3章 貴方のお名前教えてください 1
朝は卵焼きをのせたパンを食べるのがエリヤの日常だ。
珈琲は飲めないので、ミルクたっぷりの紅茶を用意する。
それを三分で腹の中に納め、道行く車をすり抜け、魔術技師の学校へ駆け出すのだ。
けれど今、鼻をくすぐったのは重たい香ばしさの珈琲の匂い。
また補講室でねむりこんでしまったのだろうか?
エリヤはうとうととしながら考える。
確かに昨日は、補修室にいた。その後、家に帰らなかったのだろうか?
もう少し眠りたい、と思いながらエリヤは上掛けの中へ潜り込む。
睡眠はエリヤの最も至福な時間だ。
なるべく長く堪能したいので、揺り起こそうとする手が肩に触れても、唸って抗議した。
けれどその手は、なおもエリヤを揺さぶってくる。
あげく呼びかけてきた。
「起きろ身元不詳人」
しかも見知らぬ、低い男性の声――
「……っ!!」
驚いて飛び起きたエリヤは、至近距離で藍色の瞳と目が合い、それが茶金の髪をした見知らぬ青年だと認識した瞬間、絶叫した。
「ぎぃやぁぁぁぁぁあああっ!」
腹から喉から空気を絞れるだけ搾って叫んだ後、エリヤは寝起きと酸欠でくらりとめまいがした。
そのまま、ばふんと寝台に転がり直した彼女を、金髪の青年は無表情に観察してくる。
釣り気味の目をした恐い表情で。
「見知らぬ状況に置かれ、見知らぬ人間と顔を合わせた際に叫ぶのは分かる。しかしお前には、今の自分の立場を思い出してもらいたい」
「自分の、た、立場って!?」
そんな言い方をされる状況など、小説で読んだ拉致された被害者とか、武装集団に乗っ取られた列車の客だとか、そんなものしかエリヤは思い浮かばない。しかもどちらにせよロクな物じゃない。
しかも自分の手には慣れ親しんだ銃がない。
誰か自分に銃を!
と言ったところで誰も渡してくれる人はいない。
抵抗できないなら命乞いしかない!
「こ、こここ、殺さないで! なんでも、なんでもするから!」
訳が分からないけど、きっと自分は犯罪に巻き込まれたんだ。そしてこの青年が犯人なのだ。
必死にエリヤは助命嘆願しながら、逃げ場所を探してわたわたと寝台の上掛けの中に潜り込もうとした。
が、
「まずは話を聞け」
両肩を押さえられ、寝台の上に仰向けにされた。
真正面から相手と目を合わせる羽目になったエリヤは、青年の冷たい眼差しに息を飲み、視線をそらすこともできない。
青年はややしばらく黙ってエリヤを見ていた。
同じように見返していたエリヤは、それ以上のリアクションがないことで、だんだんと状況に慣れ、青年の顔を観察する余裕がでてきた。
(綺麗な瞳)
目覚めた時にも思ったが、青でも水色でもなく、藍色というのは珍しい。黒とは違いながら、それでいて深く暗い青をしている。
気づいて見れば、容貌も整っている。目つきこそ悪いが、彫りが深すぎるのでもない顔立ちは、笑えば柔和に見えるかもしれない。今の所は綺麗だからこそ、魔王っぽい怖さを醸し出しているだけだが。
次いで、あ、肌綺麗だなと思った瞬間、エリヤの乙女回路が動き出した。
最近、実習のために泊まり込みばかりしていた疲れか、肌が荒れ気味なのだ。
人並みに恥ずかしいと思った後、心に溢れるのは原因となった記憶だ。
魔力が足りないのにこんな学校来るからだって、という言葉と嘲笑。
でもエリヤだって別に、なりたくて魔力が少なく生まれついたわけじゃない。魔力が少なくたって、実際に商売をする段になれば『銃技師』に魔力の有無なんて必要ないのに。
魔力の大小で蔑まれるなんて、悔しくて……。
だけど待ってエリヤ。そう自分に問いかける。
確かに朝は実習室で迎えてしまったけど、その後学校からは出たはず。
校門前で同級生に術式銃を使い、文字どおり煙に巻き、逃げたその足で両親の墓参りへ行ったはずだ。
王都東の河川敷から連なる丘の上にある墓地へ。
刈り込まれる前の伸び始めた初夏の草が、白い石に名前を刻んだ墓標を囲んで、風に揺れていたのを覚えている。
きらきらと水面が輝く川も。
「なのに私、どうして……ここに?」
その言葉に、エリヤがようやく落ち着いたことを察したのだろう。
青年はゆっくりと、落ち着いた声で答えた。
「俺が見つけた時には、道端に倒れていた。アヴィセント・コートにごく近い場所だ」
「あう゛ぃせんと、こーと……」
その名称にはちゃんと覚えがある。
コートとは宮殿のことだ。
墓地の近くにある、昔の離宮跡。むしろ墓地自体が、離宮を囲む広大な庭だった場所。
「倒れてた?」
首をかしげてみれば、気絶したような記憶は……あった。
墓地からの去り際に、変な幻覚みたいな光を見た。
さらにめまいがしたので思わずしゃがみ込み、気づいたら辺りは夜みたいに暗くなっていた。
何が起こったのかわからなくて、恐くて、家に帰ろうとしたけど体が上手く動かなくて。不安で銃を握りしめたまま……。
そこからの記憶がない。だからそのまま倒れたのだろう。
しかしエリヤは、グレイブの言葉に違和感をおぼえた。
「アヴィセント・コートへ向かう道?」
倒れたのは墓地だったはずだと思ったところで、こほんと咳が出た。
「風邪か?」
エリヤを押さえつけていた青年は、ようやく彼女を離してくれた。代わりにエリヤの額に手を触れる。
冷たくも暖かくもない手の感触に、エリヤは肩に力が入る。母親の手でも自分の手でもない。見知らぬ男性の手が自分に触れるなど、緊張せずにはいられなかった。
「それほど熱はないように思えるが……風邪の引きはじめかもしれん。とりあえず栄養をとるべきだろう」
やはり彼は熱を測っただけのようだ。すぐに離れていく大きな手を見送り、エリヤはほっと体の緊張を解く。
そういえば、今の状況はとんでもないのではないだろうか。
見知らぬ男性に拾われ、先ほどは寝台に押しつけられ、なぜか体調を心配される。
この人は誰なんだろう?
「あの、あなたは誰ですか?」
立ち上がった青年に尋ねると、彼は紺色の瞳をすがめてエリヤを見る。
「うっ……」
睨まれてるみたいで恐くて、思わずエリヤは息を飲んだ。だから彼の名乗りの半分しかちゃんと聞こえなかった。
「グレイブ…………だ」
ファーストネームだけ聞き取れた。彼はグレイブという名の人らしい。それだけわかっていれば問題ないかと、エリヤは考えた。
そして問題は、大抵後で発覚するのである。