瑠璃の馬
どこかの国の何かしらのお話
初めての空港は、その国を象徴する香りがするという。
高校時代に校長先生が朝の集会で主張していた。
私なりに校長先生が伝えたかったことを反芻してみる。
鮮やかな青い空間に、水のせせらぎの奥にトーテムポールが佇んでいて、別の便から降り立った人々のいきれに包まれる。
もちろんイミグレへの道のりは乗客の顔ぶれも日毎に違うだろうから、仮に慣れた職員であってもその新鮮さを分かち合うことができよう。
私の新しさと、その土地に固定されている新しさが掛け合わさることで、また新たな新しさが膨張して融合する。
知らぬうちに脳が活性化されて、普段は心の隅っこで眠っている第六感が目を覚ます。
そうした具合に強化された嗅覚が、ニオイ成分を象徴的に取り扱うのかも知れない。
子どもが待ち時間にくつろぐプラスチック製の車のオブジェに入ってセルフィーを撮るカップルの姿もまた新しさに感化された対象と思えば当たり前だと相対化できよう。
「さて、レンタカーを借りねば」
海外シムに付け替えたスマートホンが呼吸を開始する。
第二ターミナル出口には砂利が敷き詰められた区画に国旗がはためいている。
どうやら国旗のある方向とは反対の道を進まねばならないようだ。
スマートホンがない時代には地図を片手にあーだこーだ言いながら旅人たちは彷徨っていたのか。
レンタカー屋に行くにはまずはシャトルバスに乗らねばならなかった。
メールで送られてきた写真は不鮮明だったので、テキストを翻訳しながら特定することを強いられた。
緑の看板が目印だと書かれているけれど、緑の看板などどこにもない。
「緑、看板、どこ」
目の前で空を見上げていた空港職員に尋ねてみる。
「それはーーーーのーーーー右ーーー角ーーーときー見る」
断片的にしか聞き取れなかったが、彼の指をさす方角に向かって歩みを進めればやがて右手に緑の看板が現れるのではないかという期待が生じる。
曖昧に感謝の意を表明して、私は言われた通りの道を進む。この道はさっき国旗があったところとは反対側に位置するから、あながち間違いではなさそうだ。
念のためレンタカー屋に電話をかけてみる。
すると人工的なアナウンスが流れ、ガイダンスに従って目的のダイヤルをプッシュせよ、とのことだ。
私の目的とはなんなのか。改めて言語化したところで、ガイダンスの趣旨とマッチするかどうかは不明確だ。
そこで適当に「1」を押してみた。
おそらく私と何かしらの担当者が会話をすることで、そこで合っていればそのまま話は進み、誤りであれば目的に合わせた別の担当者に取り次いでくれるのではないか、などといった打算が芽生えた。
そうこうしているうちに緑の看板が現れた。
思いの外小さな看板は、目立たないなりに異彩を放っている。
「こちらポートサイドーーーご要件をーーー」
「私、緑、看板、来た、待つ、バス、ここ」
「緑の看板ーーーーターミナルーーーーーーーーーーー」
「来た、待つ、バス、ここ」
「ーーーーーーーー会社ーーアベダブーーわさ」
「わさ?」
「それーーーピクーーーでん」
電話は切れた。
私は二度、ここで待つことを繰り返した。
それだけで意図は伝わるに違いない。
むしろそうでなくては困る。
伝わらなくても伝わっててほしい。
もはや合理的解釈を無視した祈りに近いことを考えている。
「やあ」
青い顔をして途方に暮れる私に対して、同じくらいの大きさのスーツケースを抱えた異国の男が声をかけてきたのはそのときだった。
「ヒアーーー?」
私はなにも分からない素振りを見せつつイエスと首を振った。
「ソーリー?」
この異国の男は控え目な香水のニオイを引き連れて、さらに私に近寄ってくる。
「あー。アイムノットシュア」
「オー、ーーーウォーリーーーー」
至近距離を保ったまま私と異国の男は隣り合わせになっている。
まさか校長先生が語っていたニオイとは、青リンゴと生ハムを混ぜて発酵させたこのニオイのことを言っていたのではあるまいな。
異国の男はハンドバッグをまさぐると、湯気で紙が濡れたホットサンドを取り出した。
紙を剥いて豪快にかぶりついている。レタスの破片が飛び散り、トマトがぷちゅっと潰れる。
早くホテルに着いてシャワーを浴びてユーチューブを観ながらベッドでゴロゴロしたい。
私は機内で見終わらなかったケードラマの続きに全意識を集中させる。
「カニヒミーーー?」
また異国の男が話しかけてきた。
「アイ?」
「ーールクーーーヤード、アイルーーージュージスワンーーーホーユー」
目の前にホットサンドが差し出される。彼は二つ購入していた。そしてなぜかそれを私にくれそうな雰囲気を出している。
戸惑いを隠せない私に、笑顔でホットサンドを押し付けてくる。いや、実際には軽く差し出されているだけなのだが。
「あー、テンキュー」
私は受け取ってしまった。
チーズの溶けて固まった様子に思わずヨダレが出てくる。
機内食は到着前には提供されなかった。
私は誘惑に負けた。
「ルックーーー」
異国の男は満足そうに頷き、遠くを指差す。
えんじ色のバスがこちらへ向かってくる。
いつの間にか私たち二人のほかに、数名の旅人が列を作って待っていた。
バスの運転手がキューアールコードを読み込むと、私たちは空いている座席に腰掛ける。
私は紙を剥いてホットサンドに口をつける。
こころなしか青リンゴっぽいニオイが気になるが、それは包装紙が吸着した異国の男のニオイだろう。
バスの扉が音をたてて閉まる。
不思議なことに異国の男はバス停に立ったままでいる。
「え?」
笑顔で手を振る彼に目が釘付けになったまま私は驚きを隠せない。
バスが動き出す。
彼の姿はどんどん小さくなっていく。
私の隣でグミを頬張る少女も彼を見送る。
「ーーーズユアフレンド?」
少女は無邪気に私に囁く。
「ヒー、エイント、マイ、フレンド。メイビー」
(了)
ホットサンドは美味しい




