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境界線のワーカー  作者: くろねこ
第1章「桜」
6/10

6.それぞれの歩幅

初夏の風が、グループホームのカーテンを揺らしていた。

退院から二か月。

大きなトラブルはない。

小さな波は、何度もあった。

夜中の独語。

服薬の飲み忘れ。

近隣の視線。

でも、以前とは少し違っていた。

男性は、自分から言うようになった。

「今日、ちょっと怪しい」

"怪しい”とは、調子が落ち始めている合図。

桜はノートを開く。

「どんな感じですか」

「眠れない。考えがまとまらない」

「じゃあ、早めに主治医に相談しましょう」

隠さない。

一人で抱え込まない。

それだけで、再発の波は小さくなる。


ある日、男性が言った。

「コンビニのアルバイト、募集してた」

桜は顔をあげた。

「やってみたいですか?」

「分からん。でも、家賃は自分で払ってみたい」

"'できるが”ではなく、"やりたい"が。

それは大きな変化だった。

就労支援事業所とつなぎ、短時間から始めることにした。

初日は緊張で手が震えたらしい。

でも、帰り道にこう言った。

「怒鳴られなかった」

桜は笑う。

「新人ですからね、外の世界の」

「俺が?確かにな」

男性は照れくさそうに笑った。


その帰り、桜は気づく。

自分も、前より焦らなくなっている。

以前は「悪化させたら、失敗させたら…」

そんな不安でいっぱいだった。

今は違う。

失敗しても関係は続く、やり直せる。

それを目の前の彼が教えてくれた。


数日後、実家から手紙が届く。

「この前はありがとう。体に気をつけて」

父の字だった。

多くは語らない。

劇的に変わるわけでもない。

でも、あの日、境界線を引いたからこそ、少しだけ風通しがよくなった。

許したわけでも、忘れたわけでもない。

ただ、自分の人生を取り戻した。


夕方、グループホームの前で男性が言う。

「天瀬さん、俺さ」

「はい」

「迷惑かけながら生きていくわ」

桜はうなずく。

「私もです」

二人で笑う。

再生とは、に戻ることではない。

傷を抱えたまま、新しい形で立つこと。

完璧じゃない。

不安定でもいい。

それぞれの歩幅で、それぞれの速度で。

桜は空を見上げる。

もう、"いい子”でいなくてもいい。

支援とは、相手の人生を信じること。

そしてーー

自分の人生も、じること。

風が、やわらかく吹いていた。

とりあえず第1章というところが完結した気がします。

ちなみに私も桜みたいに成長したいです。

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