学院という場所
それから数日、紺色の外套を見かける回数は思っていたより増えた。
古い魔導具を買いに来るついでなのか、あるいは単なる好奇心なのか、店へ立ち寄っては試作品を勝手に触り、魔法の使えない異邦人について質問してくる。眠そうな顔のまま妙に細かいところを見てくる辺り、やはり研究者気質なのだろう。こちらとしても、この世界の魔法や学院事情について聞ける相手は貴重だったため、気づけば会話する時間が少しずつ増えていた。
その日の帰り際だった。
試作品の筆記具を指先で転がしながら、ふと思い出したように口を開く。
「学院、来る?」
唐突だった。
「前に言ってた“面白い人”、いる。あと本。設備も」
少し考える。知識は欲しいし設備も魅力だった。ただし、面倒事の匂いもする。
「見学だけなら」
「明後日。朝」
返事だけして、いつものように唐突に帰っていく。その背中を見送りながら、小さくため息をついた。
研究者というものは、世界が違っても距離感が少し独特らしい。
*****
学院へ向かう約束の日は、朝から妙に落ち着かなかった。不安というより、警戒に近い感覚だった。
知識が集まる場所には、たいてい権力がある。研究設備がある場所には予算があり、予算がある場所には利害関係が生まれる。大学も企業研究所もそうだった。優秀な人間ほど純粋ではいられず、純粋な人間ほど組織の面倒に巻き込まれる。
学院という場所も、おそらく例外ではない。もっとも、警戒だけで足を止める理由もなかった。
本があり、設備がある。そして、この世界を理解するための知識がある。帰れる保証のない土地で、それを無視する選択肢はなかった。
朝の荷運びを終える頃には、すでに気持ちは半分ほど学院へ向いていた。
店先へ積まれた木箱を片付けながら、通りを歩く人々へ視線を向ける。商人らしい男は浮遊術式のかかった荷車を引き、職人は腰に魔導具をぶら下げている。日常のあらゆる場所へ魔法が入り込んでいる光景は、見慣れてきたとはいえ、時折現実感を失わせた。
もし本当に帰れないなら、自分はこの文明の中で生きることになる。ならば理解しなければならない。
魔法とは何なのか。なぜ自分だけ使えないのか。それを知らないままでは、ずっと異邦人のままだ。
開店準備が一段落した頃、見慣れた紺色の外套が店先へ現れた。相変わらず歩く速度が少し早い。目的がある時だけ一直線になる人間なのだろう。
「行く」
短い言葉に頷き、荷物をまとめる。試作品の筆記具を数本、鞄へ入れた。
ただ知識を得るだけでは意味がない。この世界で価値を持つものが何か、自分の技術がどこまで通用するのかも見極める必要がある。
店主は奥から顔を出すと、少しだけ嫌そうな顔をした。
「面倒事に巻き込まれるなよ」
その言葉に少し苦笑する。研究機関というものは、外から見ると大抵面倒そうに映る。そして実際、大抵面倒だった。
「夕方には戻ります」
「商品案は忘れるな。飯の種なんだからな」
もっともだった。
理想だけでは暮らせない。研究も開発も、生活費の上に乗っている。
*****
学院は街の高台にあった。
城塞都市の中心部から少し離れた場所にあり、石壁に囲まれた建物群は、周囲より静かな空気をまとっている。市場や鍛冶場の喧騒は遠く、代わりに紙と薬品、それから古い木材の匂いが混ざっていた。
その空気が、少し懐かしい。
研究棟のような場所には独特の匂いがある。人が長時間こもり、考え、失敗し、何かを積み上げていく場所の匂いだった。
歩きながら周囲を観察する。建築様式は中世に近い。石造りの壁、狭い窓、急勾配の屋根。だが、その合間に奇妙な違和感が混ざっていた。
廊下の灯りは火ではない。
透明な鉱石が青白く発光し、炎特有の揺らぎも煤も見えない。さらに、荷物を運ぶ木箱がわずかに宙へ浮いて移動している。扉の中には、人が近づくと自然に開くものまであった。
技術水準だけで言えば、中世ではない。だが近代でもない。魔法という要素が、文明の枝分かれを別方向へ伸ばしている。
そんな印象だった。
地球で言えば、蒸気機関の代わりに別エネルギーで発展した文明を見る感覚に近い。
「珍しい?」
少し前を歩きながら振り返る。
「ええ。大学に少し似てます」
聞き返されそうな言葉だったので、すぐ補足する。
「学ぶ場所です。研究する人間が集まる」
少し考えたあと、小さく頷いた。どうやら大意は伝わったらしい。
*****
案内された研究棟へ足を踏み入れた瞬間、少し肩の力が抜けた。
机の上には紙束。壁には図面。棚には工具。床には誰かが途中で放置した部品。
片付いているとは言えない。むしろ散らかっている。だが、それが妙に安心できた。
研究というものは、あまり綺麗すぎる場所では育たない。何かを試した痕跡があり、失敗の残骸があり、途中の仮説が放置されているくらいが丁度いい。
世界が違っても、この空気だけは変わらないらしい。
部屋へ通されると、数人の視線がこちらへ向いた。年齢はさまざまだが、共通点がある。
少し疲れた顔。寝不足気味の目。何かへ集中しすぎた人間特有の、少しだけ現実から浮いた雰囲気。
研究者だった。妙な安心感がある。
面倒な人種ではあるが、行動原理が比較的読みやすい。
利益、権力、好奇心。
その中でも特に、好奇心へ偏りすぎた人間の顔だった。
やがて、年配の男が近づいてくる。白髪混じりの髪に、少し疲れた目をしていたが、観察するような視線だけは鋭かった。机へ置かれた筆記具へ目を落とす。
しばらく何も言わない。ただ構造を見ている。手に取り、重さを確かめ、紙へ試し書きをし、内部を探るように何度も角度を変える。
その仕草だけで、相手が技術者寄りなのだとわかった。物を理解する時、まず構造から見る人間だった。
「魔法なしで、これを?」
問い方には疑いより興味が強かった。
「使えないので、別手段を考えました」
その答えに、室内の空気が少し変わる。誰かが顔を上げる。別の誰かが手を止める。
魔法が使えない。
その事実は、この世界ではそれなりに珍しいらしい。
「どういう仕組みだ」
説明を求められ、少し考える。地球の工学をそのまま話しても伝わりにくい。
だから発想から話すことにした。
「手間を減らしただけです」
羽根ペンの欠点である、インク補充、汚れ、作業効率。
それらを順に説明していく。話しているうちに、視線が少しずつ変わっていくのがわかった。
否定ではない、理解でもない。前提が揺らぐ時の顔だった。
便利な物は魔法で作る。それが常識なら、魔法なしの改善は奇妙に見えるのだろう。
ただ一人だけ、年配の男は違った。
机へ肘をつきながら、どこか楽しそうにこちらを見ている。研究者特有の顔だった。面白い玩具を見つけた時の顔。
少し嫌な予感がした。
こういう顔をする人間は、大抵こちらを放っておかない。




