はじまりの続き
異世界へ来てから二年ほどが過ぎていた。
空の帯は、まだ完全には消えていない。
ただ、人々は以前ほど怯えなくなっていた。弱った魔法を前提にした暮らしが少しずつ定着し、学院市では熱保持構造を取り入れた建物が増え、工房街では魔法補助と機械構造を併用した設備が当たり前になり始めている。王都からの依頼も増え、保存設備や輸送効率改善の相談は今では学院経由で定期的に回ってくるようになっていた。
もっとも、本人としては相変わらずだ。
商店の屋根裏倉庫部屋に住み、工房と学院を行き来しながら、時々妙な相談へ巻き込まれる。研究者なのか技術屋なのか、自分でも立ち位置はよくわからない。ただ少なくとも、最初の頃のように「明日食えるか」を心配する生活ではなくなっていた。
その日も、工房の隅で荷重補助機構の試作品を調整していた。
浮遊術式の効率低下以降、輸送関連の依頼は増えている。魔法頼りだった荷運びを、滑車や重量分散で少しでも補う仕組みを考えるのが最近の仕事だった。
「また変なもん作ってんな」
聞き慣れた声に顔を上げる。
門番だった。
少し歳を取った気もするが、相変わらず無精髭の似合う男だ。
最初にこの世界へ来た時、森で行き倒れかけていた自分を拾い、商店まで案内してくれた相手でもある。あの時この男が居なければ、多分今頃ここには居ない。
「仕事です」
「技術屋先生も偉くなったな」
「先生はやめてください」
軽口を返しながら、ふと門番の後ろへ視線が止まる。
若い男が居た。二十代前半くらいだろうか。
見覚えがない。
この街で二年も過ごしていれば、大抵の顔は覚える。商人、職人、学院関係者、出入りの人間。だが、少なくとも見たことのある顔ではなかった。
それに妙だった。
服装が。
薄汚れてはいるが、明らかにこの世界の物ではない。
灰色の上着、緩いズボン、擦り切れたスニーカー。そして何より、あの妙に懐かしい素材感。
ジャージだった。
思考より先に言葉が出る。
「……地球から来たのか?」
門番が何か言いかける。多分紹介しようとしたのだろう。
だが、その前だった。
若い男の顔が一気に崩れる。
安堵だった。理解されたという顔だった。
次の瞬間、声もなく泣き始めた。
張り詰めていたものが切れたのだろう。肩を震わせながら、子供みたいに泣く。工房の職人たちも空気を読んだのか、何も言わず少し離れていく。
門番が困った顔をする。
「街門で見つけたんだがよ。話が全然通じねえ。お前の時思い出してな」
少しだけ苦笑する。確かに似ていた。
知らない場所、知らない言葉、知らない世界。
あの頃の自分も、多分こんな顔をしていたのだろう。
しばらく待った。
無理に話を聞く必要はない。落ち着くまで、ただ水を渡して待つ。
やがて呼吸が整い始めた頃、工房の隅へ椅子を持ってくる。
「とりあえず座ってください」
若い男は小さく頷く。
目が赤い。明らかに限界だったのだろう。
話を聞けば、森で二日ほど迷っていたらしい。
食料も無い、水もまともに無い、眠ろうにも怖くて眠れない。
最初は興奮していたという。
異世界転移、ゲームみたいな世界、ステータス画面、魔法、特別な能力。
いわゆる“主人公”になれるのではないか、と。
元の世界では引きこもりだったらしい。人付き合いも苦手で、外にもほとんど出ていなかったという。
「でも……何もなくて」
絞り出すような声だった。
「ステータスも出ないし……魔法も使えなくて……」
笑えなかった。
その感覚は、少しわかる。自分も最初、魔法くらい使えると思っていた。
何か理由があると思っていた。だが現実は違った。
寒い、腹が減る、寝る場所が無い、生き延びるので精一杯。
異世界という言葉のロマンは、数日で消える。
若い男は少し俯きながら、小さく言う。
「……でも、もしかしたら、そのうち能力とか出るのかなって」
完全には諦めきれていないらしい。
少しだけ苦笑する。その気持ちも、わからなくはない。
「出るかもしれません」
そう言ってから少し続ける。
「でも、出なくても何とかなる」
若い男が顔を上げる。
だから工房を見回した。
職人たち、工具、弱くなった魔法を補う仕組み。
そして今の自分。
「自分も、何も無かったです」
魔法も、特別な力も、チートも無い。ただ、元の世界の知識が少しあっただけだ。
「でも、飯は食えるようになります」
少し間を置く。
「意外と、生きられる」
工房の外では、夕方の灯りが少しずつ点き始めていた。以前より弱い光、それでも消えない灯り。
門番が呆れたように笑う。
「お前、最初の頃より随分まともな顔するようになったな」
その言葉に少し笑ってしまう。
もしかすると。
帰る方法を探すより先に、こういう役目が増えていくのかもしれない。知らない世界で立ち止まった誰かへ、「大丈夫」と言う役目が。
それは案外、悪くない気もした。
感想お待ちしております。




