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夜明けと共に店内の明かりが灯る「はじまり亭」。
店主の日和が1人で営むこのお店は、朝ご飯専門の食堂。
決して大きくはないこぢんまりしたお店。
木の温もりを感じられる店内は、心がホッとあたたまるような空間が広がっている。
ただし、このお店にはある注意書きが一つ。
『このお店は礼儀がありません。予めご了承ください――』
私の朝は絶望からはじまる。
大音量の目覚ましの音でなんとか目覚めると、このまま起きたくない。と一旦布団に顔をうずめた。
気が重くなる理由は、きっとまたアレが準備されてる気がするから。
鳴り止まないアラームを手探りで止めて、ここでやっと目を開ける。窓から感じる外の光が視界に入り、盛大なため息を吐いた。
それから鉛のように重い体を引きづりながら、リビングへと向かう。
「あ、千帆起きたの! おはよう」
先に起きていたお母さんは、洗面所とリビングを速足で行き来しながら慌ただしく支度をしている。
お母さんは大手化粧品会社で働いていて、普段から忙しいみたい。私が起きる時間に家を出ることも多い。
「……ああ、うん」
まだスイッチが入らない私は、ぼそっと返事をする。
「じゃあ、お母さん行くけど。ご飯はここに置いてあるから。学校はしっかり行きなさいよ? 戸締りしっかりね」
身支度を終えたお母さんは、すぐにでも家を出たいのか早口で言い捨てる。
テーブルに視線を落とした瞬間、思わずため息がこぼれた。
ああ、やっぱり。嫌な予感があたってしまった。
並べられていたのは、ほうれん草とベーコンの炒め物。そしてオクラと豆腐の入った味噌汁。
おそらく誰から見ても健康的なご飯。だけど、私の1番嫌いなメニューだ。
無意識のうちに「はあ」と深めのため息をついた。
ほうれん草の苦みが嫌いだし、オクラがたっぷり入った味噌汁も正直好きじゃない。
この献立が出てくるのは、初めてのことではなかった。それどころか昨日も同じだ。このメニューは苦手だと、前にもお母さんにはっきり伝えたはずなのに。
「……この献立嫌いって言ったよね?」
改めてそう口にする。顔をあげてお母さんを見ると、視線が合わなかった。私のことなんて見てなくて、スマホをじっと覗き込んでいる。
その瞬間、ぎゅっと胸が締め付けられて息がしづらくなる。
普段からお母さんは時間に追われていて、私の話をあまり聞いてくれない。きっと「この献立嫌い」と伝えたことだって、覚えてないんだ。
「……ねえ!聞いてる?」
耐え切れなくなった私は続けて言うと、やっとスマホから視線が離れた。
「あ、ごめん。どうかした?」
「だからね……私、ほうれん草とオクラが苦手って……」
「ちょっと待って!」
全て言い終える前に、言葉を消されてしまう。そして私を見ていた視線は、数秒でスマホへと戻っていた。
「お母さん、もう出るね! ちょっとトラブル発生したってメッセージが来ててさ」
「でも……」
「その話は、私の仕事に支障が出てもいいくらいの話なの?」
お母さんの口調が鋭くなる。それはまるで、時間を取らせるな。そう圧をかけているように感じる。
いつも忙しそうで私の話を聞いてくれないことなんて、今に始まったことじゃない。
こんな対応は慣れっこだ。だから言いたかった言葉はぐっと飲み込む。
「……もういい」
「そう……。じゃあ、千帆もしっかりご飯食べて学校行くのよ? いってきます」
玄関から聞こえた陽気な声に、私は返事をしなかった。これがせめてもの抵抗だ。
お母さんがいなくなった部屋を見渡すと、やけに静かに感じる。
お母さんは、私のことを見てはくれない。
一日のうち、私を見ている時間より、スマホを見ている時間の方が明らかに長いと思う。
今だって、目が合った時間は何秒あっただろうか。
こんなに近くにいるのに、一番近い存在なはずなのに……。お母さんの瞳に私が映ることはない。
――ここにいる私の存在が、まるで透明人間みたい。
お父さんは私が小さい頃に病気で亡くなったらしい。私の記憶には面影もないくらい。
そのくらい前から、私とお母さんはずっと2人暮らしをしている。
お母さんが忙しくしているのは、食費、家賃、たくさんのお金のかかる生活のため。女手一つで育てることは簡単なことじゃない。そんなことくらい私にだってわかる。もちろん感謝だってしている。
だけど、いつも返事は適当な相槌だけで、私の話なんて聞いてくれない。
散り積もった不満は吐き出せないまま。いつのまにか私の心を圧迫するほどに、肥大化してしまった。
「残すのも良くないってわかってるけど……」
せっかく作ってくれたんだ。食材も粗末にしたいわけじゃない。
そう思い直して、ダイニングテーブルの椅子に腰を下ろした。それから箸を持ってみる。だけど、そこからなかなか箸が進まない。
そうだ。気分転換にテレビを見ながら食べようかな。無音が少し寂しくて、テレビをつけることにした。
ちょうど放送されていたのは朝ドラだった。
このドラマは、昭和初期を舞台しているようで、円卓を家族で楽しそうに囲んでいる。
これが家族団らんかあ。そう思った途端、胸がちくりと痛んだ。
お母さんとこんなふうに、笑いながら一緒にご飯を食べたのっていつだっけ。
思い返しても、すぐには思い出せなかった。
「……いいなあ」
自然と心の声が飛び出した。私の生活に不足している光景に、嫉妬心が胸にこびりつく。
しばらく考えた末に、持っていた箸をテーブルの上に降ろした。
「……今日も食べなくていいや」
こんな感じで毎日一度は向き合おうとしてみる。だけど、どうしても食べる気にはなれなかった。
罪悪感がないわけじゃない。朝ご飯だって自分で準備して、適当に済ませればいいだけ。
悲しくなってしまうのは、自分の存在がないような気がして。
お母さんが私のことを気にもしてないという事実が、なにより胸を苦しめた。
「学校行く前にコンビニで適当に菓子パンとか買えばいいよね……」
無理やり自己解決をして、テレビの電源を消した。
時計を見ると、そろそろ私も家を出なければ学校に遅刻してしまう時間。
慌てて制服に着替えて、身支度を整える。
「いってき……」
玄関で靴を履きながら「いってきます」そう言おうとして言葉が途中で絡まった。後ろを振り返ると、静寂の広がる真っ暗な部屋。
ここで言ったところでただの独り言になる。
なんだか無性に空しく感じて、無言のまま家を後にした。
「……暑っ」
外に出ると、照りつける太陽がジリジリと体を刺してくる。
早くこの暑さから逃れたくて、学校に向かって速足で歩き始めた。
しばらく歩くと、汗が首をツーッと伝っていく。空を見上げると、まだ朝だというのに太陽の主張が強い。
手のひらで目元を覆ってみるけど、強い日差しはそんなものお構いなし。じわじわと体力が吸い取られていくようだった。
いつもと同じ通学路、いつもと同じ時間。
普段と変わらない日常の延長。のはずだった。
……あれ?
突然くらっと目の前が歪んだ。そしてずきんと頭に激しい痛みが走る。
目眩がしたと同時に足の力が抜けて、その場にしゃがみこんでしまう。
あ、これやばいかも……。
やっぱり朝ご飯を抜くべきじゃなかった。
頭を押さえながらも、どこか冷静にそんなことを頭の中で考えた。
なんとかバックからスマホを取り出そうとする。しかし、手の力が抜けてうまく動かせない。
視界に映るアスファルトも、ぐるぐると歪んで見えてきた。
気が遠くなって、物音がすっと私の世界から遠のいていく――。
「大丈夫ですか?」
動けなくてしゃがみ込む私の頭上から、声が聞こえた。
声を頼りになんとか顔をあげる。すると、誰かが屈んで私を覗き込んでいるのが見えた。
だけど視界が揺れて、顔がよく見えない。声の質から女性だとは思う。
「……だ、大丈夫じゃない、かも」
やっと絞り出した声は、声を掛けてくれた女性に届いているかも分からない。
「……わたし……おみせ、いきましょう」
目の前がだんだん暗くなっていく中、女性の言葉がツギハギみたいに聞こえてくる。なんて言われているのか、はっきりとは頭が理解できない。
けれど柔らかな声に安心感を覚えた私は、最後の力を振り絞ってゆっくり頷いた。