をしていた。

「……この山の頂から、地上へ行けるのですね」

 聖域と言ってもいいくらい、神秘的なオーラのようなものを感じる。地上と天界とを結ぶたった一本の道は、実際特別な存在に違いない。

 首から提げているペンダント。イフェイオンがくれたものだ。これがあれば、仮初めの肉体と記憶を維持したまま地上へ行けると言う。

 ――その言葉は果たして真実なのだろうか……。

 未だ疑っている私がいる。しかしここまで来て今更という気がしているのも事実だ。

 ここへ来てからと言うもの、見るもの聞くことのほとんどが現実離れしていた。それでもいくつかの事象を信じ、進むべき道を選んできた。ならば今私が進もうとしている道も、信じるべきではないのか……。

 雲を突き抜け、いよいよ山頂へやってきた。肌を刺すほどに冷えた空気。先ほどここにいた時はあまり意識していなかったが、天界の山も標高が高いほど空気が冷やされるのだろうか。それとも女王の力によるものか。

「降りるよ……」

 ランタナの声を合図に、ティフィーは風に乗るようにしてすっと降下を始めた。山頂の真ん中にはぽっかりと大きな穴が開いている。そこから気流が吹き下ろしており、それに乗れば一気に地上へ行けそうだ。

「このまま地上に抜ける! しっかり掴まってろ!」

 既に強い風を感じている中で、ランタナが声を張り上げて言った。

 気流を読み、怪我なく地上へ降りるには相当の技術を要すると言うことで、今回ばかりはランタナの後ろに乗らざるを得なくなった。ランタナは腰ベルトに掴まっていればいいと言ったが、緊張することに変わりはない。

「もっと身体を引きつけてっ! そんなんじゃ、風に流されるよっ!」

 不安を感じたのか、ランタナは私を叱りつけた。

 ――えぇいっ! 落ちるよりはましだっ!

 私は無我夢中でランタナの身体にしがみついた。もし不快に感じたとしても、この難局を切り抜けるまでは我慢してくれますように……。ただ、それだけを願った……。

 くるくると、まるで大渦に飲み込まれるがごとく旋回していく。この先には本当に地上があるのか。もしかしたら別の世界へ導かれているのではないか……。そんな不安に襲われる。

 いつしか下っていく感覚がなくなってきたころ、突然身体に負荷がかかった。にわかに現実に引き戻される。

「うわぁっ!?」

 両腕でしっかりとランタナの身体にしがみつく。ティフィーの身体が安定してようやく辺りを見回し、ほっと息を吐く。

「着いたよ。地上だ」

 ランタナがまずは口を開いた。その声は少し疲れているようにも感じられた。

「いつも地上へ行く時はこのような感じなのですか?」

「うん。でも今回はいつも以上に風に流されてた気がする。お前が乗ってたせいで、受ける風が違ってたのかも」

「そ、それは失礼しました。では、ティフィーさんもお疲れなのでは?」

「いいえ。わたしは平気です。風を切るのは慣れていますから」

 私の心配をよそに、ティフィーはあっけらかんとした様子で答えた。

「それより……。いい加減離れて欲しいんだけど?」

「えっ? ……あっ、失礼……」

 ランタナの指摘に慌てて身を引く。なぜかずっと彼女にしがみついたままだったのだ。ここが上空でなければティフィーの背から飛び降りて思い切り距離を置いているところ。今ごろになって恥ずかしさにさいなまれる。

「……き、君のお陰で、こうして無事に地上へ降りることが出来ました。感謝していますよ」

 照れを隠すようにそう言う。するとランタナは肩をすくめた。

「非力と思ってたけど、案外力があるんだね。それに、お前がぴったりとしがみついてたから、あまり寒さを感じずに済んだよ」

「うっ……」

 これは褒め言葉と捉えてもいいのだろうか……? いずれにしても聞いていて身体が熱くなるような内容に戸惑いを隠せない。唯一、私がランタナの背に位置していることだけが救いだった。再び酷い顔を見られては敵わない。

「もし今のが嫌だったら、はっきりとそう言ってください。以後、気をつけるようにします」

 今の気持ちをどう伝えたらいいか分からず、そんな言葉を口にする。しかしランタナは私の想像とは異なる返答をした。

「嫌だなんて思ってないよ。お前はいろんなことを気にしすぎ! 馬の二人乗りをしたら、後ろの人が前の人を頼るのは当然だって言ったろ? もっとあたしを頼ってよ」

「わ、分かりました。では、お言葉に甘えさせていただきます」

 とは言ったものの、やはり私は無難に彼女の腰ベルトを掴むことしか出来なかった。

 彼女は私を男と認識しているが、異性として見てはいない。おそらく私に限ったことではなく、天界にいるすべての男に対して、だ。それがかえって彼女との接し方を難しくさせる要因でもあった。

 ――やれやれ。彼女がもう少し私を違う目で見てくれたら、積極的にもなれるのですが……。

 男である以上、これほどの距離に女性がいれば本能をくすぐられるもの。しかも親しい関係になれば尚のこと。そこまで考えてふと我に返る。

 ――いや、待て。私はランタナのことをどう思っているのだ……?

 ちょっとした手違いからほんの数日前に出会い、いつの間にか双方とも問題に巻き込まれてここまで来てしまった。言うなれば、ただの偶然の積み重ねから生まれた付き合いだ。それを私は、事もあろうに恋愛感情と錯覚してはいないだろうか?

 しかしランタナとは、初めて会った時からずっと懐かしさのようなものを感じている。どちらかと言えば女性と接することが苦手な私が、こんなにも楽な気持ちでいられるのだ。イフェイオンと会った時もそうだ。不思議とすぐに受け入れられた。……もしかすると、前世の私が今の私のように不遇な目に遭い、彼女たちと出会っていたのかもしれない。そう考えれば一応の説明はつく。

「何考えてんのさ、ボルト!!」

 ランタナが大きな声で私を呼んでいる。意識が現実に引き戻される。

「すみません、考え事をしていました。何か、言いましたか?」

「もうっ……。どこへ向かう? って聞いたんだよ。地上のことはお前の方が詳しいだろ?」

「そう言うことですか……。確かにそうかもしれませんが、私もディサローノ国内のことしか分かりませんよ。他国ではおそらく、言葉も通じないでしょうし」

「お前に任せるよ。ティフィーに指示してくれればどこへでも連れて行ってくれる」

「それはそうでしょうが……」

 私が懸念しているのは、今ディサローノ国がどのような状況にあるかと言うこと。なぜなら、数日で戦争が終結することなどあり得ないからだ。

「ボルト様。まずは走ってみましょうか。ディサローノ国方面へ」

 ティフィーが楽しそうに提案した。地上へ来たのがそんなに嬉しいのだろうか? 確かにここで悩んでいても始まらない。まずは上空から国周辺の様子を窺い、それからどう行動するか決めても遅くはないだろう。

「そうですね。では、お願い出来ますか」

「はい、お任せください!」

 ティフィーの明るい声に、私の心は幾分楽になった。


「ボルト、ここは確か……」

「君もきっと、一度は訪れているはずですよ」

 私がまず訪れたのは、激しい戦闘が繰り広げられた場所、エーヴェレ平原だった。私自身が戦地へ赴いたのはほんのわずかな間だったが、それでもそこで見たもの経験したことは忘れたくても忘れられない。今でも鮮明に覚えている。……しかし眼下に当時の惨状は見えない。ただ草っ原が広がるだけだ。

「戦争は……終結したようですね……」

 毎日絶えることなく同僚たちが傷ついてきたこの地はもう戦場ではない。その事実は私を大いに安心させてくれた。と同時に虚しさをも連れてきた。果たしてここでどれだけの人が死んでいったのだろうか。それを思うと素直には喜べないのだった。

「どうしたの、ボルト。考え事?」

 ランタナが静かに問うた。

 私の中に渦巻く様々な思い。それはとても言葉で表せるものではない。私は複雑な心境を胸の奥底にしまい、一つだけ疑問を投げかける。

「時に、ランタナ。私が天界にいる間、地上ではどのくらいの時が流れたのです……?」

 私が死んだのはほんの数日前。その間に戦争が終わり、戦場だった場所が草原と化しているのは不自然すぎる。まるで、はじめから何もなかったかのようにさえ見える。

「あぁ、それなら……」

 ランタナはさも当然と言わんばかりに答える。

「フェーエンラントでの一日は、地上で言うところの一年、つまり三百日に当たるから、四、五年は経ってるはずだよ」

「四、五年……ですか」

 思ったよりも時間が流れていたことに驚く。

 そうか。それならば眼下に広がる光景にも納得がいく。それだけじゃない。それが確かなら、私たちに残された時間は思ったよりも長い。それだけランタナの教育に多くの時間を費やせるということだ。

「そんなこと聞いてどうすんのさ?」

 私の問いの意味が分からないランタナが逆に尋ねてきた。私はあえて説明をしなかった。

「いえ。戦争が終結したことを確認したかっただけです。今ならディサローノ国へ行っても問題はないでしょう。戦後数年が経過しているなら、街も復興していると思います」

「では、ディサローノ国へ向かいますか?」

 まるで散歩に行くのを喜ぶ犬のように、やや興奮気味にティフィーが言った。私は出来るだけ冷静な声で答える。

「えぇ。お願いします。ディサローノ王国へ」

 直後、ティフィーは風のごとく走り始めた。


 ディサローノ国は寒い冬を迎えていた。私が死んだ時はようやく春がやってきたころだったのに、まるで眠り姫にでもなったような心地だ。

 私たちは一度、首都から離れた田舎町で降りた。目的は服を購入すること。

 聞くところによると、死人の私は別として、二人の姿は地上に降り立つと人の目にも見えるようになるとのこと。ならば、天界人と思しき格好は直ちにやめるべきである。まして露出度の高いこの衣装では目立ちすぎる。

 二人には「寒い冬を乗り切るための服を買う」と表向きの理由を言い、何とか納得させた。

 私は適当な仕立屋に向かいながら買い物の仕方を説明しようと、道具袋に入れてあるはずの財布をまさぐった。魂だけの私の姿は人には見えないので、買い物は自ずと彼女たちに任せるしかない。

「あの! わたし、買い物なら得意です! ほら、お金も持っています!」

 突然、ティフィーが両手いっぱいに硬貨や紙幣を握りしめて私に見せびらかした。私はその一枚一枚が、ディナーツ硬貨や紙幣であることを確認して驚いた。

「なぜあなたがディサローノの通貨を持っているんです……?」

 辺りを見回し、誰もその様子を見ていないことを確認して金をしまわせる。ティフィーは自信たっぷりに言う。

「実はわたし、イフェイオン様と何度か街へ降りたことがあって。お金はその時手に入れたものです。イフェイオン様のお供をしてお買い物をしたこともあります」

『イフェイオンと街へ?!』

 私とランタナは同時に声を上げた。

「どういうことです? 詳しく聞かせていただけますか? ……いや、まずは買い物を済ませてしまいましょう。話はそれからです」

「はいっ!」

 ティフィーは嬉しそうにうなずき、目の前に見えてきた仕立屋へ一目散に入っていった。


 ティフィーの買い物術は実に一般的だった。相当に慣れている、と言えばいいだろうか。服の選び方も、店主との会話も、金の使い方も完璧だった。そのことを褒めると、ティフィーは子供のようにはしゃいだ。

「わたしでもお役に立てることがあったんですね。よかったです!」

「とても助かりましたよ。私が教えることは何もありませんでした。ランタナへの教育という意味でもよい手本でしたしね」

 そう言ってランタナを見ると、もこもこのマントと毛糸の帽子が気に入ったのか、何度も手触りを確かめていた。

 先ほどまでかなり露出していた肌が顔以外すべて隠れたことで、どこか私の気持ちも落ち着いていた。これで、先ほどのようにランタナに掴まる形でティフィーに乗っても、直接肌に触れずに済む……。そう思いながらも、私は冷えた両手を制服のポケットに突っ込み暖め始めた。万が一手が肌に触れても、彼女の身体を冷やすことのないように、と。


 再びティフィーに乗った私たちは、装いも新たに首都アルディアーナを目指し始めた。ティフィーにかかればものの十数分で辿り着くだろうが、その間に聞いておきたいことがあった。

「ティフィーさん。イフェイオンと街へ降りたことがあると言いましたね。そのことについて話していただけますか」

 先ほど聞きかけた例の件だ。ティフィーはすぐに話してくれた。

「はじめは女王陛下のご命令だったんです。地上へ行き、人間の様子を探ってくるように、と。わたしはイフェイオン様を背に乗せ――あの頃はまだイフェイオン様は翼を持っていませんでしたから――、この広くも狭い地上を何周も巡りました。見るものすべてが天界とは異なっていて、最初は戸惑うことばかりでした。けれども、次第に慣れてくると、人間との交流も出来るようになっていったんです。そのきっかけがお買い物でした」

「確かに、買い物は見知らぬ人との交流にうってつけですね。しかし人間となじめば、意志を持つイフェイオンの自我が目覚めることくらい分かっていたはず。にも関わらず、女王は地上行きを命じた。その目的は一体何だったのです……?」

「さぁ。さすがにそこまでは」

 ティフィーはとぼけた声で言った。

「本当にご存じないのですか? また隠し事をしているのでは?」

「とんでもない! イフェイオン様とわたしとは、すべての情報を共有している訳じゃありません」

「そうですか」

 謎を秘めたイフェイオンのことが少しでも分かればと思ったが、ティフィーはそのことを語らなかった。だが、深く突っ込むのはやめた。聞いたところで同じ言葉しか返ってこないのは目に見えている。

「君はどうなのです? イフェイオンの片割れなら、同様の任務を与えられても何ら不思議はない」

 今度はランタナに話を振る。が、どうも機嫌が悪い。

「ボルトはそんなにイフェイオンのことが気になる訳?」

「……私はただ、彼女が信用できる人か確かめたいだけです。それに、正体の分からない相手の言う通りに動くのも癪ですし」

「本当にそれだけ?」

「……一体どうしたと言うんです?」

「…………」

 ランタナは答えなかった。いつもの癇癪が始まったかと思ったが、どうも様子が違う。するとティフィーがくすくすと笑った。

「何がおかしいんです?」

「ボルト様。ランタナ様も悩める乙女なのです。もう少しお気持ちを考えてあげてください」

「お、乙女……ですか?」

 言われてはたと気づく。

 ――ひょっとして、イフェイオンに妬いているのか……?

 それしか考えられない。しかしそうなると、ランタナの中に嫉妬心が生まれたことになる。これはよい傾向と考えるべきなのか……。彼女の成長のためあらゆる経験をさせる必要があるが、時にその心を傷つけなければいけないというのは少々かわいそうな気もした。

「やれやれ。ティフィーさん。あなたもかなりの謎を秘めているようですね。『楽』の感情しか持ち合わせていないと思っていたのに、嫉妬心がどのような心情であるかをご存じとは」

「これもイフェイオン様と地上で暮らしたお陰です」

「……イフェイオン、ですか」

 ティフィーの信頼するイフェイオンの名を聞くたび、彼女の存在が私の中で大きくなっていくようだった。ランタナを成長させるという目的が、イフェイオンの謎を解き明かしたいという好奇心へと変わっていきやしないか。少しだけ不安がよぎった。


 戦火のない世界。死の恐怖に脅えることのない日々……。目の前に広がる街の景色が遠い昔に見た夢のように思えた。が、これが平和、かつての日常なのだ。そう思うと感慨深いものがあった。

 首都アルディアーナは活気に満ち溢れていた。見たところ、戦前と変わらぬ水準にまで回復しているようだ。いや、気のせいか、昔より人々の表情が明るい気がする。

「どうやら、冬至祭も復活したようですね」

「何、冬至祭って?」

 ランタナがすぐさま問うた。私は街の景色を懐かしみながら言う。

「冬至とは太陽の出ている時間が最も短い日のことを指します。この日を境に日は延び、再び生命溢れる春が訪れる。冬至祭とは新しい季節がやってくることを祝うお祭りなのです。もっとも、ディサローノでは冬至までの一週間を祭りの期間と定めていますが」

「お祭り……。何か、いい響きだなぁ……!」

 ランタナが穏やかな声で言った。そんな彼女の安らぎを乱すようにティフィーが騒ぐ。

「ランタナ様。お祭りとは人間が生み出した素敵なイベントなんです! このような時期に来られたのは運がいいとしか言いようがありません!」

「おや、ティフィーさん。お祭りをご存じなのですか?」

「はいっ! イフェイオン様が特にお祭り好きで、世界各国、ほとんどすべてのお祭りに足を運びました! もちろん、ディサローノのお祭りもです」

 あのイフェイオンがお祭りを楽しんでいる姿は、とても想像がつかなかった。しかも、そんなことをさせるためにあの女王が彼女をこの地へ使わしたとは到底思えなかった。謎が更に深まる。

「ボルト様。そんな顔をなさらないでください。せっかくのお祭り気分が台無しです!」

 ティフィーに言われ、いつものごとく考え込んでいたことに気づく。確かに、ティフィーの言う通りだ。

「そうですね。奇しくも再生の祭りに参加できるのです。人々の活気や生命力が、ランタナにもいい影響を与えてくれるでしょう」

 そう。私たちの目的はランタナの成長を促すこと。とはいえすべては経験がものを言うのだから、あらゆる機会を有効に使うべきだろう。

 通りの向こうから、ボールを蹴る子供たちが走ってくる。白い雪が宙に舞い、太陽光にきらめく。私は冬のアルディアーナを歩きながら、友フランツと過ごした日々を思い出していた。

 あれは私が十三になったばかり。ちょうど今くらいの季節だ。剣術が苦手な私と同じチームになった学友の何人かが、言いがかりをつけて殴りかかってきたことがあった。何の非もない私は抵抗しなかった。ただただ暴行を受け続け、いつしか意識を失っていた。

 目が覚めた時、そこにいたのは彼らではなくフランツだった。

「なぜ、君がここに……?」

「まだ横になっていた方がいいんじゃないか? ったく、けんか吹っ掛けるつもりなら俺にも声を掛けてくれよなぁ」

 フランツはにやりと笑いかけて言った。

 辺りを見回すと、そこは学校ではなかった。よく見ればそこはフランツの自宅だった。

「君がここまで運んでくれたんですか?」

「あぁ。お前、放課後俺と剣術の稽古するって約束、忘れてたろ? いつまで経っても来やしねぇから、学校まで様子を見に行ったんだ。そうしたら、偶然にもお前がぼこぼこにやられてる現場に飛び込んじまったって訳さ」

「……その約束、いつしましたか?」

「やっぱり覚えてねぇのかよ。今朝、学校へ行く途中の道で話してただろうが。上の空だったから、聞いてねぇんじゃないかとは思ってたけど」

「すみません。昨晩解こうとした数学の問題の答えがどうしても導き出せなくて、ずっと考えていました」

「だと思ったよ。にしても、盛大にやられたなぁ。俺だってお前相手と喧嘩したってそこまでやらねぇぜ?」

 そう言うフランツも顔や手にかすり傷を負っていた。私はそれが気になった。

「その傷は?」

「あぁ、これか? 何でもねぇって。気にするな」

「ひょっとして、彼らとやり合ったんですか?」

「何でもねぇって言ってんだろう? さぁ、今日はもう帰りな。両親が心配してるぜ?」

「でも……」

「もし怪我のことを聞かれたら、俺のつける稽古がいつも以上に厳しかったって言っておけよ。そうすりゃ、すべてが丸くおさまらぁ」

 その時見せた彼の笑顔は今でも忘れられない。自分の強さをひけらかさず、あくまでも弱者のために戦う彼の姿勢に、少年の私は心打たれたのであった。

 そんなフランツも、今や誰彼構わず剣で斬り殺す、凶悪なクリーガーになってしまった。あの優しかった男はもう、私の記憶の中にしか存在しないのだ。

「ボルト。どうしたんだよ、ぼんやりしてさ?」

 ランタナが私の目の前で手をひらひらさせた。私はようやくそれに気づく。

「いえ。昔のことを思い出していたんです。なぜでしょうか。子供のころのことばかりが思い出されます」

「子供? あの小さい人間のことか?」

 そう言ってランタナは道端で遊んでいる子供たちを指した。まさか子供の存在を知らないのか? よく考えてみれば、戦場で戦士ばかりを見てきたランタナが人間の子供を知るはずもない。いや、そもそも天界には子供がいなかったように思う。ひょっとすると、天界人たちは生まれた瞬間から大人と同じ姿をしているのかもしれない。

「生まれた時からこのような姿をしていた訳ではありませんよ。はじめは誰もが赤子として生まれるのです。それから長い歳月を経て成長し、大人になっていくんですよ」

「ふぅん」

「天界では人はどのようにして生まれるのです?」

「わたしたちは皆、王や女王の子供なのですよ、ボルト様」

 私の問いにティフィーが答える。

「わたしたちは、生まれた時から生涯同じ姿で過ごします。多くの者がそのことに疑問すら抱いてはいません」

 それを聞いて、先ほど持った疑問が解消された。ランタナが私を異性として認識していないのは、天界人たちが愛し合うことを知らないからに違いないと。王や女王が好き勝手に人口を操作できるなら、子孫のことを気にする必要はない。

「愛のない世界、ですか」

 私は小さくつぶやいた。

「アイ? 何それ?」

 ランタナが私の顔をのぞき込むようにして問うた。私はすぐに答えられない。

「そうですねぇ。それが分かれば、君も私も一人前の人間になれるかもしれませんね」

「お前にも分かんないことがあるの?」

「愛が何であるか、どういう心情なのかは理解しています。ただ……。すべての事象において言えることですが、実際に経験してみなければ(しん)に理解したとは言えません」

「じゃあ、経験してみればいい」

「……そう簡単に言わないでくださいよ」

「無理なのか?」

「無理です! いいですか? 人を愛すると言うことは、まず相手のことをよく知らなくてはなりません。そして相手にも君のことを理解してもらう必要があります。互いのことを知り、親しい関係となった時、芽生えるのが愛情や友情なのです」

 柄にもなくむきになっている自分がいた。ランタナに恋愛経験が乏しいことを悟られたくないからかもしれない。実際そのことは、私のコンプレックスでもあった。

「てことは、あたしがお前を、お前があたしのことをよく知れば、愛ってのが生まれるんだ?」

「うっ……! 考え方は合っていますが、必ず生まれるものでは……」

「てかお前は、何でだんだん離れていくんだよぉ?」

「君のその素直さに驚嘆しているだけです」

 私たちのやりとりを見ているティフィーはと言えば、やはり声を立てて笑っている。主に私を見て……。

 急に周りの視線が気になり始めた。私は一度冷静になり呼吸を整えると、二人の背中を無理やり押して歩かせる。

「何だよ、ボルト。忙しいやつだなぁ」

「ぷぷ、ボルト様のお顔、面白かったですよ。ぷぷぷ……!」

 相も変わらない二人の様子にため息を吐く。

「言っておきますがここは地上、大都市の真ん中です。そして、私の姿はここにいる人たちには見えないのですから、私相手に話しかけている君たちは完全に頭のおかしな人になります。すぐに気づかなかった私にも大いに非がありますが、以後気をつけるように」

「気をつけなかったら?」

 事の重大さに気づいていないランタナの問いにやや苛立つ。

「……もし今後、このようなことを繰り返せば、感情を獲得するという目的自体が果たせなくなります。人は通常、まともな人間しか相手にしませんから。そのことを肝に銘じておいてください」

「そ、それは困る! 分かったよ。気をつけるよ」

 やっと理解してくれたようで、ランタナは一度手で口をふさぐ仕草をしたあとは、一言も声を発しなかった。ティフィーも、すぐに笑うのをやめて押し黙った。

 それからしばらく歩くと、私のよく知る並木通(アルベラータ)りにやってきた。すぐそこにあるのがフランツの実家。そしてこの通りの突き当たりを左に折れた先に、私の生まれ育った家がある。

「あぁ。懐かしいですね」

 そう言ったのはティフィーだった。私は耳を疑った。

「懐かしいとは、どういうことです?」

「あ、いえ。以前イフェイオン様とこの辺りの宿に泊まったことがあるものですから」

 ティフィーは絶対に何かを隠している。もはや疑う余地もない。しかし、今それを問うのは性急な気がした。必ず問いただす機会はやってくる。そう信じて、時がくるまで疑問をしまっておくことにした。

「宿と言えば、この辺りではデニーニの宿屋が繁盛していましたね。時に、今夜はどこへ泊まりますか? しばらく滞在できる安宿か、空き家があればそこで寝泊まりしたいところですが」

 資金は限られている。収入の当てはないのだから、出来るだけ節約したい。

 私の問いに道の真ん中で考え込む二人。少しの考慮時間の後。

「お前の家は?」

「ボルト様のご実家は?」

 二人は同時に言った。思わず固まる。

「……なぜそのような発想が二人から同時に出るんです?」

「だって、ここはお前の生まれ育った街なんだろ? 自分のうちで過ごした方がいいに決まってる」

「えぇ、そうですとも。それにボルト様の知り合いだと言えば、少しの間滞在させてもらえるかもしれませんし」

「……それはどうかと思いますよ」

 だいたい、今でもここで暮らしているとは限らない。私の残された家族は母親ただ一人なのだから。

 しかしここまで来たのだ。今生の見納めに立ち寄るというのも悪い考えではない。私は小さくため息を吐く。

「……仕方がありませんね。行くだけ行ってみましょうか」

 そう言うと、二人は顔を見合わせ、ティフィーだけが満面の笑みを浮かべた。


 アルベラータ通りを抜け、馬車(カロツツァ)通りに入ると、途端に静けさに包まれる。ここは閑静な住宅街。旧家が多く立ち並ぶ一画だ。

「でっかい家が多いんだなぁ」

 ランタナが空を見上げっぱなしで言う。

「この辺りは、古くからこの地に住んでいる人たちが多いのです。騎士の家もありますが、爵位を持った方の家が大半ですよ。要は王や女王に次ぐ地位、あるいは権力を持つ人と考えればよいでしょう」

 爵位について語っても理解されないだろうから、極めて簡略化して説明する。二人はその説明で納得してくれたのか、それ以上は求められなかった。

「で、ボルトの家はどれなんだ?」

「わたしも、探しております」

 どうやら二人は私の家を探すのに夢中のようだ。田舎臭い格好をした娘がこんなところできょろきょろと辺りを見る様は、道に迷っている風にしか見えない。

「やれやれ……」

 どんどん先へ進もうとする二人の肩を叩き、引き留める。

「……ここが私の生家です」

「おぉ、立派な家だなぁ……!」

「……まぁ」

 変わらない建物、そこに掲げられたファーベル家の家紋にかつてないほどの懐かしさを覚える。もう誰も住んでいないかもしれないと思ったが、私の知っている我が家が今も残されているところを見ると、どうやら家主は健在らしい。

「中へ入ってみようか……」

 ランタナが不審者のごとく窓をのぞき込みながら言った。

「やはり、入るのですか……?」

 そう尋ねたのは、私自身への問いでもあった。私はもう死んでいる。その思いが躊躇いを生む。だがもう一度だけ、懐かしさに浸りたいという思いも心の片隅にある。おそらく、この期を逃したら次はない。たとえ運良くこの国のこの街に生を受けたとしても、ヴォルクト・ファーベルの記憶は抹消された後なのだから。

「入りましょう、ランタナ。ティフィーさん」

 意を決しそう告げる。ティフィーは大いに喜んだ。

「ボルト様のおうちにお邪魔できるなんて光栄です! さっ、早速入りましょう!」

「構いませんが、くれぐれも言葉遣いや態度に注意してください。特にランタナ。君は必要最低限の発言だけをするように。人と対面して話すことに慣れていないのですから」

「ムカッ……! 分かってるよ、もうっ!」

 ランタナがふくれ面をしているうちに、ティフィーは既に家の呼び鈴を鳴らしていた。我が家に帰ってきただけだと言うのに、なぜか緊張する……。

「こんにちは、どちら様?」

 中から顔を出したのは初老の女性……。私の母親だった。私は自分の姿が見えていないと分かっていながらも、恥ずかしさのあまり俯いた。

「こんにちは! はじめまして。わたしはティフィーと申します。こちらはランタナ様です」

 ぼけっとしているランタナの頭を軽く押してやる。これが礼儀です、と耳打ちをする。母はにっこりと笑った。

「まぁ、かわいいお嬢さんたちだこと。とにかく中へお入りなさい。風邪を引いてはいけないから」

 そう言って母は二人を室内へ案内した。私は彼女たちに紛れて久々の我が家に帰り着く。

 玄関を入ってすぐ、やや広めの待合室がある。窓際には一輪挿しの花瓶。オレンジ色のラナンキュラスが部屋の雰囲気を明るく見せている。毎年母の誕生日に、一輪だけプレゼントしていたことを思い出す。右手にある扉の向こうが診察室で、正面は手術室。そして左の隅の扉から続く階段を上ると生活の場がある。

 ここは父の残した自宅兼診療所。戦争で父が死に、私の肉体も滅んだ今、診療所は畳まれたものと思っていた。それがこうして残されていることに、私は一種の感動を覚えていた。

「さぁ、そこにお掛けなさい。冬至祭の間は休診しているんだけど、二人ともかわいいから特別に診てあげる」

「キュウシン……?」

 きょとんとしているランタナ。私はすかさずフォローする。

「私の家は祖父の代から続く医者の家系なんです。私もそうでしたが、実は母も医療従事者で薬剤師……つまりは、薬を調合することが出来る先生なんですよ。父と私がいなくなってからも、母はこうしてこの家を守ってくれていたようです。今日はその診療所がお休みの日。母の休息する日と言うことです」

「なるほど……」

 ランタナが私の方をじっと見たまま一人つぶやいた。私は彼女の頭を両手で挟み、正面に向ける。

「ランタナ。私のことは忘れてください。ここにいる間、君は前だけを見るのです。いいですね? 私の発言に返事をしてもいけません」

「う、ん……」

 返事をしかけてランタナは口を押さえた。

 やれやれ、これでは先が思いやられる……。だが、ティフィーは極めて自然に母と話を進め始める。

「ここは診療所なんですね? ボルト様もこちらで働かれていたのですか?」

「えっ? ボルトを知っているの?」

 これまで穏やかな表情をしていた母が突然、身を乗り出して言った。

「ティフィーさん。私とは学友だったと言うことにしてください。死後の世界で会ったなんて言われても、本気にはされませんから」

 ティフィーがしゃべり出す前に耳打ちする。ティフィーは軽くうなずいてから話し始める。

「ボルト様には以前、医学校内でお目にかかったことがあります。当時の私は田舎からこの街にやってきたばかり。ボルト様のお姿が何もかも素晴らしく思えたものです。それ以来ずっと憧れておりました」

「そう……。それを聞いたらあの子、きっと喜んだでしょうね。でも、もうあの子には会えないわ。学校を出てからすぐ軍医になって、それきり帰らぬ人となってしまったんですもの」

 母の表情が暗く沈んだ。父が亡くなった時もそう。こんな顔で一日中ふさぎ込んでいた。

 ティフィーは話を続ける。

「えぇ。わたしもその話を風の噂に聞きつけました。今は再び田舎へ帰っておりますため遅くなりましたが、ボルト様の墓前でお祈りしたくてこうして参った次第です」

「そうだったの。さぞ、遠いところからいらしたのでしょうね。ありがとうございます。もう少し身体が温まったらお墓に案内しますね。そうだ、ハーブティーを入れましょう。身体の芯から温まりますよ。少し待っていてね」

 そう言って母はキッチンのある二階へと向かった。足音が遠退いたのを確認し、私たち三人は一様に肩の力を抜いた。

「……ティフィーさんの台詞回しには驚かされました。まさかこれほどまでにうまく話してくれるとは」

「イフェイオン様にずいぶんと鍛えられましたから、これくらいのことは朝飯前です」

「いいえ、十分すぎるほどです。ランタナも、ティフィーさんを見習って、人との会話が円滑に行えるようになるといいですね」

「うん、そうだね……」

 ランタナはまだ緊張しているのか、顔に表情がない。もともと、表情豊かという訳でもないが、これでは人形のようだ。母から診療を勧められてしまうかもしれない。

「ランタナ、ティフィーさんのように笑顔で。あまり怖い顔をしていると不審がられますよ」

「……そうは言っても難しいよ?」

「努力はしてみてください。お願いしますよ」

「むうー……。分かったよ」

 ランタナはその後、自分なりに表情を改善しようと奮闘したが、結局うまくいかずに投げ出してしまった。こういう時私が手本を示すべきなのだろうが、私もまた笑顔を作るのが下手な人間だ。ランタナの苦労する姿は、まるで自分を見ているような心地だった。

 しばらくして母が紅茶を入れて降りてきた。母のお気に入りだったハーブティーのいい香りが漂ってくる。それに混じって少し焦げた匂いもする。

「ごめんなさい。パウンドケーキを温め直したのだけれど、焼き釜の火が強すぎたのか、焦げちゃったみたいで……。よかったら、焦げてないところだけでも食べて……」

 テーブルに置かれたそれは、周りがカリカリに焦げた物体だった。とてもおいしそうには見えない。そう言えば母は、料理があまり得意ではなかったことを思い出す……。

「そうそう、ボルトのことだけれど」

 母は二人に、紅茶と焼き菓子らしきものを遠慮がちに差し出しながら語る。

「あの子って、格好つけたがる癖があったでしょ? 甘え下手と言うか。友達もほとんどいなくて、仲良くしていた子と言えばリーヴァイ家の長男坊、フランツ君だけ。外で遊ぶこともなくて、一人で黙々と勉強をしていたのを覚えてる。あなたももしかしたら、そう言うところに憧れを抱いていたのかもしれないけれど、どうかしら?」

「そうですね。とても理知的な方でした。誰もがあのお方をそのような目で見ておりましたわ」

 ティフィーは当たり障りのない回答でやり過ごす。母は続ける。

「あの子、物心ついたころから父親に医学を教わっていてね。そんなに机にかじり付かなくてもいいのよって何度も言ったけど駄目。絶対に父さんみたいな医者になるんだって、医学書を手放さないの。父親に似て、すごく頑固だったっけ。その甲斐あって、誰にも負けない知識と技術を持った医者になったわ」

「誇りに思われているのでしょうね。立派な息子さんを持って」

「そうね。確かによくやったと思うわ。でも……」

 母は一旦話を区切り、自分のために入れた紅茶を飲んだ。次に母の口から出る言葉が何であるか、私は緊張しながら待った。母はゆっくりと語り始める。

「あの子は本当の意味でよい医者ではなかったわ。医者というのは単に知識や技術があれば勤まる職業じゃない。患者への思いやりを、愛を持って接しなければ駄目なのよ。でも、あの子の父親も祖父も、そのことを教えてはやらなかった。そして私も、側にいながら教える機会を失ってしまった……。あの子が死んでから気づいても遅いのは分かってるけれど」

 がつんと殴られたような気分だった。少なくとも母だけは、私を認めてくれているものと信じていたからだ。あまりの衝撃の大きさに、母の顔を直視できなかった。

「ボルトは優しいよ。立派な医者だ! ……と思う」

 これまで黙っていたランタナが口を開いた。彼女なりの優しさか。思わず胸が熱くなる。母は微笑んだ。

「なら、あなたにはそういう一面を見せていたのかも。あの子、私に似てとっても不器用だったから。愛し方も愛され方も知っているはずなのに、うまく表に出せなかったのよね。人はね、医者でも治せない病や怪我に苦しむこともあるの。そんな時、治療法を見つけるまで待ってくれって言われるよりは、病気や怪我に負けず、一緒に頑張りましょうって言われた方がいいと思わない? あの子にはそういう接し方が出来なかったと思うから、戦地で治療を受けた多くの戦士たちも苦労させられたでしょうね……」

 母の言葉の一つ一つに思い当たる節があり、耳が痛い。自分の持ちうる医術に自信を持っていたからこそ、相手の立場や感情を慮ることをしてこなかった。病や怪我が治ればいい。それが医者の仕事と思い込んでいた。私は医者として、いや、人として未熟だったのだ。

「もし平和な今、ボルト様が生きておられたら、どのような言葉を?」

 ティフィーが母の言葉を受けて問う。母は少し考えてから言う。

「そうねぇ。人は理想だけじゃ生きていけないって言ってあげたいわね。壁にぶつかって、挫折することもたくさんあるわ。ううん。人生は壁だらけかも。でも、それを乗り越えた時、人は必ず成長できるのよ、って」

「お母様の言葉、きっとボルト様に届いていると思いますよ」

 ティフィーがちらりと私を見たのが分かった。私は母の言葉をかみしめていた。

 ――私に医者を語る資格はない……! いいや、これではランタナに感情を教えるという大役さえ、まともに務まらないじゃないか。

 私はこれまでの人生で、大きな壁にぶつかることなく生きてきてしまった。だから自分の能力を疑うことすらなかった。そして、一人を貫いてきたせいでそれを指摘してくれる者もいなかった。

 ――私はまだまだ消えられない。もっと成長したい……! よき医者に。それ以上に、自分を誇れる人間になりたい……!

 まさか母親に自分の欠点を指摘されることになるとは思わなかった。だが、それが母でよかったのかもしれない。母の言葉だからこそ、信じることが出来る。認めることが出来る。

「ありがとう、母さん……」

 たとえその声が聞こえていなくとも構わなかった。感謝の言葉を伝える気持ちが大切だと思ったからだ。

「私の声、届いているのかしらねぇ? 何だかまだその辺に魂がうろついてるんじゃないかって、心配しているのよ。志半ばで死んだあの子が、未練を残さずあの世に逝けるとは思えなくてねぇ」

「うっ……」

 さすがは母。痛いところを突く。昔から勘だけは鋭い。ティフィーが笑い出すのではないかと心配したが、母の前では終始平静を装っている。

「……なんて、偉そうなことは言えないんだけど」

 母は努めて明るい口調でそう言うと、焦げたケーキを口に放り込んだ。ティフィーもランタナも目を丸くした。

「あ、あの。大丈夫ですか? そんな黒こげの部分を食べても……」

「今、じゃりって音が……」

「私ね。昔から料理が下手で、失敗作ばかり食べてきたから大丈夫よ。最近、料理が得意なお友達に料理を教わって少しは上達してきたと思っていたんだけど、どこかで失敗しちゃうのよね。でも諦めないわ。必ず料理の達人になってみせる。天国にいる、夫やボルトに笑われないように、私も努力を続けないとね」

「まぁ、お母様。それは素敵なことですわ! うまく作れるようになったら、ボルト様の墓前にお供えしてあげてください。きっと喜ばれると思います」

「そうね。そう言えばあなたたち。ボルトのお墓に祈りを捧げに来たのよね? すっかり話が長くなってしまったけれど、日が暮れないうちに行きましょうか」

 いつの間にか私を偲ぶティータイムとなってしまったが、三人は席を立つと自宅からほど近い墓地へ赴いた。自分の眠っていない墓に祈る人々を見るのは、辛いような不思議なような奇妙な心地だった。

 私はその傍らで、墓地や未だ戦地で眠る同僚たちに詫びた。私の未熟さを許して欲しい、と。私にはそうすることしか出来なかった。

「もう日暮れね。今夜はこの街に泊まっていくんでしょう?」

 私の墓で祈りを終えると、母が唐突に言った。ランタナがティフィーの顔を見て、ティフィーは私の顔を一瞥する。が、ティフィーはすぐに自らの言葉で話し始める。

「まだ、どこに泊まるか決めておりませんでした。何しろ、まずはボルト様の墓碑にお祈りを、と思ってお宅を訪問しましたので……」

「そう。なら、ちょうどよかったわ。今夜は家に泊まってお行きなさいな。何ならしばらくいても構わないし。せっかくこの時期に来たのだから、冬至祭も見ていったらいいわ」

 母の思わぬ提案に私は目を丸くした。しかしティフィーは大いに喜んでいる。

「まぁ、それは素敵! ぜひそうさせてくださいませんか?」

「ちょっと、ティフィーさん……」

 私の言葉など耳に入らないといった様子でティフィーは無視を決め込む。母も母で乗り気だ。

「よかったわ。私、夫が亡くなってから、特に夜はずっと一人で寂しくてね。ボルトも夫の死後軍に入隊してしまって、ほとんど帰って来ないままいなくなってしまったから。お祭りの時くらい話し相手がいた方が楽しいじゃない?」

「なら、わたしたちがお話し相手になりますわ。ね、ランタナ様」

「うん。おしゃべりならあたしたちの十八番(おはこ)だしね」

「ランタナまで何を暢気な……」

 戸惑っているのはどうやら私だけのようだ。やれやれ、三対一では勝ち目がないではないか。

 女性三人、私のことなどすっかり忘れて盛り上がり、いつの間にか夕食の買い出しにいくことまで話し合われていた。

「ボルト様。そんなに乗り気でないのなら、お留守番していてくださってもいいんですよ?」

 笑顔のティフィーがそう言った。母が出かける準備をしている間の会話。もはやため息すら出ない。

「君たちには感服しました。魂の私は皆さんの様子を陰ながら見守ることにしましょう」

「そう腐るなって。お前の母さんのお陰で、あたしたちは寝床を確保できたんだからさ」

 はじめはおどおどしていたランタナも、今ではすっかり母と話すのに慣れてそんなことを言い出す始末だ。

「それは事実でしょうが、私としては複雑な心境ですね」

「何で?」

「……一人で生きていかなければならなくなった母の姿を見ても、死んだ私に出来ることは何一つない。ここにいると主張することすら……。それが、もどかしいんです」

「ボルト様は、お母様に何かをしてあげたいのですね?」

「そうですね。母には親孝行らしいことを何もしてあげられませんでしたから」

「今からでも、出来ることはあるだろ?」

「えっ?」

 ランタナの言葉にしばし頭を悩ます。が、答えを導き出す前にランタナが言う。

「お前の母さんが言ってたような医者になればいいんだよ。そしたらお前の母さんも、お前自身の気持ちも楽になるんじゃない? 違う?」

 ランタナらしからぬ台詞回しに思わず感心する。

「えぇ。そうですね」

 私は力強くうなずき返した。

 それから私たちは母に連れられてあちこちで買い物を済ませ、夕食を共にした。私はただ見ているだけだったが、母が笑っている顔を見ることが出来ただけでもほっとした。戦争がなければ今ごろ、父も私も母と共にこうして食卓を囲んでいただろう。だが、私たちが命を張った戦いで戦争は終結した。母にとってその代償は等価とは言えないかもしれないが、私はこれでよかったのだと思う。

 その夜、ランタナとティフィーはかつて私が使っていた部屋で寝るように言われた。ろうそくの明かりを頼りに二階へ上がり部屋の扉を開ける。

 母がまめに掃除をしているのだろう。ベッドのシーツはきちっとアイロンがけされているし、床や窓のさん、棚の上に埃らしきものは見当たらない。だが、机の上や本棚の本は手つかずのまま残されている。当時読んでいた学術書、軍入隊の心得が書かれた入門書など、どれも懐かしいものばかりだ。

「ボルト様らしいお部屋ですね。本で埋め尽くされています」

 ティフィーが燭台をかざしながら狭い部屋を見て回る。

「ろうそくの火をここへ。暗いですが、少しなら部屋の様子も窺えると思いますよ」

 大事な書物に火を移されては敵わない。私はすかさずそう言って、ベッドの脇にある小机に置くよう指示した。ティフィーはすぐに従う。

「やれやれ、ようやく落ち着けた気がしますよ」

 私は言い、床に腰を下ろした。

「はぁ! ……ボルトもここへおいでよ! 気持ちいいよ!」

 既にくつろぎモードのランタナがベッドで寝転がりながら言った。私は丁重に断る。

「いえ。ベッドはランタナとティフィーさんで仲良く使ってください。私はここで結構です」

「ランタナ様の言う通りです。ここはボルト様のお部屋なのですから、どうぞ遠慮なさらずに」

 ティフィーまでランタナの意見に同意して、私を無理やり立たせようとする。

「い、いいんです! 戦時中、硬いベッドで寝る生活に慣れてしまったものですから」

 この様子では「一緒に寝よう」と言われかねない。私の男心など微塵も理解していなそうな二人と密室にいること自体、心苦しくてならない。ならばいっそのこと、部屋の隅で毛布にくるまって大人しくしている方がよほど気楽だ。

 二人は揃って肩をすくめたものの、すぐに私のことなど忘れてベッドに潜り込むと、額をつきあわせる形であっという間に眠りについてしまった。きっと疲れが溜まっていたのだろう。私は二人が眠ったのを確認し、ろうそくの火を消した。

 窓の外を見る。城の大時計の針が、ちょうど十二時を指したところだった。満月が街を照らしているのが見える。私は二人を残し、部屋を後にした。

 街はしんと静まりかえっていた。人影はほとんどない。私はある場所を目指して歩き始めた。そこにはどうしても一人きりで赴きたかった。

 長年、勉学に勤しんだ医学校。私はその正門前で立ち止まった。

 人生の大半を、医術を学ぶことに費やし、それを誇りにさえ思っていた。戦争が始まって軍医になってからは、瀕死の兵士を救うことで国に貢献していると自負してもいた。だが、その思い上がりが通用したのは生前の話だ。

 フェーエンラントに来て私はようやく悟ったのだ。剣の扱いも、女性との接し方も、他人を思いやることさえ思うようにいかない。私は何も知らない、空っぽな人間だということを。

 だが、後悔して立ち止まっている訳にはいかない。ここへ戻ってきたのは、その時の自分と決別するためだ。何事も始めるのに遅すぎることはないと言う。今必要なのはやはり武術。そして筋力や体力だ。現状では、目の前に立ちふさがる敵とまともに対峙することすら出来ない。少なくとも、自分の身くらい自分で守れるようにならなければ。魂の状態でどれだけやれるかは未知数だが、クリーガーに出来るのなら、私にだって出来るはず……。

 私は新たな決意を胸に抱き、自宅へ引き返そうとした。すると、目の前に一人の人物が立っていた。

「ランタナ。どうしてここへ?」

「それはこっちの台詞っ! 武器も持たずに出歩くなんて危険すぎるよ!」

 彼女は眉を吊り上げながら言い、勢いよく向かってきた。私は丁重に謝る。

「すみません。一人で昔懐かしい場所を訪れたかったものですから。今後は気をつけます」

「ほんっと、危機感なさすぎ。これだからただの人間は……」

「…………」

 戦いの場で、私が未だお荷物的存在であることを痛感させられる。本人にその気がないにしろ、やはり傷つく。大いに落胆したが、私は先ほど決意を固めたばかりのことを思い切って言ってみることにした。

「……折り入ってお願いがあります。私に槍術を教えてくれませんか。大剣や槍と対等に戦えるように」

「お前が、槍術を? あたしが教えるのか?」

「他に誰がいるんです?」

 彼女はぽかんと口を開けて私をじっと見ている。

「驚いているんですか? 私の発言に」

「驚く……。そう、驚いてる」

「君の槍術は本当にすごい。何度も見せていただきましたが、そのたびに圧倒されてしまいます。君しかいないのです。お願いします」

「……初めてだよ。そんなことを言われたのは。あたしに出来るかな……」

 ランタナが戸惑っているのが手に取るように分かった。同僚やフランツが相手ならともかく、彼女相手にどう答えるのがいいのか、私自身も分からない。私は返事を待つことにした。

「分かった……」

 ランタナがまっすぐに私を見つめる。私も見つめ返す。

「あたしの稽古は厳しいよ? それでもいい?」

「えぇ。もとより覚悟の上です」

「よし。なら、早速明日から特訓だ!」

「はい。ランタナ先生、よろしくお願いします」

 私は恭しく頭を下げた。彼女は誇らしげに胸を張っていた。

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