ボルト、死す
彼ほど腕の立つ軍医はまたといない。そして、彼ほど仲間から信頼されていない者も。
彼にとっての負傷兵。それは特別な感情を伴わない、治療の対象でしかない。傷を完璧に縫合すること。また薬の投与で病を治し、患者を快復に向かわせること。彼は、それが自らに与えられた使命であり、真の平和と自由を手に入れるための必須事項だと信じて疑わなかった。彼が救っているのは仲間ではない。生きる可能性を残した人命そのものである。
同時に、彼は終始救う側の人間だった。確かに死は身近な存在だったが、それが自分の身に及ぶことを真剣に考えたことはなかった。戦場から離れた場所に勤務する軍医という立場が、危機感を薄れさせていたのだ。
いよいよ戦況が怪しくなったある日、彼は戦地への派遣を言い渡された。総攻撃とも言える陽動作戦の決行。この戦いにすべてが懸かっていることは明白であった。
非常に厳しい戦い。傷ついた仲間たちは治療も虚しく果てていく。もはや彼の腕の及ぶところではなかった。状況は明らかに劣勢。彼は焦りと絶望を感じ始めていた。
人は冷静さを欠くと、置かれている状況をも見失ってしまうもの。警戒を怠り、兵舎から飛び出した彼を待ち受けていたのは、死。彼の身体は、眼前の光景と共に両断された。激痛。それは、鮮血を目視した途端に訪れた。制止を振り切り、瀕死の身体を押して戦場に向かう負傷兵を見送った、直後のことだった。
あまりにも突然の出来事。予期せぬ事態に彼は苦しみよりも激しく戸惑い、生への執着、そしてこんなところで死に果てる不運を呪った。
――死にたくない……! 私にはまだやり残した仕事が、使命がある……!
だがその思いは、鮮血と共にどんどん流れ出ていく。
――彼らは、こんな思いで死んでいったのか……。
最期に、死に果てた同僚の気持ちを理解する。
――救われたい。この恐怖から。絶望から。苦しみから。誰か、助けてくれ……!
必死に同僚の姿を捜す。誰もいない。更なる絶望と耐え難いほどの恐怖が彼を襲った。既に血液の多くが失われ、視界はぼやけきっている。その目に何かが映り込んだ。
「死ぬなっ! 俺の前で死ぬんじゃねぇっ!」
目と言うより、耳でその人を理解した。駆けつけた親友の存在を。親友の呼びかけは、孤独のうちに死んでいく怖さを取り除いていった。
「ありがとう。私の、たった一人の友よ……」
彼は、男の腕の中で息絶えた。ヴォルクト・ファーベル。享年、二十九歳であった。
*
ここは私の知る世界じゃない。そう悟るのに時間は掛からなかった。薄暗い部屋。よどんだ空気。同じ気分を害するにしても、戦場とはまるで違っていた。
私は自分の死を理解しながら認めてはいなかった。不当。あまりにも不当すぎる。こんな現実、受け入れられるはずがない。私は心の底から憤りを感じていた。
死後の世界があるなど馬鹿げている。医者である私が認める訳にはいかなかったし、それこそ、患者を救えなかった時の逃げ道を作っておくみたいで嫌だった。だが、その場所は存在した。私自身がこの目で確認してしまったのだ。そしてそこの住人は……。
「もうっ! お前がここにいるだけでイライラするよっ! あぁ、どうしてこんなことになっちゃったのさ!」
ランタナ・ジェニーという名の女性はきんきんした声でそう言うと、眉を吊り上げながら私に詰め寄った。長いまつげが触れるほどの距離。相手の容姿が嫌でも目に入る。端整な顔立ちの持ち主にはおよそ似つかわしくない怒りの形相。筋肉質な手。見たことのない素材で出来た軽装の鎧やマント……。眼鏡を外し、何度となく目をこすってみたが、どうやらこれが現実らしいのだ。そして今の一言で、私の落ち着きかけていた気持ちが再び熱を帯び始める。
「ランタナさん。お言葉ではありますが、あなたが連れてきたんでしょう? 私は好きでここへ来た訳じゃないんです!」
感情的な言葉が口を衝いて出る。しかし。
「あたしだって好きで連れてきた訳じゃないっ! これは事故、事故だったの! あたしは絶対悪くないーっ!」
ランタナは短い舌をべーっと出して無実を主張した。緩やかに編んだ金髪が揺れる。豊満な胸が辛うじて隠れている露出度の高い鎧もさることながら、癇癪を起こした子供のような態度に、ますます怒りが込み上げる。
「私は転生したいんです! それさえ叶えてくれればいいんですよ!」
私は語気を強めて言った。
「ムカッ! だからっ! これから女王陛下んとこ行って頼んでやるって、さっきから言ってんだろっ?!」
彼女は似たようなテンションで声を荒げ、身振り手振りを交えながら更に捲し立てる。
「あたしはワルキューレなの! 優秀かつ勇敢な戦死者の魂をここへ連れてくるのが任務であり使命なの! あぁ、お前に隆々とした筋肉があったらどんなによかったか……! せっかく女王陛下に実力を認めてもらうチャンスだったのにっ……。もうっ、どうしてくれるのさ!」
「そんな言い訳は聞きたくありません! 私がここにいてはいけないと言うのなら、しかるべき処置を早急にしてください!」
「ムカッ! 分かってるってばっ!」
彼女は口を尖らせ、腹立たしそうに答えた。このやりとりだけでもう三度目だ。再びため息を吐く。
「まぁまぁ、お二人とも。立ってないで座ったらいかがです? お話し相手も増えたことですし、お茶でも飲んでおしゃべりに興じましょう?」
そう言いながら一人紅茶をすすっているのは、翠玉色の眼とストレートの長髪を持つやや小柄な女性。ティフィーという名の彼女は先刻から私たちの様子を傍観していたが、ようやく口を開いた。黙っていると思ったら、どうやら紅茶を淹れていたらしい。
「お茶くらいで私の気持ちが収まると、本気で思って言っているのですか……?」
怒りに震えながら言う。ティフィーは翠玉色の眼をぱちぱちさせ、あっけらかんとしている。
「気持ち、ですか? おいしいものをいただけば会話は弾みますが……?」
「…………」
会話がまったくかみ合わず、相手にするだけ無駄だと悟った。
人間の姿をしているから話も通じるだろうという考え自体、間違っているのかもしれない。言葉が通じるだけましというものだ。
呆れ返る私の横ではランタナが相変わらず行ったり来たりしている。ティフィーがティーカップを差し出していることにも気づいていない。
「よし。あたしが一足先に行って、陛下への謁見を申し入れてくる! お前はここで待て」
「ちょっと! 君が行くなら私も行きます! 連れて行ってくれる約束です!」
足早に部屋を横切って出て行こうとするランタナの前に立ちはだかる。だが、片手で押し退けられる。
「もうっ! 邪魔するなよ、ボルト! あたしに従わないってことは、女王陛下に背くってこと。つまりっ! 陛下にも会えないってこと。分かる?!」
「私の名前はヴォルクト・ファーベルです! 会って間もない人が気安く愛称で呼ばないでください。不愉快です」
「呼び名なんてどうでもいいだろっ! とにかく、大人しくしててよ! 準備が出来次第、ティフィーが案内してくれるから!」
「お任せください。うふ」
「…………」
このやりとりにはついて行けない。一緒にいるだけで疲れが溜まる。
「それじゃあティフィー。後は頼んだよ!」
そう言ってランタナは部屋を出て行った。
「待ってください、ランタナさん!」
すぐに追いかける。しかし、彼女の姿はもう見えなくなっていた。やむなく室内に引き返す。笑顔を浮かべるティフィーの姿が、ぼんやりと浮かび上がって見える。
「そんなに急がなくてもいいじゃありませんか。後でちゃんと陛下のもとへお連れしますから、少しの間、冥土の土産に天界製の紅茶を召し上がってくださいな」
「冥土の土産って……」
急く私のことなどお構いなしのティフィーは、淹れたての紅茶を勧めてきた。こんな状況で落ち着いていられる訳がない。まったく解せないまま湯気の立つティーカップを見つめる。ティフィーは私をもてなそうとしているのだろう。しかし、それを素直に善意と受け取るのは私の意に反する。初めて会った人なら尚更だ。
部屋の照明は、四隅に一つずつ置いてある花の形をしたランプだけだ。ただでさえ居心地が悪い部屋にティフィーと二人きり。こういう状況は本当に苦手だ。私は紅茶には手をつけずに室内をうろついた。じっとしているだけで気が滅入りそうだ。ティフィーが私をじっと見つめている気配を感じる。しばらくの間無言の時が流れた。
「……やはり違いますね、聡明なお方は」
長い沈黙を破るようにティフィーが言った。
「……私のことを言っているのですか?」
遠慮がちに問うと、彼女はすぐに「はい」と答えた。
「ランタナ様をはじめ、ワルキューレの方々が連れてくる戦死者の魂は戦場で果てた武将ばかり。力が強くて、乱暴で。時には亡くなったことを認めずに暴れる方もいるんですよ。それに比べてボルト様は、状況をちゃんと見極めて行動しようと努めていらっしゃいます」
「…………」
「今までボルト様のような方がこの『天空の世界』へ来たことはありません。あなたなら、フィンスターゼ女王陛下とも対等に話し合えるでしょう。きっとこの問題はちゃちゃっと解決しますから、あまり心配なさらないでくださいね」
「そう言うのなら、早く女王に会わせていただけませんか。私は何も、この国の仕組みやあなた方のことを理解したい訳じゃない」
いつまでも席を立とうとしないティフィーを見て、私との会話で時間を稼いでいるのではないかと疑念を抱く。よく考えてみれば、彼女たちの言葉を信じる材料は何一つない。何よりここは未知の世界なのだ。すべてにおいて用心しなくては。
「……分かりました。では、参りましょうか」
紅茶を一口すすり、時間が来るのを待つかのような間を置いた後、ティフィーは言った。
「ランタナ様とは女王の間の前で合流できると思います」
まさに今、問おうとしたことが彼女の口から告げられる。胸の内を読まれているようで気味が悪い。ティフィーは扉を開けて先に出ると、続けとばかりに手を差し出した。つぶらな瞳がこちらに向けられている。私は少し距離を置いて後に続いた。
廊下には窓一つなく、今までいた部屋同様、闇に包まれたように暗い。花の形をしたランプは一定の間隔で通路に設置されているが、これでは足もとが覚束ないだけでなく、どこかに刺客が隠れていても応対できない。不安ばかりが募る。
「ついて来ていますか?」
時々ティフィーが立ち止まり、声を掛けてくれる。
「えぇ、大丈夫です。ありがとうございます」
「わたしたちはこれに慣れていますが、人間はそうではありませんものね。ですがご勘弁を。女王陛下は闇の国を統べるお方なので、烏 城全体がこのようになっているのです」
「闇の国……」
「この国のこと、ご興味が湧いたのならお話ししましょうか?」
「……いいえ、結構です」
そう言ってずれていた眼鏡を押し上げ、まだ見ぬ女王に思いを馳せる。
闇の国を統べる女王。その響きだけでも恐ろしい。私のような人間の話をそんな大物が取り合ってくれるのだろうか。いや、ひょっとして不安を抱かせることがティフィーの狙いなのでは? いらぬ想像が次々に巡る。
――考えるのは止そう。本人に会ってみなければ何も分からないじゃないか。
私の中の冷静な心がそう言った。
暗闇に慣れてきた。嫌な感じがなくなって、周りの様子が見えてくる。先ほどまでは分からなかったが、前を歩くティフィーの服装――ミニスカートに、腰から足にかけて垂れ下がるエプロン状の布。その裾に変わった模様の刺しゅうが施されているところまで――がはっきりと確認できる。
「もうすぐ着きますよ」
まじまじと観察しているところで声を掛けられ、身体がびくりとする。相手を見極めようとする際、いつもこうして隅々まで観察するのが癖なのだが、どうやら気づかれた訳ではないらしい。ほっと胸をなで下ろす。が、すぐに重苦しい空気を感じ、気を引き締める。女王の間が近づいていることを肌で感じた。
巨大な扉の前までやってくると、ティフィーの言う通りランタナが待っていた。
「遅いっ! 一体何してたんだっ! 陛下は既に待ってるんだぞ?!」
「申し訳ありません。ボルト様はこの暗闇に慣れておりませんので、少々時間が……」
「もうっ! 待ちくたびれちゃったよ。お前もそうだろ?」
そう言ってランタナは振り返った。私と変わらない長身である彼女の後ろには、それを上回る背丈の人物が、のそっと立っていた。私はその男の顔を見て衝撃を受けた。
「フランツ……」
「お知り合いですか?」
ティフィーの問いに、私は戸惑いながら答える。
「知り合いも何も、彼は私の親友ですよ。まさかこんなところで会うことになろうとは……」
私の足は自然とフランツのもとへ動いていた。
「どういうことです? てっきり生き残ったのだとばかり思っていたのに。やはり負けたのですか、あの戦いは」
記憶が正しければ、私の死を看取ってくれたのは他ならぬ彼である。震える声で尋ねる私にフランツは肩をすくめてから答える。
「陽動作戦は成功した。勝った、と思う。俺だって、勝利の瞬間まで生きられなかったんだ。断言は出来ねぇけどよ。ただ、俺は敵軍の大将と刺し違えて死んだんだ。無駄死にじゃない。それだけは胸を張って言えるぜ!」
「そうだったのですか。敵の大将を……」
「もっとも、俺が大将を討てたのは先陣が頑張ってくれたお陰だ。ホント、感謝してんだ。あと、これは言い訳に聞こえるかもしんないけど、俺はもっと早くに駆けつけるつもりだったんだぜ。上官がなかなか決断を下さないんで最終的には一人で飛び出したんだが、一足違いでお前を死なせちまった。お前のその、自慢の銀髪が赤く染まっているのを見た時、どれだけ後悔したことか。本当に申し訳なかったと思ってる……」
「いいえ。君はちゃんと私のもとへ駆けつけてくれました。死の間際、絶望の淵に沈みかけていた私の心を、君は救ってくれたんです。謝る必要はありません」
見知った者、しかも親友と再会できたことで、ずっと張り詰めていた緊張が少しだけほぐれた。語りたいことも聞きたいこともたくさんあった。だが、私はその中で最も気になった疑問を口にする。
「ところで、なぜ君がここに? しかもランタナさんと一緒だなんて」
問いに対し、ランタナがやはり怒った口調で答える。
「あたしはこの男だけを連れてきたかったんだよっ! 戦士であるこの男だけをっ! フェーエンラントの戦士に(クリーガー)するためにっ! 分かるっ?!」
「……なるほど。確かにフランツは勇猛果敢な戦士。鍛え上げられた肉体も持っている。ランタナさんが捜し求めている人材に違いありません。私とは違ってね」
私は皮肉をたっぷりと効かせて言った。だが、彼女に私の意図は通じなかったようだ。
「そうだよっ! もうっ! 分かってるんなら話はここまで! とにかくついて来い! 中で女王陛下が待ってるんだからっ!」
「……やれやれ。もう少し丁寧に言えないのですか?」
相も変わらず命令口調で指示を出すランタナにうんざりする。だが、これ以上怒らせたらますます面倒な気がしたので、しぶしぶ彼女の後に続く。
「……ティフィーさん。どうかされましたか?」
皆が歩き出したと言うのに、ティフィーだけはその場に立ち止まったまま動かなかった。私が声を掛けると、彼女は笑顔のままで、
「ランタナ様のご報告が済むまではご一緒できない決まりなのです。ですから、わたしはここでお待ちしております」
そう答えた。
「ボルト! 遅れるんじゃない!」
扉を開け、既に中へと歩みを進めていたランタナが振り返って声を張る。その様子を見ていたフランツがため息を吐いた。
「貴公のその物言い、何とかならないものかな。聞いているこっちの気分が悪くなるんだが」
「お前も何ぶつぶつ言ってんだっ! 口じゃなくて足を動かせ!」
「……ちぇっ。ああいう女は好きになれねぇなぁ。目がおっきくてかわいいのに、勿体ねぇ」
不満そうなフランツの声が耳に届いた。
「フランツ。今は彼女に従うんです。仮にも、女王陛下の御前なのですから」
「分かってらぁ。俺だって、君主への謁見の仕方くらい心得てる。お前に言われなくたってな」
そっと耳打ちすると、フランツは表情を曇らせたまま、大股でランタナの後に続いた。私も再び歩き出す。赤いじゅうたんの先には、玉座に腰掛ける女王らしき姿が見える。彼女は鋭い視線でこちらの様子をじっと見据えていた。
「おぉ、ランタナ・ジェニーよ。よくぞ戻った」
その声は実に威厳に満ちていた。初めて耳にした私でも、一言でそれが女王のものであると分かるほどに。そして暗闇の中、次第に浮かび上がる容姿に私もフランツも息を呑んだ。
美しい。その一言に尽きる。腰まで伸びた髪は黒く、毛先に行くほど銀色に変化している。左目はその長い前髪ですっかり隠れているが、それがかえって妖艶さを増している。また、長い足を覆うのは一見ただのロングドレスのようだが、よく見ると時折、水のような雫が跳ね上がっていて、それが液体で出来ているのではないかと想像させた。
「はっ、ご報告が遅くなり、申し訳ございません」
女王の言葉にランタナは畏まって答えた。
「陛下。ご命令通り、勇猛果敢な戦士の魂を回収して参りました。こちらのフランツ・リーヴァイと申す男がそうです」
「おぉ。ご苦労であったぞ、ランタナ。そちは誠に優れたワルキューレよ。妾の(わらわ)目に狂いはなかったようじゃ」
「もったいなきお言葉」
「褒美として、そちにこれを授けよう。妾が作った槍、ティーフ・シュヴァルツじゃ。どんなものでも容易く貫くことが出来るだろう。これからも存分に妾のために働いておくれ」
「はい。ありがとうございます!」
「して……。後ろに控えるもう一人の男は? 先ほどから気になっているのだが」
ランタナと話をしながらも、女王の視線はずっと私に向けられていた。話が私に及ぶと、自然と身が引き締まるのを感じた。
「それが陛下……。実は」
ランタナのはきはきしていた声が途端に小さくなる。
「戦士の魂を回収する直前、突如として眩い光が辺りを包み込み、つかの間ではありますが盲目状態に陥ってしまったのです。長年の勘を頼りに任務を遂行しようとしたのですが、誤ってもう一人の男の魂も一緒に……」
決まりが悪そうに語るランタナの話を女王は大変興味深そうに聞いていた。そして意味ありげに微笑んだ。
「なるほど。面白いではないか」
「陛下!!」
「そう語気を荒げるでない、ランタナよ。そちは失敗したのではない。こうして戦士候補の男を連れて帰ってきたのだから」
「し、しかし……」
「ただ思わぬ戦利品をも手に入れた……。そう思えばよいではないか」
「戦利品……ですか。この男が?」
ランタナはそう言い、私の顔をしげしげと眺めた。だが私は女王から目を離さなかった。女王もまたこちらを見つめる。
「きりっとした鋭い目つき。悪くない顔じゃな。そち、名を何と申す?」
女王は手に持っていた羽扇子で私を差した。私は緊張しながら一歩前へ進み、深々と頭を下げる。
「ヴォルクト・ファーベルと申します。生前は軍医を務めておりました。陛下、私がここへ来たのはあなたに……」
「皆まで言わずとも分かっておる。転生したいのだろう?」
「……おっしゃる、通りです」
私の心が読めるのか、女王は迷わずそう言った。
「転生するには死者の国へ行き、魂を浄化する必要がある。が、妾の力があれば一瞬じゃ。謁見が叶ったことを感謝するのじゃな。ヴォルクト・ファーベル、面を上げよ」
女王がすっと立ち上がるのが分かった。私は恐る恐る顔を上げ、その行動をじっと窺う。
丸い物体が暗がりにぼんやりと浮かび上がる。それは女王に導かれるようにやってきた。
「これが死者の魂、そちと同じ運命を辿る者じゃ」
「…………」
「妾のもとへ導かれた魂は……」
女王が手をぎゅっと握った。すると、魂が一瞬にしてはじけ、跡形もなくなってしまった。思わず後ずさる。女王の口元には笑みが浮かんでいる。
「消滅あるのみ。新たな命となって地上に転生することもままならぬ」
「そんな……」
全身が凍り付き、頭の中が真っ白になった。思わずランタナに当たる。
「どういうことです?! 女王陛下なら私の魂を転生させてくれる、そう言ったではありませんか?!」
「し、知らないよ! あたしはこの国に来たばっかなんだからっ! それに、最初にその話をしたのはティフィーだっ! 文句があるならティフィーに言ってよ!」
「えっ?」
どうなっているんだ。頭の中が混乱する。戸惑う私の姿を楽しむかのように女王は腕を組み、微笑を浮かべている。
「既に死んでいるそちでも、消滅するのは怖いか?」
「…………」
「そうであろう、人は誰もが死を恐れ、存在が忘れられることを嫌うものじゃ」
「私はそんなものを恐れては……」
「ふん、強がるか。そちの隣にいる男を見よ。そちと同じ境遇にいながら、微塵も恐怖を感じてはおらぬ。まさに戦士の鏡じゃ。そうであろう?」
女王の視線がフランツに向けられる。フランツはその場に跪いた。
「はっ。戦争に勝利する瞬間には立ち会えませんでしたが、上官より責任ある務めを任され、それを実行できたこと。そして戦場で名誉の戦死を遂げられたこと。誇りにこそ思えど、後悔はしておりません」
「フランツ……」
私は彼の顔を凝視せずにはいられなかった。女王が声を立てて笑う。
「ハハハハ! 聞いたか、ヴォルクト・ファーベルよ。死を恐れないと豪語するならこの男のように言うことじゃ。妾はフランツ・リーヴァイのことが気に入ったぞ」
「ありがとうございます。陛下が自分めの力を必要としてくださるなら、クリーガーとなってお側にお仕えいたしましょう」
「馬鹿な……! 魂の消滅を目の当たりにしたと言うのに、女王の言葉を信じるのですか?! クリーガーがどんな存在なのかも分からないのに!」
昔から物事を深く考えずに行動するところがあったが、いくら何でも無謀すぎる。だが、その物言いは女王を大いに喜ばせた。
「闘志に溢れた言葉、ますます気に入ったぞ。よし、そちにはクリーガーとして存分に働いてもらおう。よい役職もくれてやる」
「ありがとうございます」
フランツの顔は誇らしげだった。なぜそんな表情が出来る? 私は孤独になっていくのを感じた。
女王は即座にフランツのもとへ歩み寄った。一歩足を踏み出すたびに、液体のようなドレスから長い足が見え隠れする。堂々たる歩き方もさることながら、その威厳に満ち溢れた様子に圧倒される。フランツの前まで来ると、女王は彼の顔を凝視し、頭上に手をかざした。
「……やめろっ!」
私は思わず女王に飛びかかった。フランツがさっきの魂みたいになるのを見たくはなかった。
「愚か者! その程度の力で妾を押さえられるとでも思うたか!」
軽く肩を押されただけに感じた。が、その力はすさまじく、一瞬にして部屋の隅へとはじき飛ばされた。
「クリーガーになること。それがこの男の望みなのじゃ。邪魔はさせぬ」
女王は再び手をかざし、儀式を続行した。
「……さぁ、妾の僕な(しもべ)る者。内なる力を目覚めさせるのだ。生ける間に抱いた憎悪を、苦痛を、恐怖を思い出せ! その元凶は何だ? そちを苦しめたのは誰だ? 憎いだろう? 報復したいだろう? それこそが力。それこそがすべて! さぁ、戦士よ。今ここに立ち上がるのだ!」
女王の目が赤く光った。跪いたままのフランツはその目をじっと見つめたまま動かない。消滅は……しないのか?
やがて女王がかざした手を下ろすと、フランツはすっと立ち上がり、深々と頭を下げた。
「……フランツ?」
這うようにして彼に近づく。こちらに向けられたその目は、冷たい光を放っている。何も語らない彼にもう一度呼びかける。が、返事はない。
「何を言っても無駄じゃ。その男はもう、そちの知る男ではない。そやつは望み通りクリーガーに、妾の忠実な僕となったのじゃ」
「クリーガーに……。ではなぜ私の言葉に応えないのです?」
「クリーガーとなった者は、ただひたすらに戦うことだけを生き甲斐とする。いわば兵器なのじゃ。妾の命令にしか従わない。そして、兵器に無駄な機能が不要であるように、クリーガーも雑念や過去の記憶のない方が戦力として価値がある。故に、そちのことは何一つ覚えてはおらぬのじゃ」
「なっ……」
言葉も出なかった。怒りを通り越して、ただただ恐ろしさを感じた。その女王が今度は私に迫る。起き上がるなり、壁際に追いやられた私に逃げ場はない。
「妾は、死者の魂をいかようにも操れる。葬り去ることも、クリーガーにして永遠の命を与えることも」
「……私をどうするつもりですか」
「それを決めるのは妾ではない。妾は寛大じゃ。そちには選択の権利を与えてやろう。もしクリーガーになることを望むなら、ランタナの功績に免じて特別に計らってやってもよいぞ。軍医であったのなら、武術の心得くらいは持っておるのだろう?」
「……消滅するか、奴隷になるか、選べとおっしゃるのですか」
「そうじゃ。さぁ、好きな方を選ぶがよい」
――そんなの、出来る訳ないじゃないか。
あまりにも酷い仕打ちだと思った。どちらを選ぶにしても転生したいという望みが叶えられることはないのだ。私は地獄へやってきてしまったに違いない。
「……選択する権利があるのなら、それを拒む権利もあるはず。私はどちらも拒否します」
私にも意地がある。どうせ自由を奪われるのなら、最後まで抵抗する。これまでもそうして生きてきたのだ。ここで曲げる理由もない。
女王はあごを上げ、私を蔑むように睨み付けた。女王の手にしていた羽扇子が頬を打つ。
「妾に慈悲を乞うたのはそちであろう! 生意気なことを言いよって!」
「私は、自分が信じたものにしか従わない。それだけのことです。まして自身の考えを無理に押しつけるなど言語道断。受け入れる訳にはいきません」
「ふん。そこまで言うのなら、妾にも考えがある。ランタナよ、こちらへ」
「はい。陛下」
跪いたまま事の次第を見守ってきたランタナは、女王の指示を受け立ち上がり、側へ歩み寄った。女王の羽扇子がランタナの肩に置かれる。
「光の国の王、アルゲランダーのもとへ行け。この男を連れて行くのじゃ。それが次なる任務じゃ。よいな?」
「……はっ。仰せのままに」
ランタナは理由も聞かないまま、女王の言葉を受け入れた。
「アルゲランダー王のもとへ行く目的を教えていただけませんか?」
私はすぐに疑問をぶつけた。女王はほくそ笑む。
「あやつなら、そちの望みも叶えてくれるであろう。もちろん、ランタナほどの優秀なワルキューレを首にした愚か者を、己が信念とやらで説き伏せることが出来ればの話だがな」
「……私の望みを叶えるために、わざわざそのような命をお出しになるのですか?」
「まさか。そちのようなひねくれ者、妾が手を下すまでもない。無論、この国に置いておく価値もな」
「…………」
「妾の言葉を信じるかどうかもお前に委ねようぞ。好きにするがよい」
女王の手でひねり潰されなかったことをよしとするか。それとも、これも試練と捉えるべきだろうか。ただ、今言えるのはこれ以上逆らわない方がいいと言うことだ。辛うじて繋がったこの魂、再生の可能性が残されているのならその道にすがる手はない。
「……行きましょう、光の国へ」
女王の顔色を窺いながら言う。
「ほう。それがそちの選んだ道か。その道のりは決して容易くはないぞ。せいぜいあがく事じゃな。……ランタナよ。出発は明朝じゃ。そちのために新しい部屋を用意した。今夜はゆっくりと休むがよい」
「はっ。ありがとうございます。それでは失礼します」
女王からの指示を受けるとランタナは短く返事をし、踵を返して一人、足早にその場を後にした。
「さぁ、そちも行け。目障りじゃ」
女王は本当に嫌そうな顔をして言った。女王とは相容れない。それが分かった以上、もうここにいる理由はなかった。
女王の命令をいつまでも待ち続けるフランツを横目で見遣る。たった一人の友を私は永遠に失ってしまった。しかもこのような形で。せめてここで、彼なりの幸せを見いだして欲しい。そう願いながら私は部屋を後にした。
「陛下に代わって、オレ様がてめぇを始末してやろうか?」
女王の間を出るとすぐ、怪しげな影が私の眼前にふわりと現れ、行く手を遮った。鋭く尖った刃物のような爪が目の前でぎらつく。私には一時の休息も許されないのか。息を呑み、私はただ、頭から足先までフードをかぶった男の出方を窺った。男は不気味に笑う。
「クヒヒヒ……。そう警戒するなよ。オレ様の名はミューラ。陛下に仕えし者だ。今日はただの挨拶。また会う時まで覚えていてくれ」
「……あなたもまた、女王の命で動いているのですか? クリーガーと同じように」
「いいや。これはオレ様の意志さ。こんなに面白い人間と関わり合う機会は滅多にあるもんじゃねぇからな。クヒヒヒ!」
そう言うと、ミューラと名乗った影は私の目の前から忽然と姿を消した。
――ミューラ……。女王の手先か。この先も一筋縄とは行かなそうだな。
更なる不安が募る。私は暗い廊下の先を睨んだ。
「ボルト。準備は整った。さっさと行くよっ!」
ランタナは私が目覚めたかどうか確かめもせずに声を掛けた。
「もう出発ですか?」
私はベッドに横たわってはいたが、既に目覚めていた。というより、いろいろなことがありすぎて寝付けなかった。ランタナの相変わらずの調子と、目のやり場に困る破廉恥な鎧を見て一気にテンションが下がる。起き上がると、いつでも出発できるといった格好でこちらを見ている彼女の姿があった。
――やれやれ、道中ずっとこの人と一緒というのは実に疲れる……。
しかしやむを得ない事情がある。フィンスターゼ女王から嫌われ、居場所を失ってしまった私にとって唯一残された道。それはアルゲランダー王に死者の国へ導いてもらうことだ。分かっているつもりだったが、実際に帰る場所を失うことがこれほどまでに胸を締め付けるとは思っていなかった。そして、ここにいるだけで魂が消滅する恐怖に襲われ、頭がどうかしそうだった。そんな苦痛を味わうくらいなら、いっそのこと反りは合わなくともランタナと一緒にいる方がいい。誰でもいいから話し相手が欲しいというのも正直なところだった。
「待ってください。今支度をしますから」
そう言って身なりを整える。だが支度と言えるほど、何か準備をしなければならない訳でもない。軍服を羽織り、腰にレイピアとダガーを携えるだけだから、準備はものの十数秒で済んだ。
「いいですよ、行きましょう」
眼鏡を押し上げ、いかにもランタナより優位に立っているような語調で言った。しかしランタナは何の反応も示さない。昨日あれほどいきり立っていたのが嘘のようだ。
「……私と一緒に行くことになって、何とも思っていないのですか?」
あえて聞いてみる。
「ん? あたしは陛下の命令に従うだけだよ。でも本音を言えば、お前なんか早く死者の国に行っちゃえばいいのにって思ってる。お前と話してると疲れるからね」
「自分のことを棚に上げてよく言いますね。それは君が、私を誤って連れてきてしまったからでしょう? 自業自得というやつですよ」
「ムカムカッ……! 分かってるよっ! 分かっていることをいちいち言うな、馬鹿っ!」
ランタナは手足をばたつかせ、顔を真っ赤にして怒った。一睡し、私自身が落ち着いたせいか、彼女の子供じみた態度に思わず笑いが込み上げる。
「失礼。私は思ったことは口にしないと気が済まない性分なものですから」
「くぅっ! 減らず口を……!」
そう言うなり、ランタナは手にしていた長槍を私の胸に突きつけた。さすがに、これにはたじろぐ。昨日、女王に消された魂のことを思い出して身の毛がよだつ。
「……いきなり武器を突きつけるとは、穏やかではありませんね。抵抗したら武力行使に出てもいいと命令されているのですか?」
「あたしはただ、お前を光の国へ連れて行けって言われてるだけだっ!」
「ならば、それをしまってください。これ以上、恐怖を味わいたくはない」
「ふんっ! 分かったよ」
意外にもランタナはあっさりと私の言葉に従った。いや、それが女王の命令ではないことを悟ったと言うべきか。とにかく、これで無事に前へ進める。
「ボルト、何ぐずぐずしてるっ?! 置いてくよっ!」
出発を急ぐランタナに遅れないよう、私はすぐに後に続いた。
――まぁ、彼女といるのも悪くないでしょう。一人でいるよりは、気が楽になりそうだ。
感想、随時お待ちしております☆