3章 貴方のお名前教えてください 3
廊下の漆喰の白壁といい、掛けられた明かり用らしいオイルランプといい、飴色の木の階段といい、エリヤの拾い主の家はやけにレトロだった。
エリヤが住んでいる共同住宅でさえ、小さな術式がほどこされた光灯があり、引き金に似たスイッチを押すだけで明かりが付くのに。
けれどその疑問は、階下に降りたところにある扉を開いたとたん、氷解した。
墨色の落ち着いたテーブルセットが並ぶ拾い室内。
カウンター席の向うには、硝子製の丸いサイフォンが並んでいる。
ここは喫茶店だったのだ。
店舗兼住居だから、わざと古びた感じの内装や建物だったのだろう。
そしてカウンターの向うには、作業をしている人がいた。
茶色い髪の青年だ。年齢的には二十歳半ばに見える。
年はグレイブと同じくらいだろう。でも彼よりもずっと小柄だ。
薄い緑のシャツに黒のベストを身につけた彼は、こちらに気付くと顔を上げて微笑んだ。中性的な雰囲気のその人は、笑うと女性と錯覚しそうだ。薄茶の瞳で、やさしげにエリヤを見つめてくる。
「おはようグレイブ。彼女も目が覚めたんだ?」
「ああ。ルヴェは?」
「もうすぐ来るよ。ラメル食べて待ってて」
そう言って青年はグレイブに皿をさしだした。カウンター越しにグレイブが受け取ったのは、フライパンで焼いた塩気のあるパン『ラメル』に、野菜や肉を挟んで二つに折ったものだ。
「持て」
それをグレイブがエリヤに渡してくる。
反射的に受け取ったエリヤだったが、二枚目の皿を受け取ったグレイブが、早々にカウンターに座ってしまうのを見て戸惑う。
すると喫茶店の店主らしい青年が声をかけてくれた。
「どうぞ座って、今飲み物も出すから。何を飲む? ……ってそういえば名前を聞いてもいいかな?」
「はい、あの、エリヤです。できれば紅茶を」
無いのならば仕方ないが、できればいつもと同じものが飲みたかった。日常と同じ行動をすることで、この混乱した心が落ち着くかと思ったからだ。
「いいよ。ちなみに僕はフィーン。グレイブの家の、一階を借りて喫茶店を経営してる者だ」
はじめまして、と自己紹介してくれたフィーンのおかげで、エリヤの小さな疑問がまた一つ解ける。
家はそもそもグレイブのもので、フィーンが店子というわけだ。
「そういえば、お前の名前を聞いていなかったな」
グレイブの言葉を聞いて、エリヤは今気付いたのかと驚いた。フィーンも呆れたようにため息をつく。
「普通、最初に聞くものじゃないかい?」
思わずエリヤはうなずいてしまいそうになった。
拾った相手がどういう相手か、普通は気になると思うのだ。思えば住所もなにもかも聞かれなかった。
が、グレイブの答えは予想外のものだった。
「後で書類を作る時に問いただせばいいかと」
書類? とエリヤはラメルに伸ばそうとした手を止める。なぜグレイブの書類とエリヤの名前が関係あるのだろう。
「仕事熱心だね」
フィーンはそう言って微笑む。グレイブは返事もしない。
だからなんとなく尋ねにくくて、エリヤは黙ったままラメルを掴み、食べ始めた。
甘酸っぱいソースが美味しい。
出してもらった紅茶とともに、エリヤは瞬く間にラメルを食べてしまった。
その間にフィーンが喫茶店の開店準備だろう。窓の雨戸をひとつずつ開けていく。
硝子は気泡の浮く小さな板硝子をいくつも組み合わせたもので、やはりエリヤに旧市街にある古い民家や、懐古的な雰囲気を売りにしたレストランを思い出させる。
―――と、フィーンがカウンターから出て店の出入り口らしき扉を開ける姿を目で追い、その先に見えた風景に目を丸くした。
「…………え?」
王都レネダは、近年編み出された魔法による柱造術を使って、一新した町並みが有名な場所だ。
ねじれた柱と、それに合わせて積み上げられた白灰色の石壁というのが、エリヤの知っている王都の景観の中にある建物だ。
が、それが一つも見あたらない。
全て赤茶けた煉瓦か、黒灰色の石を積み上げた建物ばかりだ。ねじれを描いて天へ伸びる柱が一本も見あたらない。
エリヤは思わず立ち上がる。
もっとよく見ようと、扉へ駆け寄った。瞼をこすっても、見えているものは変わらない。
それどころか、早朝らしい涼やかな空気の中、行き交う人々の服装もおかしかった。
煉瓦敷きの道を行く男性は、裾の長いジャケットの下にベストを着ていて、中にはマントまでつけている人もいる。女性は皆足首まである長いスカートで、肩にはエリヤなど身につけたこともないケープを羽織っている。しかも帽子の着用率が驚異的だった。しかも造花が必ずつけられた、古典的な帽子である。
そして次々に通っていくのは、ガリガリと音をたてる車ではなく、人を乗せた馬車だ。
「こんな町知らない……」
エリヤは愕然とした。
町並みが、自分の記憶とはかなり違う。
教科書で見たような近世初期――百年前の町並みだった。