4.境界線の内側
夜、桜は実家の最寄り駅で降りた。
めったに帰らない。
けれど今日は、なぜか足が向いた。
父は酒癖が悪かった。
機嫌の波が激しく、家の空気はいつも読まなければならなかった。
怒鳴り声の前兆。
沈黙の重さ。
母の視線。
「いい子でいれば、荒れない」
それが、桜の処世術だった。
グループホームでの男性の言葉が、頭から離れない。
「迷惑をかける」
その言葉に、なぜあんなに胸がざわついたのか。
桜は気づき始めていた。
自分は"支援”をしているのか。
「迷惑をかけない人間であろう」としているのか。
翌週。
男性が通院に同行を求めた。
待合室で、彼が突然言う。
「桜さんってさ、怒らなさそうだよな」
「そうですか?」
「怒ったら怖いタイプだろ」
桜は一瞬、言葉に詰まる。
怒りは、出してはいけないものだった。
家では、怒りは爆発するものだった。
だから、自分の怒りは、感じないようにしてきた。
「.....怒るの、苦手なんです」
正直に言ってみる。
男性は頷く。
「俺も。怒ると嫌われると思ってた」
桜の心臓が、強く打つ。
同じだ。
形は違えど、周りから
''嫌われないために生きる''ということ。
その日の夜、桜は初めて先輩に話した。
「私、距離が近すぎるのかもしれません」
「私、役に立たないと存在価値がないような気がします」
先輩は黙って聞いていた。
しばらくして、先輩は静かに指摘した。
「クライアントの課題と自分の課題が混ざってるね」
「支援は"救うこと"じゃない。
背負わずに、一緒に立つこと。」
桜は目を伏せる。
それは、ずっとできていなかったこと。
数日後、また男性がトラブルを起こした。
今回は怒鳴り返してしまったらしい。
遥は深呼吸してから部屋に入る。
以前なら、「どうしてですか」と焦っていただろう。
でも今日は、違った。
「怒ったんですね」
男性は目をそらす。
「......ダメか」
「ダメじゃないです。怒ることは」
自分に言っているようだった。
「ただ、どう出すかは一緒に考えましょう」
男性は、少し驚いた顔をした。
「怒ってもいいのか」
桜はうなずく。
「私も練習中です」
それは支援の言葉でもあり、自分への宣言でもあった。
私は、支援することで過去をやり直そうとしていたのかもしれない。
でも、やり直す必要はない。
あの家で身につけた"空気を読む”は、今、誰かの役に立っている。
傷は消えない。
でも、形は変えられる。
支援とは、
相手の人生に伴走すること。
そしてーー
自分の人生から逃げないこと。
桜は歩く。
今度は、自分の足で。




