5.父との関係
父から電話がかかってきたのは、珍しいことだった。
「.....母さんが、少し体調崩してな」
ぶっきらぼうな声。
昔と同じ調子。
胸の奥が、条件反射のように固くなる。
"機嫌はどうだろう”
"今日は荒れていないだろうか”
もう大人なのに、身体は覚えている。
実家のドアを開けると、アルコールの匂いはしなかった。
それだけで、少しだけ息がしやすい。
母は軽い脱水だった。大事には至らないらしい。
台所で、父と二人きりになる。
沈黙。
桜は気づく。
患者との沈黙は怖くないのに、父との沈黙は、いまだに苦しい。
「......仕事はどうなんだ」
不意に父が言う。
「精神科の、相談の仕事」
「大変そうだな」
それだけ。
昔なら、その一言の裏を必死に読んでいた。
否定か、皮肉か、無関心か。
でも今日は、少し違った。
「うん。大変」
桜は正直に答える。
「怒鳴られることもある。失敗もある」
父がグラスを置く。
「向いてるのか」
その言葉に、胸が揺れる。
昔なら、「向いてるよ」と即答していた。
"安心させる娘”として。
でも今は、違う。
「分からない」
父が顔を上げる。
「分からないけど、やりたい」
初めて、評価を求めない言葉だ。
しばらくして、父がぽつりと漏らす。
「俺は.....怒鳴るしかなかった」
遥は固まる。
「仕事も、家も、うまくいかなくてな。
どうしていいか分からなかった」
言い訳なのか、後悔なのか。
判断しようとする癖が、少し顔を出す。
でも桜は、支援者の顔にならないように気をつける。
分析しない。
整理しない。
ただ、聞く。
「お前には、迷惑かけたな」
その言葉を、何度夢に見ただろう。
謝罪が欲しかったわけじゃない。
でも、“なかったこど"にされるのが苦しかった。
桜はゆっくり言う。
「怖かったよ」
声が震える。
「ずっと、怒られないように生きてた」
父は黙る。
部屋の時計の音だけが響く。
「…そうか」
それ以上の言葉はなかった。
劇的な和解も、抱き合うこともない。
でも、桜は気づく。
今日、自分は”いい子"を演じなかった。
怒りも、悲しみも、静かに出せた。
帰り道、夜空を眺める。
父は変わらないかもしれない。
分かり合えることもないかもしれない。
でも、自分は変われる。
「怒ってもいい」
「迷惑をかけてもいい」
あの日、患者に言った言葉が自分に響く。
支援とは、境界線を引くこと。
相手の課題と、自分の課題を分けること。
父の人生は父のもの。
自分の人生は自分のもの。
桜は、確かに自分の足で自分の道を歩く。




