3章 貴方のお名前教えてください 4
「自分が逃げてきた場所もわからんのか?」
不意に背後から告げられ、エリヤはのろのろとグレイブを見上げる。
「よそから攫われてきたのか……その方が秘密を外に漏らす心配はないだろうが」
彼はエリヤにはよく分からないことをぶつぶつと呟く。けれど今、エリヤにとって彼の言葉の内容などどうでもよかった。
「ここは、どこですか?」
自分は一体どこにいるのか。
父の墓参りに来ただけのはずだった。途中で倒れて、拾ってもらったというハプニングこそあったが、この後はお礼を言って家に帰るつもりだった。
けれどずっと王都に住んでいるはずなのに、エリヤには全く見覚えの無い景色が広がっている。
問われたグレイブは、淡々と答えた。
「王都レネダの東側。第二クレセント通りから少し外れた場所だ」
クレセント通りは、王都の西と東に一つずつある、弓状に曲がった通りだ。西を第一クレセント。東を第二クレセントという。
それはエリヤも知っている。けれど第二クレセント通りならば、エリヤは近隣の様子を詳細まで知っている。自分が部屋を借りているアパートも、第二クレセントの近くにあるのだから。
けれどこんな景色に見覚えなどない。まるで、百年前に自分だけ逆戻りしたような状態だ。
何より空気が違った。
鼻をつくのは、木や石炭を燃やしたような焦げ臭さが混じった匂いだ。
魔術式を使って車を走らせ、熱も空気を魔力で暖めてつくりだしていたエリヤの知る王都では、漂うことのないにおい。
ぼんやりとするエリヤの様子を、グレイブは知らない通りの名前を聞いたせいだと思ったようだ。
「わからんのか?」
エリヤはうなずくこともできない。知っているが、エリヤの知っているものとは違うのだ。
「い、いま何年?」
唐突な問いに、グレイブは答えてくれる。
「一八八一年だ」
「せんはっぴゃく……」
ぼんやりと反芻するエリヤに、横から新聞が差し出される。エリヤはフィーンに礼を言って受け取った。
これもエリヤの見たことがない、なめらかさが足りない藁版紙に、インクの濃い匂いがする物だ。ただ、レネダ通信という名前は知っている。百年以上の歴史がある老舗の新聞社だ。
エリヤは震える手で新聞を受け取った。
新聞の上部に印字されているのは間違いなく、一八八一年四月八日の日付。下の記事は、賢王と『後に』呼ばれるようになる国王ヴィオレント一世の謁見に関するものだ。
「おうさま。ヴィオレント」
これも間違いない。十九世紀の有名な国王だ。しかも記事には写真ではなく詳細な絵がついており、その姿を見る限りヴィオレント王はまだ十八歳位で、即位したての年齢に見える。
――――まさかここは、過去?
エリヤはめまいがした。
誰か自分に銃を渡して欲しいと切に願う。さわっていられると安心できるのに。
けれどそんな願いが叶うわけもなく、エリヤは足元から力が抜けて、その場に座り込みそうになる。
「おい!?」
実際くずおれそうになったエリヤは、後ろにいたグレイブに支えられた。
しかしエリヤは、今感じているこの人の手の力強さもなにもかも、現実だと思えるのに、目の前の景色だけが受け入れられない。
「ここは……どこ、ですか?」
エリヤはあえぐように問う。
「見覚えがないのか? アヴィセント・コートは知っていたみたいだが……」
「記憶喪失かな?」
グレイブの疑問に、フィーンが戸惑った声が重なる。
「もう一つの可能性としては、何者かに別な場所をアヴィセント・コートだと偽られて、信じていたのか。お前、生まれ故郷はどこだ?」
グレイブに尋ねられて、エリヤは首を横に振る。
ちゃんと覚えて居る。王都から東のエーレント市だ。
けれど王都の様子を見ればわかる。エリヤの知っているエーレント市は、この世界に存在してない。