後編
「学費をタダにする」という甘い罠。
これこそが、大人たちが導き出した最高に効率的で、最高に薄汚い和解の着地点だった。
幸いにも、この病院は薬学部の実習生が通う大学の付属病院。上層部が「身内のよしみ」で書類を一枚偽造し、裏で大学側と口裏を合わせれば、私が粉々に砕いた数百万の抗がん剤の破損事故は、すべて『薬剤部の実習生が、不注意で調剤室の棚を倒した過失』へと一瞬でロンダリングされる。
「そんな……私、あの時調剤室には入っていません……!」
翌朝、院長室へ呼び出された薬学部の実習生の女の子は、涙目で必死に訴えていた。
そりゃそうよね。昨日、私が調剤室へ殴り込み、抗がん剤のバイアルを片っ端から床に叩きつけていた時、彼女は調剤室でカルテを見ていただけなのだから。
「分かっているよ。だがね、これも君の未来のためなんだ」
院長はすっかり高級なワイシャツに身を包み、昨日の上裸土下座が嘘だったかのような、いつもの慈愛に満ちた「聖医」の顔で微笑んでいる。
傍らでは、昨日まであれほど息巻いていた薬剤部のトップが、苦虫を噛み潰したような顔で黙ってうつむいていた。身内の学生を身代わりに差し出し、病院の医療ミス(ゲフィチニブ誤投与・アセトアミノフェン過量投与)を隠蔽することでしか自身がこの病院で薬剤師として生きていくことができないとの悟ったのだ。コメディカルの限界なんて、所詮この程度。
「君の学費は残り全額、大学の奨学金名目で免除にする。その代わり、棚を倒したのは君だということにしてほしい。これでお互い、丸く収まる。……それとも何かね? 薬剤師国家試験の受験資格を失いたいのかい?」
「そんなの、脅迫です……! 警察に言います……!」
少女の小さな抵抗。その青臭い正義感が、私のサディズムをチクチクと刺激する。
本当に可愛いわね。でも、世の中にはね、「大きな力」ってものがあるのよ。
「リークしたら、どうなるか分かってる?」
私は彼女の背後に回り込み、耳元でそっと囁いた。
「あなただけじゃない。あなたの家族の人生だって、一瞬で消せる大きな力が働いちゃうのよ。おとなしく、傀儡になっておきなさい」
もちろん、口頭の脅しだけでは一流とは言えない。
昨夜のうちに、私は看護部のバックに控えている『一流の黒い集団』――いわゆる、プロの殺し屋組織へ、スマホで一本連絡を入れておいた。
彼らの仕事は迅速で、冷徹だった。
深夜、実習生の自宅の静かな庭に、サイレンサー付きの銃弾が数発、正確にぶち込まれた。朝起きて庭の植木鉢が粉々に砕け散り、地面に本物の薬莢が転がっているのを見つけた時、初めて自分がどれほど危険な世界の境界線に立っているかを理解する。
今日、調剤室に現れた彼女の顔は、幽霊のように真っ白だった。
先輩薬剤師たちに囲まれながら、ロボットのように機械的な動きで調剤補助を行っているが、その指先は小刻みに震えている。
リーク? 警察? 呼べるわけがない。自分の命、そして家族の命に本物の銃口が向けられたのだ。彼女はもう、私たちが動かすためだけの、完璧な「お人形」だった。
チーン、とナースコールが鳴り響く。
「はい、ナースステーションです。今すぐ伺いますねー!」
私はいつもの、優しくて頼れる白衣の天使の声を響かせる。
調剤室の惨劇は「薬学部の不器用な実習生による単独事故」として処理され、タグリッソの誤投与も、アセトアミノフェンの過量投与のカルテも、完全に闇へと葬り去られた。
身内の学生を生贄に捧げた薬剤部も、学費免除の書類にサインした大学幹部も、みんな一蓮托生。誰もが「何も見ていない、何も知らない」という顔をして、いつもの白い巨塔の日常を回し始めている。
通路ですれ違ったあの薬剤師の男は、私と目が合った瞬間、ビクッと肩を跳ね上がらせた。
そして、怯えきった目で視線を床に落とし、壁に背中をへばりつかせながら、私に道を譲った。
「ふふ、やっぱりチーム医療って素晴らしいわよね」
私はナースキャップを小さく直し、意気揚々と病棟へ歩き出す。
「お互い助け合って、最後はこうして、みーんな丸く収まるんだから。……ねえ、薬剤部の実習生さん?」
振り返ると、遠くの調剤室のガラス越しに、魂を抜かれた実習生が私を見つめていた。
今日も病院は、何事もなかったかのように、綺麗で、清潔で、平和だった。
この作品はフィクションです。実在の人物・団体とも関係がありません。




